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7、白い花束

 その頃、親友の決意など露知らぬフェリアは、雨水から庇護される劇場や宿舎の中にはいなかった。

 ラウグリアの雨は冷たい。

 フェリアは身震いをして、頭から被ったマントの裾を両手で引き寄せた。自室から取るものもとりあえず出てきてしまったから、大した防寒具も纏っていない。財布すら持っていなかったため、どこかの店で雨宿りも出来ず、馬車を呼んで帰ることもできない。とにかく屋根のある場所で少しやり過ごそうと、フェリアは辺りを見回した。此処も都の一部であり、建物はずらりと軒を並べている。屋根がないわけではないのだが、入るのを思わず躊躇してしまうような柄の悪い輩があちらこちらを徘徊していて、なかなか落ち着けそうな場所がなかった。

 ——それもこれも、あの男が悪いのだ。

 フェリアは本日何度目かの八つ当たりを心の中で吐き出す。それが不毛であるのは明白だったが、そうでもして怒りを燃やさなければますます寒さが募る一方であった。


 時は、遡る。

 フェリアが劇場を飛び出したのは、この日の正午前であった。役者たちの朝は遅い。昼間よりも夜が中心の仕事であるため、致し方ないことである。昼前までは、皆眠っているか起きてもぼんやりしていることがほとんどだ。フェリアも例に漏れず、すでに世間の人々が活発に動いていようとも、まだ起きたばかりではっきりしない頭を支えながら宿舎の自室から外を眺めていた。

 朝も早くから世間は騒がしい。軽快な人の流れをぼんやりと見つめていると、まどろみの中へと引きずり戻されそうになる。それを欠伸で必死に振り切っていると、人波の中に、彼の姿を見つけた。

 若い風体でありながら、どことなく威厳のある空気をばらまき、きちっとした優等生的な軍服の着こなしをしながら、歩き方はどことなくあくどい。そして茶色の癖のある毛が、この雨の湿気を吸って余計にあちらこちら跳ねていた。

 准尉、とフェリアは口の中で呟く。この時もまだ彼女の脳は活性化していなかった。

 フェリアの部屋は宿の三階にある。ゆえに見下ろす視線になるため、歩いている人々には見えない道全体を見渡すことができた。

 ナイザーは知らない女と肩を並べて歩いていた。彼は女に白い花束を渡すと、それから数歩進んだところで別れた。二人は違うそれぞれ方向へ向かって歩き始める。女の方は王宮の方へと続く道へとまっすぐ進んで行きナイザーの方は、グロピウス座の劇場へと足を運んでいるようだった。

 劇場は当然ながら、まだ開いていない。一体何をしに行くんだろうという素朴な疑問を抱いたのも束の間、フェリアは劇場の入り口にアンナの姿を見つけて、はっとした。不鮮明であった意識が一気に透き通る。一瞬で目が覚めたようだった。

 アンナはナイザーの姿を見つけるなり、駆け出して抱きついた。ナイザーは慣れた手つきでそれを受け入れ、アンナの前に白い花束を差し出す。アンナは嬉々としてその花束を受け取っているが、フェリアはその花束に見覚えがあった。

(……さっきの女に渡したのと、同じやつだわ……!)

 たった数分前までは他の女に会っていた身で、次の女との逢引を果たし、二人に同じ花を渡すのか。あの男は、町中の女をたぶらかして花束でも配るつもりか。

 そう思ったら、勝手に体が動いていた。眠っていたときのそのままの格好の上に外出用のマントを被り、外へと飛び出す。いつものフェリアなら、どんなに不愉快な思いをしようとも後先考えず宿舎を飛び出すようなことはしない。この時はそれを許してしまうほどの憤怒に駆られていた。我を忘れさせるほどの怒りが彼女を包み込んでいた。——そしてここから、フェリアとナイザーの鬼事が始まった。

 劇場の正門から街路に出ると、すでにそこにアンナとナイザーの姿はなかった。フェリアは標的を探して辺りを見回す。ややあって、通りを抜けた向こう側に、男の姿を見つけた。アンナはいない。代わりに、また見たこともない女が傍にいた。ナイザーは例に違わず白の花束を渡している。そんなにいくつもの花を何処に隠し持っているのだろうかと考える暇もなく、肩にかけた布の鞄が目に入った。あれに入れて持ってきたに違いない。

 いつの間にか、ナイザーはその女とも別れていた。フェリアははっとして、はぐれてはいけないとナイザーの後を追った。しかし、標的の足はなかなか速く、この人込みの中をすいすいと泳いでいく。負けじとフェリアが人をかきわけていると、雨が降り始めた。フェリアはマントを頭から被り、劇場に戻ろうとはしなかった。それがいけなかったのだと気付いた時にはすでに遅い。何故そこまで向きになっていたのか、今となってはフェリアにもよくわからない。瞑々のうちに、知らない土地まで来てしまっていたフェリアは、一人で戻ることもできずに途方に暮れていた。歩いてきたのだから、歩いて帰れる場所ではあるはずなのだが、此処はいったいどこだろう——?

 エルヴァには色々な町並みがあった。一口に都と言っても、フェリアの住まうような劇場の立ち並ぶ歓楽街もあれば、城へと続く大通りもある。そしてフェリアが今紛れ込んでしまったのは、貧困層の住まう裏町だ。フェリアは一度もこの辺りに足を運んだことがなかった。貧しい者たちだけでなく、この辺りには軍人も貴族も来たがらないことを知ってたむろしている柄の悪い輩が多々いるためだ。

 フェリアは連中と目を合わせないようにして、マントのフードを深く被った。八重雨にさらされ、体温はますます下がっていく。ナイザーを追っていたらここまで来てしまっていたわけだが、この通りに入るなり彼を見失った。一体此処まで奴は何をしにきたのだろう。こんなところにまでも花束を渡すべき相手がいるのだろうか。

 雨に濡れながら理性を取り戻し、冷静になって考えてみると、自分の取った行動は奇怪以外の何でもなかった。よしんばナイザーに追いつき、彼と女が密会しているところへと飛び出すことができたとして、自分はどうするつもりであったのか。アンナをからかうなと言うつもりか、多数の女に手を出すなと言うつもりか。何にせよ、フェリアの口を出すところでもなければ、そんなことをしている自分の方が惨めになるような光景だったに違いない。そんな恥辱を味わうくらいなら、見失ってしまって正解だったかもしれないなと前向きに考えて、フェリアは劇場へ戻ることにした。自分のいる位置が正確にわかるわけではないが、同じ都の中なのだ。歩いていればそのうち辿り着けよう。

 しかし、今すぐにというわけではない。強くなっていく雨脚に、どこかで休息を取りたいという自然な願望があった。どの軒下にも出来れば関わりたくないような連中が雨宿りしながら馬鹿笑いなどしていたが、背に腹は変えられない。目立たぬようにしていれば問題はないだろうと、フェリアは薄汚れた矮屋の軒下に隠れた。 雨は滝のように、地面を叩き続けている。この中を帰るのは無理だろうと改めて判断し、フェリアはフードを脱いだ。マントの裾を絞ると、たっぷり水に浸した雑巾のように雨水が零れる。深くフードを被っていたはずなのに、彼女の綺麗なブロンドの毛先からも雫が滴っていた。拭く物を持っていないので、詮なく、手で払うだけで済ます。

 屋根の下にもぐりこんだことで雨露をしのぐことはできたが、今度は動きを止めたことにより足元から体の髄が凍りはじめた。フェリアは両手で自分の体を抱きしめる。くしゃみを一つ落とし、濡れたマントを引き寄せた時、ふと、肩を叩かれた。振り返れば、大柄な男が立っている。

「——ほうれ、見ろ。俺の言ったとおりじゃねえか」

 初めて見る男であった。自分に会話を投げかけられたのかと思いきや、男はフェリアには一瞥もくれず、連れのもう一人の男と会話をはずませる。両者とも大柄で、お世辞にも清潔とは言えない服装をしていた。咄嗟に嫌悪が走ったが、彼らはこの町には調和しており、どちらかと言えばフェリアの方が異端であった。

「げっ、本当だ……こいつぁ、グロピウス座のプリマじゃねえか。俺も一度だけ見に行ったことあるぜ」

「んなこたぁどうでもいい。俺の勝ちだ。掛け金払いな」

 フェリアは目を見開いた。どうやら、男共はフェリアを賭けの対象にしていたらしい。職業上、見られることには慣れているはずであったが、至近距離でならず者に囲まれた経験などなかった。じろじろと体を舐めるように見られ、自ずと顔がひきつる。

「しっかし、なんでこんなとこにプリマがいんのかな?」

「どうでもいいから金を寄越せ」

「そんなんは後でもいいじゃねえか。こいつぁ千載一遇のチャンスだぜ。何しろ、このプリマは高い金はたかねえと面会すらできねえってんだから」

「ほお……?」

 男たちがますます鼻面を近づけてくる。フェリアは本能的に身を引いた。こういう時に、どうすればいいのかなんてさっぱりわからない。少女の頃から歌うことばかりを習ってきた身で、ならず者の扱い方なんて知る由もなかったのだ。

 逃げろ、と脳が危険信号を上げる。しかし体は竦んでしまって動けない。来るな、と声にならない悲鳴で拒絶をしようとしたら、男たちに腕を掴まれた。大人しく逃がしてくれる気など毛頭ないらしい。

 今まで経験したことのない猛烈な恐怖に襲われ、顎が震えた。がちがちと歯が音をたてる。そしてもう駄目だと彼女が観念した、その時である。

「プリマ——こんなところで何をしている」

 聞き覚えのあるその声に、つい先刻までは散々悪態をついていたはずだ。だが、この恐ろしい状況では思わず安堵してしまった。ならず者に晒されるのと、彼に見つかり屈辱を味わうのと、今は天秤にかけるまでもない。

 男たちは同時にその方角を見やった。忽然と姿を見せた青年は、この上なく険しい表情をしていた。男たちはその軍人姿を見やって、訝る。国にはびこる軍服も、此処で見るのは珍しい。

「……そうか、プリマはあんたが此処まで連れ出したのか」

「ここは軍人さんの来るとこじゃあないぜ?」

 フェリアは彼に連れ出されたわけでもなんでもなかったが、青年は不快そうな顔をしただけで否定はしなかった。

「別段、軍人であろうとプリマであろうと、この土地を出入りするのに許可などいらんはずだ」

 彼は颯爽と言い放って、男どもに囲まれたフェリアの腕を掴む。強引に引っ張られた二の腕にはあざが出来るのではないかと思えるほどの痛みが走ったが、今はそれですらフェリアの意識を恐怖から背けてくれた。

 そのまま男どもには一瞥もくれずに軍人はフェリアを連れて去ろうとしたが、荒くれ者たちがそれを黙って許すはずもない。彼らは互いに目を交わして、何か企みを思いついたように不吉に笑った。

「おい、軍人さんよ——プリマとこんなところまで来るってこたぁ、お忍びだろう?」

「軍に知れたらえらいことになるんじゃないのか? 条件次第では、黙っておいてやっても……」

 彼らの下卑た笑みは、しかし続かなかった。青年の腰に差された刀が鞘ごと動き、疾風の速さで一人の鳩尾を打つ。打たれた男は低音で呻きをあげると、耐えられぬとばかりにその場に腹を抱えてうずくまった。

「黙っておいてやっても……なんだ?」

 青年は鞘を逆手に握ったまま、うずくまる男を見下した。その隣に茫然と立ち尽くす男にもちらりと視線を投げかけると、男は蛇に睨まれた蛙のように飛び上がる。おそらく彼には軍人の鞘の動きすら見えなかったに違いない。

「俺は准尉だ……この町で不法に跋扈するお前らをここで斬捨てようと十分大義名分は立つ。が、貴様らを殺したところでなんの勲章も得られんからな」

 殺されたくなかったら大人しくしていろと、無言での圧力が彼らの上へと重くのしかかる。そのまま一歩も動けなくなってしまった男どもを尻目に、彼は歩き出した。「来い」と短くはき捨てられた言葉は、間違いなくフェリアへ向けられたものである。殺気すら感じられる彼についていくのもまた、それはそれで恐ろしい気がしたが、此処に一人取り残されるよりは随分ましだった。

 雨が地面を打つ音に混ざって、一連の動きを傍観していた遠くのならず者たちの小声の囁きが響いてくる。

「——あれ、ナイザー准尉だぜ。あいつに関わるとろくな目に遭わないらしい。噂で聞いた」

 全くその通りだ、とフェリアは心中で大きく頷いた。

 彼に関わると、ろくな目に遭わない。




 ナイザーは無言のまま、軒下をくぐりぬけて汚らしい路地裏へと入り込んだ。来いと言ったからにはフェリアをどこかへ誘導するつもりなのだろうが、一体こんな陰気なところに何があるのだろうと疑わずにはおれない。建物の裏側へと回ると、足元には白いカビが生えていて、思わず進むことを躊躇した。しかし、その間にもナイザーは大股で進んでいってしまう。

「ちょっと、准尉……!」

 慌てて声をあげると、彼は後ろを振り向いた。そして自分とフェリアとの間に随分距離があることに気付き、顔をしかめる。

「——早くしろ」

 正直、その声色に驚愕した。フェリアの中にあるナイザーという人物像は、何があっても皮肉を飛ばす余裕を崩すことはなく、怒りなど見せない得体の知れぬ男であった。まさか、彼がここまで感情を露にして不愉快を表に見せることがあるとは予想も出来なかったのである。

 しかし、こちらの事情も気遣わず、主我的に進んで行ってしまう彼の態度に、フェリアとて腹を立てていた。確かに、先刻助けてもらったことには感謝するが、もともとあのような不貞の輩に絡まれたのだって、この男が原因なのである。もしもこの男が誠実で、決してフェリアの妹分をたぶらかすことなく、フェリアの機嫌を損ねることなく生きていたなら、フェリアはこんな目には遭わなかった。そう思うと、自然に怒りがこみ上げてくる。

 フェリアは地面を這うカビのことなど忘れ、プリマとしての姿勢すら思いつかず、大股で歩み始めた。その大胆な一歩一歩に憤怒が篭る。

 ようやく前を歩く男のもとへと追いつくと、彼はさび付いた金属の戸を開いた。誰も使っていない廃屋なのではないかと思われる建物の裏口で、正直その中に何かがあるとは思えない。それでもナイザーは迷うことなく扉を開き、中へ足を踏み入れた。

「おい、親父、何か拭くものを——」

 ナイザーが誰かに話しかけている声が聞こえる。こんな荒れ屋の中に誰かいるのだろうかと首を傾げつつフェリアが中を覗き込むと、外見よりは綺麗な装いが見えた。とは言え、壁には無数にひびが入り、部屋の隅には埃が溜まっている。ひび割れた床下からは鼠が頭を覗かせていたが、人の気配を感じると再びその隙孔の中へと逃げこんだ。

 フェリアは咄嗟に口元を抑えた。今まで経験したことのない不潔さに、拒否反応が起こる。彼女はまさか、劇場の裏に通じるゴミ捨て場以上に汚い場所があるとは思っていなかったのだ。

「おう、オレークじゃねえか。久しいな」

 一際大きなひびわれの穴から顔を出したのは、鼠ではなく人間であった。老人であると思っていたスールイ公よりもさらに年を取っていて、髪の毛はすでにない。しわだらけの顔にさらにしわを作って笑うと、あちらこちら欠けた歯が見えた。

「なんだ、また女を連れ込んだか」

「外がひどい雨なんだ。なんでもいいから拭くものを寄越せ」

「ほほう。こりゃ、すげぇな、今までん中でも一番の上玉じゃねえか」

「拭くものを寄越せと言っている」

「そう怒るな……」

 老爺は不気味にくくと笑うと、穴に潜って何やら布を取り出した。それをフェリアへと投げて寄越し、再び穴から飛び出してくる。

「汚ぇとか文句言うんじゃねえぞ。これでも洗濯はしとる」

 フェリアは黙して手の中にある布を見つめた。ところどころ茶色の染みがあり、手触りも何故だかざらついている。劇場の床を拭く雑巾でもこれよりは清潔であると思ったが、髪から滴り落ちる水は絶えることがなく、やむを得ずにその布を使うことにした。

「親父、奥の部屋空いてるか」

「空いてるぞ。なんだ昼間からちちくる気か」

「少し黙っててくれないか。俺はこれ以上プリマの機嫌を損ねたくないんだ」

 その台詞に反応し、フェリアは顔をあげた。ナイザーは自分を不機嫌にするために行動しているのではないかとすら彼女には思えていたが、そういうわけではないらしい。確かに、ここでフェリアがこれ以上機嫌を損ねて面倒を起こしたらナイザーにとっても不都合なのだろう。せめて雨の上がるまで、二人で行動を共にしなくてはならない。

 ナイザーはさび付いた冷たい石の壁に備え付けられている金属の取っ手に手をかけた。よほど重いのか、渾身の力を込めて彼はそれを後方へ引く。そうして初めて、フェリアはそこに扉があることを知った。穴しかない部屋だと思っていたのだが、どうやら奥へと繋がる出入り口があるらしい。

 ナイザーはなんとか人一人分通れるだけの隙間を作って、フェリアに合図をした。顎先で中へ入れと示してくる態度は気に食わないが、彼の両手はふさがっているので大目に見てやろう。寛大な心でそう受け止めて、フェリアは奥の部屋へと足を踏み入れる。窓一つないその空間は、天井に一つ通気孔があるのみで、どことなくかび臭かった。


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