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第七話「見送り」(2)

 それは、ある冬のこと。透き通った昼空の下でのことであった。

「おい」

 と、いつものように、男は部屋住みの女に声をかけた。


「なんだい」

 と、女もぞんざいに、平然と、その屋敷どころか一帯の二十万石を差配する男に目を向けた。


「お前、嫁になれ」

 前触れもなく唐突に男にそう言われ、

「良いよ」

 と、これまたあっさり女もまた承諾した。


 貴船我聞が上社信守と喫茶していた時のことであった。

 あんぐりと口を半開きにする彼をよそに、彼の主人と彼の養女とは、いともたやすく婚姻を結んだのである。


~~~


「戦に出る」


 この男の言動は、いつだって唐突であった。

 突然で、不躾で傲慢で身勝手で……発する言葉それ自体は短いのに、対する非難には事欠かない。


 はいはい、と慣れた調子で、上社信守夫人は答えた。

 布団に足を埋めたままに。

 信守邸の奥の間。

 いつものように、嵐のように急に姿を見せた禁軍第五軍の将は、手ずから粥など作り、侍女たちを唖然とさせた。

 まるで、他人を驚かせるために生きているような男。夫人は自らの良人をそう評した。


 自身を娶ったことさえそうだ。

 そもそも彼女は本来良家の令嬢などではない。

 『順門崩れ』の際、海賊活動をしていたところを捕縛された、言わば卑賤の出という身である。

 それのどこが若き信守の琴線に触れたというのか。あっさり解放されて、後日屋敷を頼った際には、否とも言わず受け入れてもらえた。


 変な男。ためらいなくそう言った彼女に、貴船我聞は嘆息した。

「すんなり受け入れるお前も大概だろう」

 と。

 なるほど割れ蓋にとじ蓋ということか。


「どうしような。出るのも億劫だ。いっそいつものように怠けてしまおうか」


 その王朝きっての変人は、冗談めかしくそう言いながら、粥に生卵とネギとを混ぜて、妻の口へと運んだ。

 夫人は苦笑して匙を口の中に招き入れた。

 そして自身も、匙を奪って、信守の口へと押し当てる。

 ……もうほとんど手に力の入らないことを、ひた隠しにしながら。


「不味いな」

「人の作るものには散々ケチつけたのに、ご自分ではできないの?」


 夫婦は笑い合う。冷笑と嘲笑のぶつかり合いではあったが、そこには間違いなく情が通っていた。歪ながらも、それが夫婦なりの交流の仕方であったことに違いはない。

 無作法とも言え、その妙な熱愛ぶりは居並ぶ侍女たちを赤面させる。


「というわけで、不慣れなことなんかしてないで、得意なことをしてきなさいな」

「別に好きで長じたわけでもないし、好き好んでやってるわけでもないのだがな」

「もうすぐ天寿が尽きようという妻に、格好良いところを見せようとは思われないのですか」


 直後、場がシンと静まり返った。


「なんですか? みんな知ってたことでしょう」

「知っていたとして本人が言うな」


 本人としては至極当然の事を冗談交じりに口にしただけなのだが、女たちは赤くした顔を一転して青白くさせるし、夫は夫で苦々しい面を作っている。上社信守にこんな顔を作らせるのは天下広しと言えども自分一人ではないだろうか。そう思うと奇妙な達成感と、そして暖かな幸福とが胸に生まれた。


 発言者の意に反して、重い沈黙に包まれる。妻から顔を背けた信守が、ポツリ

「連れて来るべきではなかった」

 と口にするまで。


「この地によどむ腐水は、お前の身に合わなかった」

「だから、あたら若く、美しいままにわたしが死ぬと?」

 信守は横顔さえ見せないまま、何も答えなかった。


 呆れを嘆息と共に吐き出して、

「お前様が救ってくれなかったら、わたしはさっさと死んでいましたよ」

 這うようにして回り込み、その胸板に頰を寄せた。


「そんな風に木っ端のように朽ち果てるはずだった女が、言葉を覚え、文字を覚えて、礼儀作法をお勉強して、男と結ばれ、一男を産み……ほんとうに、毎日が若返るような心地でしたよ」


 これ以上の幸せが、ありますか。

 首を持ち上げた妻は、夫に向けて淡く笑んだ。




「だから、そんな顔をしないで。信守」

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