8、『力』
フェリアは暗澹とした部屋の中で目を凝らし、なんとか中の状況を見定めようとしたのだが、光のない場所では限度がある。その直後に、金属同士がぶつかる轟音がしたかと思うと、唯一の光源のあった入り口も塞がれ、一切の明るさが消えた。一瞬、暗闇の中に一人きりで閉じ込められたのではないかと謂れのない不安に駆られたが、すぐに解消される。シュッと何かをこする音がして、橙の光がやみの中に浮かびあがった。揺らめく橙は移動して、ランプの中へと落ちる。炎が勢いよく立ち上がり、部屋の中が明るくなった。
石造りの四角い部屋で、先の部屋と同じように壁には無数のひびが入っていた。が、こちらには崩れた跡も穴もない。完全なる密室の中には石で作られた冷たそうなベッドと、木造の小さな椅子、そしてランプとランプを置く小さな机しかなかった。ナイザーはランプを拾い、机の上に置く。彼はフェリアを木の椅子に座らせると、自分は石のベッドにと腰掛けた。はぁ、と吐き出されるため息が嫌に重厚である。彼は膝の上に肘を付いて手を組むと、鋭い視線をこちらへ投げかけた。
「お前……いつから俺をつけていた?」
はっとフェリアは息を呑む。尾行しているつもりはなかった。だが、それなら何をしていたのかと問われると答えることができない。彼女にも、自分が何をしているのか理解できていなかった。尾行していたのだと思われても仕方ない。しかし、それを認めるのは、プライドが許さなかった。
「つけてなんか、ないわ……」
「では、こんなところまで何となく散歩にでもきたというのか? その格好で」
体裁のことを指されると、フェリアは言葉に詰まってしまう。ほとんど寝巻きに近い状況で外に出ることがまず有り得ないというのに、そのままの格好で得体の知れぬ町にまで迷い込んでしまった。それほどまでに取り乱していた自分を叱咤したい。何故、そうまで必死であったのかと。
「別に……あんたとは関係ないわ」
それでも言い返したのは、負け惜しみのようなものである。それをわかっているためだろう、ふんとナイザーは鼻で笑って立ち上がった。
「俺だって、関係などなくしてしまいたいさ。しかし、お前には俺のことを忘れさせることが出来ないからな」
その言い草に、かっと頭に血が上った。フェリアも思わず立ち上がる。
「己惚れるのも大概にしてくれる? あんたと私は何も関係なんてないわ。私は私の歌を崇拝してくれる人たちのために存在しているの。あんたなんかはその辺の虫けらと同じよ」
さすがに過言ではなかろうかと理性がどこかで語りかけてくるが、一度堰を切った言葉は止まらない。ナイザーは当然、不快そうな素振りを見せた。軍服の裾をひらりとなびかせて、こちらに背を向ける。吐き出される言葉は氷のごとく冷たい。
「気位の高いことだ。その自尊心に身を焼かれぬよう、せいぜい注意することだな」
彼が繰り出したその氷の塊は、フェリアの胸を直接貫いた。胸の奥が痛み、息が苦しい。喉が渇いてひりひりと悲鳴をあげた。ぐっとフェリアは奥歯を噛み締める。そして次の瞬間には、体が勝手に動いていた。——ナイザーへと背後から飛び掛り、その腰刀に手を伸ばす。鞘から引っ張り出した抜き身を握り締め、刃をナイザーの首に当てた。
「うわっ、何をするんだ……!」
普段の彼からは想像も付かないような裏返った悲鳴があがる。突然のことにさすがのナイザーも吃驚したらしい。フェリアは柄を握ったまま、震える声を絞り出した。
「そうよ、その通りよ……私は矜持ばかり高いプリマだわ。だって仕方ないじゃない。親が残したこの顔で、親がくれたこの声で、誰も彼もが私の言うなりよ。思い通りにならないことなんてなかったわ。——そんな私が本当に欲しい物がやっと何か、わかった気がする。教えてあげようか」
「格別、知りたいとは思わないが、この状況で逆らう気も起きんな……なんだ?」
「准尉、あんたの命だわ。そうだわ、私、あんたの命が欲しかった……。何もかも私の思い通りに行くはずなのに、どうしてあんただけは私の思うとおりにいかないの?」
「何……?」
彼を殺してしまいたいと願ったのは、これが初めてではない。自分でも押し留めることのできない殺意は、ゆっくりフェリアのことを蝕んでいた。そして今、目的を果たそうと思えば出来るところまで来ている。それなのに、腕には力が入らない。
小刻みに震える手で刃を当てたナイザーの首筋が、くっと音をたてて振動した。それは幾度も震えて、やがて、笑い声とともに大きく揺れる。フェリアは呆気に取られ、なんとなく身の危険を感じて刀を引っ込めた。その手を、男は逃すまいと掴む。
「——それは、愛の告白か? 嬉しいな……」
「なにを、言ってるの……そんなわけないじゃない」
「一つ忠告してやろう。嘘はよくない」
「は……?」
「が、どうしても嘘をつく必要があるのなら、もっと上手くやることだ」
ナイザーはフェリアの正面を向いて、にやりと笑った。いつも見る、人を小馬鹿にしたような笑みだ。見慣れた微笑を前にして、全身から力が抜けていくのを感じた。するりと手から落ちた刀が甲高い音をたてて石の床と衝突する。ナイザーはそれを拾い上げて、鞘にしまった。
「何もかも自分の思い通りになったと? それは虚言だろう……本当は、何一つ思い通りに行かないものだから、君は常に穏やかでいられないんだ」
「はあ? そんなわけないじゃない」
「そうか、なら少し言葉を違えたのかもしれない。正しくは、君は確かに思い通りに事を運ぶ能力を持っているのに、自分が何をしたいのか全くわからずに、その力を持て余しているんだ。まさに宝の持ち腐れというやつだな」
「宝……」
「君は、自分が本当に何をしたいかわかっているのか。俺を殺したいと本当に思ったか? 殺意を抱くのとそれを実行しようとするのとでは勝手が違う。君は実際のところ、自分が何をしたいのかわかっていない。それに、自分が何を持っているのかも、わかっていないんだ」
フェリアは返す言葉を完全に失った。何かが、頭の中で氷解していく。先ほどフェリアのことを貫いたその声で、彼女の心を溶かしていく。先程まで渦巻いていた激情はどこへ行ったのやら、心の内が空っぽになった。
遥か遠い昔から、フェリアは自分の中にしこりを抱いていた。父を待つために此処にいるのだと言いながら、本当はどうして自分が此処にいるのかわからない。歌が好きだから歌うのだと言いながら、本当はどうして自分が歌っているのかわからない。 欲しいものは何でもあげようと周囲が口を揃えるものだから、思いつく物を片っ端からねだり続けた。そのうちにこちらが何かを望まなくとも物は溢れんばかり、フェリアの周りを埋め尽くす。だが、いまいち釈然としない。フェリアが求めているのは、これではない——。
「そうよ、私は何でも持っているようで、何も持っていないの……。いえ、違うわ……何かを持っているはずなのに、何を持っているかわからない。日々歌うだけの毎日で、私には何も見えない……」
独り言のように呟くと、「そうか」と相槌が聞こえる。それを合図にすっかり脱力しきったフェリアが膝から崩れそうになると、ナイザーが手を差し伸べた。彼はフェリアの体を引きずって、木椅子の上に座らせる。そして自分もベッドの上に戻ると、自身を落ち着けるように一つ深呼吸した。
「……仕方ないな」
そして、口を開く。
「観念しよう……。お前には、俺の知っている限りを話す」
「え……? 何を……」
「俺の、知る限りだ。君にこれ以上隠していても仕方ない。——君には、力がある」
何度となく聞いたことのある一句に、ごくりと唾を飲み込んだ。どうやらそこにはフェリアが思う以上に深い意味があるらしい。ナイザーは「軍の最高機密事項だ」と付け加えると、嘲笑めいた表情を浮かべた。いつになく真面目な話し方をされて、フェリアも思わず姿勢を正した。
「——この世界には、『力』を持つ人間とそうでない人間とがいる。大抵の人間は『力』を持っては生まれて来ない。生まれながらにしてそれを持っているのは、ほんの一握りだ。そして、持って生まれなかった人間はさらに、『力』を持つ素質のある人間と、全く素質すら持たない人間に分けられる。素質のある人間は、磨くことによって『力』を開花させ、増強できる。素質のない人間は、当然何をしても『力』は生まれない」
「『力』って……? それを私が持っているというの?」
「おそらくな。『力』は具体的にこれと言って示されるものじゃない。ただ、俺たち人間の目には見えず、どんなにその原理を考えたところでわからない得体の知れぬ何かを総合してそう呼んでいるんだ」
フェリアはかつて他でもないこの男から聞いた話を思い出した。人間離れをした人間と言うのなら、あれもそうなのだろうか。
「じゃあ、獣人も……?」
「そうだな……まあ、そういうことになる。しかし、西国では獣人を『力』の持ち主とは扱わないようだ。あの国では『力』のことを巫力と呼んで、神聖なものとみなしている。その逆に、獣人を汚らわしいものとして扱うからな」
「……ってことは、西の国では、『力』というものを持つ人がいるっていうのは常識なの?」
「そういうわけじゃない。巫力を持つ人間がいるという考え方は、宗教の教えの一つだからな。迷信と言って信じない人間も多い。俺とて、そうだ。『力』を持つ人間がいるなんて言われても、俄かには信じられなかった。だが、俺はあまりにも強力な『力』をこの目で見てしまったんだ……」
「あまりにも、強力な……?」
「シルディア殿下。——北ラウグリア国の、皇太子だ」
「皇太子様……?」
「そう、殿下はこの国で一番の……いや、ひょっとしたらこの世界で最も協力な『力』の持ち主かもしれない」
ナイザーはそっと目を伏せた。灰色に近い黒の瞳の中では、ゆらゆらと橙の光が反射して輝いている。
「そもそも、この国はほとんど軍に食われてしまっていると言って過言でないのに、何故軍が王室を追い出さないかわかるか?」
そういえば、そんな話をかつてフェリアは親友から聞いたことがあった。今の軍の権力をもってすれば、王政に変わって軍政を布くことも可能なのに、軍が王室を破棄しないのには、それなりに理由があるはずである。王室には軍だけでは取り揃えられない何か重要な物が眠っているに違いない、と。
「……その、皇太子様がいるから?」
答えを探るように顔をあげると、ナイザーは頷いた。
「その通りだ。——どんな軍力をもってしても決して敵わない、強大な『力』だ」
彼はどこか遠くを見つめるような眼差しで、語り続けた。フェリアは真剣にその目を見つめ返す。いつのまにか悪寒はしなくなり、震えも止まっていた。抜け切った力も徐々に戻りつつある。
「初め、軍は皇太子を暗殺することも考えたそうだ。巨大な力はいずれ軍に刃向かうようになるかもしれないからな。……だがしかし、相手が未知数の力を持っているのに、闇雲に戦うわけにもいかない。そこで、考えを改めた。彼の力を軍の一部にしてしまおうと思ったのだ」
「ああ、それで……」
フェリアの頭に、再びベーラの顔が浮かぶ。以前、彼女は不思議そうに呟いていた。ラウグリアの軍は他国と比べてそれほど大きいわけでもなく、屈指の戦力があるわけでもない。それなのに何故こうも戦に強いのだろうかと。運がいいんじゃないの、とその時フェリアは大して気にも止めていなかったが、これがその答えなのだろう。
ナイザーがそれを受けてそうだとまた一つ頷いた。
「軍は、超人離れした殿下の力を利用している。そしてまた、軍の最高指揮官にはなるべく力を持つように仕向けたんだ」
「仕向ける、なんてことができるの?」
「最初に言ったろう? 素質のあるものとないものがいるんだと。素質があれば、磨くことによってある程度は力がつく」
「ある程度……」
「そこで生まれる個人差はたぶん、備わっている素質の違いなんだろうな。お前の素質はなかなか光るようだぞ。何しろ国中でお前の名を知らぬ者はいないのだからな。——だがしかし、素質ではなく『力』そのものを生まれ持った者はまるで格が違う。殿下が、それだ」
「そんなに、凄いの?」
「凄いなんてものじゃない。俺は、殿下が人をはるばる遠くから召喚したのを見たことがある」
「召喚……?」
「相手は西の国にいた。それを、ラウグリアの城の中へと一瞬で引き寄せたんだ。空間のずれや、時間のない世界を利用するんだそうだ。正直、俺には何だかさっぱり理解できんがな。——これが、今起こっている戦争の発端だ」
お前はこの戦争の起こった原因を知っているか。かつてのナイザーの問いかけが脳裏に浮かんだ。
「軍が、皇太子に命令し、西エウリア国の要人を召喚、もとい誘拐させた。当然、エウリアは激怒してこちらへ刃を向ける。そして今に至っている」
「そんなことが、あったなんて……」
「民衆のほとんどが発端を知らんからな……。それどころか、軍の中でも皇太子の『力』のことを知っているのはごく少数だ。何せ『力』のことは最高機密だ」
「それがわからないわ。だって軍は『力』とやらを利用しようとしているわけでしょう? それなのにどうして民衆にはその存在を隠すの」
「民衆が『力』を持ったら困るからさ。一重に『力』と言っても、さまざまな物がある。軍力では、それに太刀打ちできん」
確かに、時空間を操ってしまえるような人物とどうしたら対等に渡り得るのだろう。——そこで、きとフェリアは思い出す。この男はフェリアにその『力』があると言わなかったか。
「そもそも。『力』を持って生まれた人間など、今の世では皇太子の他にいるかどうかも怪しい。ならば、『力』の存在さえ知られなければ、磨かれることもなく、軍は独自にそれを利用することができる」
「准尉……じゃあ、私は」
「うん?」
「私は、どうして『力』を持っているの……?」
「——ああ」
ようやく思い出したようにナイザーは頭を上げた。
フェリアには、『力』というものを磨いた記憶もなければ、それを持っているという自覚もない。それどころか、そんなものがあるということすら今しがた知ったばかりで、俄かには信じられぬというのに。
「君の場合は、歌を歌うことによって、無意識に磨きをかけたんだろう」
「そんなことで磨かれるんだったら、うちの劇場の子たちはみんな『力』を持ってるわよ」
「素質がなかったんだろう。それに、単に歌を歌えば磨かれるというものでもない。君がよほど歌に執着していたのも要因の一つだな」
「執着ですって……?」
「執着していたんだろう?」
フェリアの眉がぴくと震えたのを見て、ナイザーは軽々しく笑った。足を組んで、腕も組み、口元に微笑みを称えた姿は馬鹿にされているようで気に入らない。
「君は、自分には歌しかないと思っていたんだ。だからその若さでプリマの座を手に入れるほどまで成長し、同時に自分の意思とは別のところで『力』を開花させた。そうとは知らぬ人々は、プリマの歌に魅了され続けている。お前の歌には『力』がある」
同じ台詞を、そう遠くない過去にも聞いた覚えがある。一体いつどの状況で誰に言われたのかまでは今思い出せないが、それよりも彼の言葉の端々が気になって仕方なかった。
「それはつまり、もしも私に『力』の素質がなければ、プリマにはなれなかったってこと?」
「そういうことだ」
飄々と言ってのけた男をこれでもかというくらいにねめつけると、彼はフェリアを落ち着けようと両手を掲げて見せる。
「そう怒るな——。プリマは客席の俺を見たときに何度か違和感を覚えたことがあるんじゃないか?」
「それは……」
初めてナイザーを見つけた時、変な男がいると思ったことをフェリアはしかと記憶していたため、一度身を引いた。そもそも、あの時抱いた違和感がなければフェリアはこの男の名前すら知らなかったかもしれないのだ。
他の客たちはフェリアの歌に聞き惚れてどこを見ているのかもわからないような虚ろな眼差しをしている中で、彼だけは他の誰でもないフェリアだけを貫くような視線を向けてきた。まるでフェリアの歌には興味がないかのように、ただ舞台上にいる彼女だけをじっと見つめていた。
「……俺には、これがあるからな」
ナイザーは軍服の上着のボタンをはずすと、内側のポケットを探る。そして差し出された彼の手には、漆黒の石が握られていた。どこにでも落ちていそうなただの石に見える。しかし彼はそれを宝物を扱うような仕草で握りしめ、再び内ポケットの中へとしまいこんだ。
「これを持っていれば、ある程度の力の干渉は防げる。自分に『力』が備わっているならこんなものを持つ必要もないらしいが、俺にはないから」
「……貴方には、ないの?」
「ない。ある方が珍しいんだぞ。だから、この石を持っている」
「それを使って、私の歌を跳ね返していたってこと?」
「まあ、そういうことになるかな」
ナイザーは上着のボタンをかけ終えると、再び腕を組んだ。
「俺の見解では、一番手っ取り早い『力』の磨き方は、孤独になることだ」
「孤独……」
「寂しいと思ったり、そのせいで誰かを憎んだり、愛情を欲したり、虚無感に包まれたり、そんな負の感情がより『力』というものを研ぎ澄ます。俺が今まで会ってきた力の持ち主たちは皆、心に孤独を抱えていた」
なんとなく心当たりがあり、フェリアは口を閉ざした。父の他に身寄りはなく、人に頼ることも知らぬ身でたった一人置いてきぼりを食らった時の苦しみを、今でも痛いほどに覚えている。それを抑えて大丈夫いつか戻ってくるからと自分に言い聞かせることすら辛くなった頃には、すでに達観していた。私には歌があるからそれでいいじゃないか、と、歌に執着することで孤独を乗り越えようとしていた。
悔しいが、この男の言うことは全て的を射ている。彼はかつてフェリアのことを無知だと言って呆れたが、実際にこの男はフェリアの比べ物にならないほどの知識を持っているのだろう。どんなにむきになって反抗しても、彼の余裕を崩せないはずである。まるで次元が違うのだ。——だが、一つだけ納得のいかないことがある。それを最後の抵抗として、フェリアは彼に厳しい目付きを向けた。
「随分とわかりやすい解説をありがとう……でも、どうして貴方がそんなことを知っているのかしら?」
彼は、これを軍の最高機密だと言った。准尉というのは、軍隊の中ではそう高い位でもないはずだ。その上、自分自身が『力』を所持しているわけではないという彼が、どうしてここまで詳細なことを饒舌に喋ることができるのだろう。
すると、ナイザーはここにきて初めて言いよどんだ。それまでの勢いが嘘のように、しぼんでいく。まさか全て嘘だったわけではあるまいなと疑うと、その心を読み取ったかのように「嘘ではない」と低く呟いた。やがて、意を決したように息を吸う。
「俺は、もともと軍人だったわけじゃないんだ」
その真意をはかりかねて目を細めると、彼は吸った息を吐き出した。
「俺は、皇家に仕えていた。世話役と言えばいいかな」
「誰の……?」
「皇太子、シルディア殿下だ」
「え……」
「とは言っても、ほんの数年のことだったがな」
突然の告白に、フェリアはきょとんとする。それまでの話も充分驚愕すべき内容であったが、それ以上に返答に窮した。ナイザー自身についての出で立ちを初めて聞いたためかもしれない。彼は、いつも人の事情には無遠慮に足を踏み込んでくるくせに、自分についての一切を話さなかった。彼の一言一句に苛立ちを覚えたのは、彼の全てが不透明だったことにも一因があったに違いない。それは得体の知れぬ物への威嚇に似ていた。
「——皇家の世話役というのは、誰にでも任せられるものではない。しきたりも常識も何もかもが下界とは違うからな……。俺は、そういった皇家の人間の世話をするための教育を受けて育った。しかしまさか、自分に皇太子の付き人を任されるとは思ってもいなかった。そんな大役は引き受けられないと一度は断ったが、他に人がいないんだと半ば強引に任命されてな……後でその理由がわかったよ。あの方の付き人は、どんな役職よりも難しい。逃げ出したくなるんだ、あの人の傍にいると」
「『力』が強いから……?」
「違う……孤独が強いからだ。あの方を取り巻く孤独が、あまりにも強すぎて……俺は結局逃げ出してしまった」
ナイザーはそう呟いて、額に手をあて俯いた。それは罪人が懺悔する姿に酷似している。彼は自らの左胸に手を当てて、その内側にある石を撫でた。
「この石をくれたのも、殿下だった。彼は、自分の傍にいると力の影響で具合を悪くするかもしれないから、と言ってこれを俺に託した。だが、防ぎきれなかった」
その顔には自嘲の笑みが浮かび上がる。
「その後逃げるように皇家を飛び出して、軍隊に志願し、この国というものがやっと見えるようになった。国を支配しているのは、この俺ごときがたった二年で准尉に上り詰めてしまうほどの弱小軍隊だ。まさか他国を侵略できるわけもない。それなのにラウグリアに勢いがあるのは、殿下の御力のためなんだ。このままでは、ラウグリアはいずれ滅びるぞ。殿下の孤独に国ごと食われるか、殿下が命を落として他国に報讐されるか、どちらが先かはわからんがな」
彼の目にはすでに自嘲の色は浮かんでいなかった。あるのは追い詰められたような焦慮の色のみである。
「——俺は、この国を守りたいと思っていた。それが殿下に報いる最後の好機だと信じていたから……」
決意を表明するように真摯に伏せられた目は、嘘をつく時のものではないと思われた。しかし、それでも腑に落ちないのは何故だろう。フェリアは膝に抱えた布を握り締める。
「じゃあ、聞くけど……そのために、貴方は何をしていたというの? 私にはよくわからない……。貴方はただ、女と遊んでいるだけの、遊び人のようにしか見えなかったわ」
ナイザーは厳しい声を受けて驚いたように顔を上げ、やがて険しかった表情を少し和らげた。何故ここで微笑むのだろうとフェリアには頓には理解できない。彼は遊び人と言われても嫌な顔一つせずに、思い出したように笑った。その裏にある思いは、計り知れない。
「どうしても、欲しい情報があったんだ……そのために駆け回っていたが、決定打が見つからない。俺には時間がなくてな……もう無理だと半ば諦めていたところなんだ」
「どうして……?」
「今日から五日後には、俺は西へ派遣される。平和な都で、もう劇の鑑賞なんてできなくなるからな……」
フェリアは、言葉を今度こそ完全に失った。
西エウリア国は、今では最も過酷な戦場だと言っていたのはベーラであったか。ラウグリア軍は西の大国を相手に苦戦を強いられており、東を占領した時とは比べらものにならないほどの犠牲を出すだろうとは、物知らずのフェリアですら耳にしたことがあるほど、有名な話であった。
背筋が一瞬で凍りつく。父が軍に志願したと聞いた時と似て非なる衝撃であった。父の時は、一人ぼっちにしないでほしいという自分本位の悲しみばかりが渦巻いたが、今は何だろう。この男は本当に死ぬかもしれないんだと思った瞬間に、頭を鈍器で殴られたような感覚が走った。
二の句を継げずにいるフェリアの心境など知らず、当のナイザーは軽く笑っていた。
「プリマと必要以上に関わりを持たない方がいいとは最初から思っていたのだが、いつも上手くいかなくてな……。結局こうやって何もかも吐露してしまっているのは、ひょっとしたら最後の好機なのかもしれない」
彼の言う意味を理解できない。彼の笑う神経も理解できない。今にも泣きそうな顔をしているに違いないフェリアを見て、彼は何を思ったのだろう。
「一つ、教えてくれ——お前の歌に『力』があると再三言って止めない人物が、俺以外にいないか?」
顔を下から覗き込むようにして、聞かれた問いに、フェリアは反抗できそうにはなかった。いつだってそうだ。フェリアがどんなに抗おうとしたところで、いつでもこの男の手の上であがいているだけなのである。
「……いるわ」
それでも最後の一線だけは越えまいと、涙を堪えた。毅然とした態度で、相手を睨みつける。
「スールイ公よ。アナトーリ・ヘルム公爵。うちの劇団の後援者よ」
「……そうか」
「私の歌には『力』があるから、と。私を西の国へ連れて行こうとしていたわ」
「……なるほど」
ナイザーは今までで一番低い声色で呟いたきり、緘口した。難しい表情をしてはいるが、今までとは違ってほんの少し明るみが差している。おそらくフェリアの言葉の中に、欲しかった情報とやらを見出したのだろう。フェリアは静かに瞑目した。
決して他言はならぬとスールイ公に散々口止めされた事項であった。
自分はスールイ公には逆らうことは出来ないだろうと思っていたが、それは単に逆らう気がなかったためだったのかもしれない。そんなことをしたところで意味がないから、と投げていただけで、自分の劇場のために従順になっていたわけでもなんでもなかった。そうでなければ、スールイ公とは比べるべくもないほど付き合いの浅いこの男に、こうも簡単に情報を引き渡すものか。
いつのまにか長いこと話を続けていたらしい。フェリアは自分の頭髪に触れて時間の経過を知った。水に漬かったかのごとく重たくなっていた髪は、今ではすっかり乾ききっている。櫛を一度も通さずに自然乾燥させた髪は絡まりあって、プリマとして他人に見せることの出来ないような形を作っていた。だが、それすら気にならぬほどに、胸の奥が苦しかった。
今目の前にいる男の瞳には、フェリアには決して見えぬ物が映っている。その視界の中に、フェリアなど髪の毛の一筋もないに違いない。
それが苦しいのか、何が苦しいのかもわからず、とにかくフェリアはその男を見つめていた。
決してこちらを見ることのない瞳を、穴の開くほど見つめ続けていた。
雨は止まない。今にも崩れ落ちそうなこの襤褸屋の屋根をこれでもかというほど叩いて耳障りな騒音を立てながら、いつまでもラウグリアの地を叩き続けていた。