第九話「悪鬼は獅子と戯れる」(3)
……そう。優劣は、決した。
崩壊と破綻は、先手、朧陽神が動いた時点から既に始まっていた。
クヌギ林に身を潜ませていた朧陽神は、低い鼻をひくつかせながら、まだかまだかと信守勢が山の中腹に至るのを待っていた。
そもそも待機や静観というものは、彼の気質には馴染みのない言葉である。
陽神の父、月秀はかつては孟玄府のみならず、『順門崩れ』における官軍の帷幄に招かれるほどに著名な謀臣であった。
その言動には問題があったし、人望も薄く、孟玄府公の信任を得たのも、そもそもが彼が府公の妹婿であったことによる。
それでも、彼は大役に耐えうる知恵者であったと言って良い。
その知恵者の子息は、どこをどう間違ったのか、勇将、ともすれば猪武者の一歩手前という性分であった。
だが、父親から受け継いでいる部分もある。
直情的で、粗雑で幼稚、必要以上に他人に攻撃的。容貌こそ快男児ではあるが、思考や感情と直結したような言動は、常に相手を不快にさせる危険性を孕んでいる。
その辺りは、父親の悪い部分を手本としていた。
彼が、義兄の忠告という鎖から解き放たれた時、自制できなくなるのは自明の理であったかもしれない。
「中腹に馬上の大将を確認!」
「よし、行くぞ!」
勇んで林から出ようとする彼を、家臣たちは言葉と手を尽くして諌めた。
「お待ちくださいっ、ここは各隊との連携が肝要、まずは最も身近な砂道勢にご一報を」
「そんな細々したことしているうちに勝機が過ぎちまう!」
そう拒んでいる矢先、ふいに林の向こう側の群影が、ぴたりと動かなくなった。
「おい、まさかこちらの存在に感づいたんじゃないのか」
そして周囲を警戒しているのではないか。陽神は自らの思案と焦燥をそのまま口にし、
「こうしてはいられんッ、仕掛けるぞ!」
と左右から伸びた手を振りほどき、自ら刀を抜いて徒歩で駆け出した。
勇敢な大将殿に続け、あるいは蛮勇をお諌めせねば、とにかく見殺しにしてなるものか。
彼の家臣団の思惑にはそれぞれ差異はあったが、皆彼の後に続く以外に術はなかった。
……その先駆けがこの戦の帰趨にどのような影響を与えたのか。それは向後のいかなる史家であっても判別がつかないところであろう。
そして陽神自身もまた、彼の勇み足の是非を問うことはなかった。
否。問う機会など、この時点で若武者には与えられていなかったのだ。
林から姿を現し、長蛇の敵勢に斬りかかる彼らは、接敵の寸前に足を止めた。
勇将朧陽神でさえも、その驚愕と困惑の中にあっては、平時の勇ましさはかき消えた。
ありえねぇよ、と彼は心の中で何度も呟いた。
彼にとって義兄、天童雪新の戦略眼は絶対なものであった。
予言をすれば当たる。兵を動かせば敵は必ず打ち破られた。
常勝の黒獅子の言うことには、敵はこちらの接近に気づかず、無様に横腹を晒し、それは自分たちの攻撃によって散々に破られているはずであった。
――じゃあ……じゃあなんで目の前のあいつらはオレらの方を向いてるんだよ!?
山上には、悪鬼がいた。
馬に乗り、将の体をなしたその鬼は、唖然とする彼らを見てせせら笑った。
彼の左右には、主と同じ方角を、眼下の朧勢へと視線を注いでいた。
ゆっくりとその男、上社信守の右手が持ち上がるのが、わかった。
その手が何を指示したのかは、一瞬後に分かった。
坂を下りて殺到する五〇〇〇の将兵の波は、三〇〇〇の朧勢の不意を打ち、瞬く間に彼らを飲み込んだのであった。
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喧噪と狂乱の中、上社信守はつまらなさげに、自ら斬り捨てた大将を見下ろしていた。
自分よりも年下の若者であったそれに向けて、
「た、大将首じゃ!」
殺到する雑兵たちに、かの禁軍第五軍大将は鞍の上より「捨て置け」と命じた。
「今回の夜戦は速さが肝要。……重しをつけて、その重しと同じ末路になろうてか?」
ピタリと止まる手の群れを、フンと鼻で嗤いながら、
「そんなもの見せずとも、褒賞は本来の倍やる。やるからにはお互い生きて後日にまみえなくてはならん。まずはこの場を一掃。逃げる者は追うな。進路が確保でき次第、次へ向かう」
信守が言うよりも早いか、道を開いた禁軍は、そのまま山道を東回りに迂回した。
兵馬を急がせる道中にて、
「次、と申されますと……江名勢ですか」
「そうだ」
「次いで、雲木勢を、と」
傍らにある高針甚内が信守の意見を先回りするような言い方をした。
元は佐古家臣であったが、当主直成の独立に反発して戻った一味の急先鋒。急ごしらえの迎撃軍においては、新参の部将である。
信守はその年若い新人の意見を、否、とした。
「雲木八角は今ごろ、俺たちが元いた場所に向かおうとしているところであろうよ。江名勢は急変を告げるために、その一本道に逃れる。それを追い立てて、終いよ」
「……では」
そうなると、敵勢は合流し、せっかく『わざわざ』『自分たちのために』主戦力を四つに分散し、各個撃破の好機を作ってくれた『好意』が無駄になる。
当初の軍議でも、そういう意見が出たには出たが、
――雲木八角は諜報の達人だとか。だが、尻の青いガキに情報を収集してもそれを吟味する判断力と、拡散させても収束させるだけの統率力が、果たして備わっているのか?
信守は嗤い、長刀をかざして暗黒の中で馬を駆る。
「遊んでやるよ、利口ぶった糞餓鬼ども」




