第九話「悪鬼は獅子と戯れる」(2)
そして決行日はやってきた。上社信守は夜半、確かに触里山砦に来襲した。
この時節と土地柄にしては珍しく、底冷えするような寒さではあった。ただし、風はなかった。
月明かりは分厚い黒雲に遮られ、当分は顔を覗かせそうになかった。
「ありがたい。天恵だよ」
涼やかにそう呟いた天童雪新は、かの山砦に手勢二五〇〇と共に身を潜ませていた。
元朝廷領、触里山砦は元は始祖布武帝が自ら縄張りと建築を手がけた自然の要害である。
軍事には向いていても、平時においては往来に不便で役に立たぬ。おそらくはそこを管理していた城代は、そのように考えていたのだろう。
――それが、僕らにとっては好都合だった。
空城同然となっていたのを禁軍潰走の隙を突いて奪取し、兵糧を集めさらなる前進のための橋頭堡としたのである。
後背には切り立った崖が待ち構え、唯一の攻め口である南正門に続く道は、一本の道があるのみであった。
天童雪新自身が説明した通り、寄せ手はここで封じ込められれば、まず全滅をまぬがれまい。
――だから、上社信守は拙劣な虚報で僕らを遠ざけようとしたんだろうね……
彼の描いた具体的な作戦案は以下の通りであった。
まず本隊一七〇〇〇のうち、七〇〇〇を各勢の要請通りに分散して派遣。
だが一万は手元に残し、これをさらに四つに分けた。
砦より南東のクヌギ林に潜ませたのが、猛将朧陽神ら三〇〇〇。これが先駆けとして長蛇となってうかうかと進む敵の脇腹を突く。
次いで左側面より、雲木八角の神速部隊が切り込み、敵を撹乱する。
自身の作戦の看破とこちらの逆襲を知った信守は、すぐさま来た道を戻ろうとするだろう。
だがそこには既に回り込んだ砂道木金の二五〇〇が待ち受けている。手堅い戦をする『四輪』の智者による、後方遮断。蟻一匹も漏らすまい。
そうして右往左往している敵勢にとどめを刺すべく、城からこの二五〇〇が突っ込む。
まさに万軍を余さず使いこなす、絶妙の布陣、と彼も自負するところである。
やがて、喚声が聞こえてきた。
次いで武器がかち合う金属音が目と鼻の先で鳴り響き、やがて混乱と悲鳴に変わる。
「戦闘が始まった模様ですっ!」
物見からの報告にウンと頷き、少年府公は自らが跨る黒毛の軍馬のたてがみを撫でた。
「まだだ」
突入の機は、まさに終局という、その時だ。
耳をそばだてる。左右からの報告を脳髄に取り込み、肌で、刻一刻と変化していく戦場の空気を肌で感じる。
やがて彼の白い肌に、雷にようなものが駆け巡った。
目と鼻の先の狂宴が、最高潮に達したその瞬間、彼は馬の腹部を蹴った。
前脚を持ち上げて勢いづく愛馬を御しながら、彼は凛と声を張った。
「黒獅子、参るッ! 皆、かかれ!」
敵将信守の出現を言い当てた彼に、もはや異論を唱える配下はいなかった。
美貌の軍略家を武神と崇め、彼に対する己の信心を雄叫びに変えて、一丸となって突っ込んだ。
彼らに先んじて切り込んだのは、他ならぬ天童雪新本人。
その異名にそぐわぬ、漆塗りの黒胴が夜闇に溶け込むようであった。
刀を抜いて敏捷に強襲を行う姿はまさしく、牙を研いで飛びかかる漆黒の神獣の化身と言うべきであった。
正面の雑兵が、驚き馬上の大将に雪新の来襲を伝える。
身振り手振りで制止を求める彼らに、フ、と彼は笑顔を手向けた。
長さ三尺(およそ一メートル)にもおよぶ長剣が、天童雪新の愛刀であった。
勢いをつけたそれが、瞬く間に狼狽する将兵を斬り捨てる。
優越感と勝利の確信を得た一斬は、さらなる狂乱を招く。
切り裂かれた兵たちを恐怖と絶望のどん底に突き落とした。
そして、わずか一夜にして、上社信守と天童雪新の将としての優劣は決したのであった。




