6、踊り子ベーラの暇つぶし
その日の北国ラウグリアには、珍しいほどの篠付く雨が降っていた。
雨の下、首都エルヴァを闊歩する男がいる。男は、若い娘と逢瀬を繰り替えしていた。娘と会っては愛の抱擁をし、抱擁をした後に愛の囁きとともに白い花束を贈る。白い花束を受け取った娘は恍惚とした眼差しで花を見つめ、やがて男と別れた。別れた男は次の娘との逢瀬のために、雨の中を移動した。
男は幾度も幾度も逢瀬を繰り返す。彼は、よもや自分が誰かに睨みつけられていようとは、夢にも思わなかった。そして男を睨みつけていた女は、やがて我慢ならなくなったのか、男を追って雨の中へと飛び出した。人知れず、冷たい雨の中での鬼事が始まった。
さて、そんな女たらしの男のことも、鬼事を繰り広げる女のことも知らないベーラは、自分の所属するグロピウス座の劇場の窓から、雨の降りしきる首都エルヴァの街を眺めていた。
新しい演目が始まってから一月が経ち、本番とリハーサルを繰り返す生活はひとまず終わった。面会禁止も解かれ、劇場では平坦な日々が続いている。そろそろ季節は秋に変わり、まだ残暑が厳しいとは言え雨が降ると途端に涼しくなった。もとよりラウグリアの夏はそう長くもなければ暑苦しくもない。そして冬が他の何処よりも長い。故に、戦が始まった。
ついに、ラウグリア軍は西の国境線を破ったという。戦場から隔離された首都エルヴァでは、そう有名な話ではない。平和ぼけした市民たちは自分の国の置かれている情況すら正確には知らないし、知りたがらない。
その中で、ベーラは異端だったと言えよう。常に情報網を貼っている彼女の耳にはいつでも最新の情報が届けられていた。それでも軍が国境線を破ってから五日近く経っていたと言うことから、いかにエルヴァが戦場から離れているのかよくわかる。
ベーラの情報網は、劇場を中心に外へと広がっていた。彼女は劇終了後の面会の相手を直感で決める。仲間はそれを不可思議だと笑うが、どれもこれも似たような物なのにそこから一つを選ぶ方がベーラにとっては不可思議に思えた。そうして出会った相手とは、とにかく世間話をし続けるよう心がけている。普段どちらかと言えば口数の少ないベーラが必死に話を紡いでいると知ったら、それこそ不可思議だと仲間たちは目を丸くするだろう。しかし、そうでもしなければ相手の握っている情報量は掴めない。つまり、ベーラは一晩語り明かせばその人間がどの方面にどれほどの広さ、あるいは深さで情報網を張っているか大方予測できた。そして使えると思った相手とはこまめに連絡を取り合うようにしている。
そうまでして彼女が情報を欲しがる理由は、特にはなかった。
強いて言えば、暇だった。
ベーラは自分自身のことやその近辺のことにはさして興味がない。代わりに、自分ひとりでは決して見ることの出来ないような世界の情勢を見渡すことを好んでいた。一度その楽しみを味わってしまうと、自分の周囲のことなどあまりにも小さくてどうでもよくなってしまうのだ。
——ついにラウグリアが、西の国境線を突破した。
その情報も、ある人にとってはこの上なくどうでもいいことかもしれないが、ベーラにとっては久しぶりに得た興味深い話題であった。何しろ、ラウグリアが西国エウリアに攻め込んで約三年弱、東西南北の中で最も繁栄していると言われるエウリアの護りを崩すのは容易でなく、両者は国境辺りで膠着を続けていたのだから。
ラウグリアの国土面積は四カ国の中でも最小で、総人口も最少であった。当然兵卒の数も少なく、東に続いて二番目に国土の広い西に武力で適うべくもないと思われていた。その常識が、長い歴史の中で始めて覆されたのである。そして恐らくその勝因は、ラウグリアが軍国になりつつあることと、それでも軍が皇室を手放せない理由にあると思われた。
——ラウグリア国の皇室には、軍が自力では決して手に入れることの出来ない最強の武器が眠っているに違いない。
これは、ベーラの勘であった。軍人の知り合いは多いが、残念なことに皇室に関係のある人間との関わりはない。軍人たちはほとんど国を単独で指揮しているようなものなのに、皇室のことは全くと言っていいほど知らなかった。あるいは知っていても、話せないのかもしれない。どちらにしても、王宮の中には何か隠し玉が眠っているはずだ。
ベーラは覚えず口元を緩ませた。戦を楽しむわけではないが、少なくともしばらくは退屈せずに済みそうである。劇場の正門が見える窓辺に寄りかかり、人知れず不適な笑みを浮かべた。
「ひどい雨だな」
不意に現れた中年の男が、ベーラの脇に立って外を見下ろした。窓に映った姿は、黒い正装姿である。劇場の中で働いている男は少なくないが、その中で気軽にトップダンサーに話しかけることが出来るのは、座長ただ一人であった。
ベーラは相手の顔を見上げるのが面倒だったので、彼の足元を一瞥する。決して安物ではないズボンの裾が、わずかだが雨水に濡れていた。
「このひどい雨の中、外にいたの?」
一目で言い当てられたことにグロピウスは面食らったようだった。ベーラがズボンの裾を示して種明かしをすると、「適わないな」と首をすくめる。そして茶目っ気たっぷりに目を細めた。
「裏門に、どうしてもプリマに会いたいと言って動かない男がいてな」
「会わせてあげればいいじゃない」
「そういうわけにいくまい。男がどんなに一方的に願っても、女の了承がなきゃ入れないのがうちの指針だ」
特にこだわりのないフェリアなら、余程気分が乗らないという以外であれば、相手が誰であろうと了承するのではないかとベーラは思ったが、いちいち反論するのも面倒だったので適当に頷いておいた。
「てこでも動かんので、追い払った」
「座長自ら?」
「うちの女優は売女ではない、と一喝してきたよ」
自慢気に笑う座長を見上げ、すぐに窓の外を眺めた。雨が小道に小さな川を作っている。この分では今日の客数は普段の半分程度かもしれない。
「ところで、うちのプリマを見なかったか」
どうやら本題はそれらしい。グロピウスを含め、何かと皆はフェリアの居場所をベーラに聞いてくるが、いくらベーラがフェリアの親友だからと言って常にフェリアの居場所を確認しているわけではない。「見てない」と短く答えると、グロピウスは困ったように「そうか」と呟いた。急用のようだ。
「……また、スールイ公がフェリアをお呼びなの?」
グロピウスは片方の眉尻をくいと持ち上げた。
「何故、そう思う?」
「直感」
「……勘の良いことだ」
図星だったようである。グロピウスはため息を交えながら、顎髭を撫でた。
「公爵が話を持ちかけてくるのはいつでも直前だからな……なるべく早くフェリアに伝えたいんだが」
「うちの役者は売女ではないんじゃなかったの?」
すると、心外だと彼の顔が歪む。
「私はフェリアに強制してるつもりはない。それにいわゆる娼婦のような仕事をしているわけでもなし」
「そう。——でもグロピウスにとって、フェリアは売り物なんじゃなくて?」
「何を言う」
「いつまであの子を此処に縛り付けるつもり?」
「どういうことだ」
「貴方、本当はフェリアのお父様がどうなったか知ってるんじゃないの?」
ベーラはグロピウスの目を覗き込んだ。彼は眉間に皺を寄せ、わずかだが身を後ろへ引く。
「……そんなわけないだろう。私には、ラドレッサが戻ってくるまであの子を此処で保護する義務がある」
「——そう」
ベーラは頓につまらなさそうに視線を外した。窓に額を押し付けて、それ以上は口を開かない。グロピウスも他に言いたいことはないらしく、口を閉ざしたまま窓辺を離れていった。
ベーラは滅多に表情が変わらない。——本人にそんなつもりはないのだが、周囲はそう口を揃える。——そのため、第三者がここにいたとしても、彼女の心情の変化には恐らく全く気付かなかっただろう。だが、彼女は動転していた。
——実は、グロピウスはフェリアの父の行く末を知っているのではないか。
これはベーラにとってはほんの冗談のつもりであった。しかし、親友であるフェリアのよく言うように「ベーラの冗談は冗談に聞こえない」らしい。鎌をかけられたと勘違いしたグロピウスは、ほんの刹那のことであったが、動揺を見せた。そしてそれをベーラは見逃さなかった。
フェリアは、他の踊り子や歌手とは少し劇場での立場が異なっていた。ベーラを含め多くの女たちは身寄りがなかったり、親に売られたりしてこの劇場に住み着く。彼女たちにとっては、ここが自分の家であり、他に帰る場所はない。だが、フェリアの場合は、座長と親しくしていた父親が、一時的に娘を預けただけのこと。おそらくフェリアの他の出演者たちへの態度に礼儀がないのはここに起因している。——ベーラなどはそれが逆に心地良いのだが、多くの女たちには反感を買っていた。——つまるところ、フェリアはいつでもこの劇場を抜け出して構わないのである。彼女は父親を待つという名目で、此処にいるだけなのだ。
そして、グロピウスは、十年以上音沙汰一つなかったフェリアの父の行く末を知っている。ベーラは先刻の一瞬で、確信した。
おそらく、音沙汰一つなかったわけではないのだ。グロピウスが、父からの連絡を遮断していたに違いない。だとすればその内容いかんによっては、フェリアが此処にいる意味はなくなる。それどころか、此処を出て父に会いに行くことだってできるかもしれないのだ。
ベーラは、自分自身のことやその近辺のことには滅多に興味を示さない。だが、今回は例外であった。多くのことに無関心であるとは言え、ベーラとてこの十数年フェリアがどれだけ父親の帰りを、連絡を心待ちにしていたか知らないはずがない。この件を見逃すわけにはいかなかった。
しかし、真実が鮮明には見えない今、あまり騒ぎ立てるのは望ましくない。特に、フェリア本人には伝えるべきではないだろう。不確かな情報は人を混乱させるのみで何ら利益を与えない。
ベーラは重たい瞼をゆっくり持ち上げた。しばらくは世情よりもフェリアの父について中心に、情報収集に徹することを決意した。己の情報網ならば、どんな深部まで掘り下げていくことも可能だと自負している。
窓の外の雨脚は強くなっていく一方であった。この雨の中、渦中のプリマドンナが人知れず外出していたことなど、情報通のベーラですら知らない。
彼女は窓の外を滴り落ちる雫の痕を指先でなぞった。
真相を調べて突き止めるというのはどうしてこんなに面白いのだろう。
久方ぶりの胸がはずむような感覚に、彼女は一人微笑んだ。