5、殺意にもよく似た
グロピウス座で新しい演目が始まる。
その知らせは都中へと瞬く間に広がり、おかげで劇場は初日から連日満席となった。役者はリハーサルと本番の繰り返しに日々休む暇もない。彼女たちの健康を考慮し、グロピウスは新しい演目が始まってから一月は客から役者へのアプローチは贈り物のみとし、面会を禁じた。それでも多忙であることに変わりはない。特に、出番の多いプリマドンナには席の暖まる暇もない。夜の時間を客に取られるだけで済んだかつての生活がどんなに楽であったかと骨身に染みていた。男と過ごすなら、適当に頷いていればいい。しかしながら、自分が舞台に立って歌う時には絶えず気を張っていなくてはならない。十日目の舞台を迎える頃には、疲弊しきっていた。
リハーサルが終わり、本番はあと二時間と迫っている。舞台監督から出される終了の合図に、自ずと安堵の息が漏れた。ようやく与えられた休憩に、フェリアは縋りつく。楽屋へなだれ込むように戻ると、部屋の端にぽつんと置かれたソファーへと飛び込んだ。楽屋の中にはまだ誰もいない。無音の心地よさと柔らかい背もたれの感触に、意識が飛びそうになる。まだ本番までは二時間あるのだし仮眠でもとろうかと目を瞑りながらも思考していると、不意にソファーが沈んだ。いつのまに楽屋へ入ってきたのだろう、誰かが隣に腰掛けたらしい。
「大丈夫? 死体みたいな顔よ」
天下のプリマドンナにこんな口が利ける人物など限られている。フェリアは隣で涼しい顔をしている黒髪の美女をまじまじと見つめた。
「この過酷なスケジュールこなしてりゃそうなるわよ……。ベーラはなんでそんなに平静なの? 本当に人間?」
「両親ともに人間だったわ」
ベーラ特有の言い回しに辟易する。彼女は人間の子は人間であるという常識を指して言っているのだろうが、フェリアの中にひょっと悪戯心が湧いた。そのまま思いついたことを口にしてみる。
「人間が、獣を生むこともあるらしいけど?」
滅多に取り乱すことのないベーラも、これにはさすがに吃驚するだろうと期待したが、彼女は相変わらずあっけらかんとしていた。
「ああ、獣人でしょう?」
こうも簡単に切り返されてしまうと面白くない。半ば不貞腐れて、フェリアはそっぽを向いた。
「どうして、ベーラはなんでも知ってるの」
「面会する男から聞くからよ。知識を乞うと喜ぶ男は多いわよ? 特に軍人にはね」
ベーラは、アンナとは違った意味で好奇心が旺盛だった。アンナが男女の色めいた話について興味を持つのに対して、ベーラは世情を知りたがる。そしてフェリアは、そのどちらにも興味がなかった。ゆえに、あの気に食わない男に「そんなことも知らないのか」と無知を馬鹿にされるわけである。
「私達ただの役者よ? 別に知らなくたっていいじゃない、そんなこと……」
「知ってて損することはないわ。得することはあってもね」
最後の負け惜しみすら安易に切り捨てられて、すっかりフェリアはむくれた。ベーラはいつものことだと言わんばかりに平然としている。この二人の会話はこのように知りきれトンボになることが多い。だが話したいことは充分話したという満足は両者にあるため、その後に続く沈黙は特に不快でなかった。
他の出演者たちはそれぞれ劇場の隣に建てられた宿舎に戻って休息しているのだろうか。この建物の中には他に誰もいないような静けさの中に、二人は身を任せる。再び眠気が訪れて、フェリアがのんびりとソファーに身を沈めると、何者かが突如けたたましい音とともに楽屋に飛び込んできた。誰も彼もが疲れきっている中で、これだけの活力かあるのは彼女くらいのものではないか。そうフェリアがうんざりしたのも束の間、頬を紅潮させ目を輝かせているアンナが、フェリアの名を高らかに呼んだ。
「フェリアっ! 例の軍人さん、また来てるわっ」
「は……」
「ナイザー准尉よ、准尉……! 彼、准尉なんですって! かっこいいわよねー!」
アンナはよほど気分が高揚しているのか、胸の前で手を組むとくるくるその場でターンした。ひらりと舞い上がる彼女のドレスの裾を見つつ、フェリアはこっそり眉をひそめる。ナイザーという音の響きが、一瞬で彼女を憂鬱にさせた。
あれから幾度か、この劇場内にて彼の姿を見かけることがあった。しかし彼はこの劇場に足を運びながらも、フェリアをはじめ他の出演者たちにも一切興味のないようだった。大抵は女連れで現われ、劇を鑑賞するだけでまっすぐ帰ってしまう。それ自体は悪いことでも何でもないはずなのに、何故だか気に入らなかった。
また、どこぞの貴族の女と一緒に鑑賞に来たのだろうとフェリアが心中でぼやくと、まるでそれに反応したかのようにアンナがぱちんと手を叩いた。
「今日は珍しく一人だったのよ、彼! だからちょっと表に出て、会話してきちゃった……!」
アンナがぺろりと舌先を見せた。フェリアは目を丸くする。彼が一人で此処まで足を運んだことにも驚いたが、何よりアンナがそこまでして彼と接近していることに愕然としていた。相手は毎度違う女を連れて劇を鑑賞に来るような遊び人である。アンナとて決して男に困るような立場ではないはずなのに、何ゆえそこまであのいい加減な軍人に固執するのか。
そう思っての反応だったのだが、フェリアの険しい顔を見て、アンナはきょとんとしていた。よく考えてみれば、アンナが彼に接近したからと言ってフェリアが衝撃を受けるのは実に奇妙な話である。フェリアはアンナはおろかベーラにも、ナイザーと馬車に同乗した話をしていなかった。ナイザーとの間に不覚にも面識が出来てしまったことを、フェリアの友人たちは知らないのである。それなのに彼女が過剰に反応するのは面妖であることこの上ない。
「……アンナったら、また練習抜け出したのね!」
フェリアは慌ててその場を繕った。隣に座る親友の方を誤魔化せたかどうかは際どいが、少なくともアンナにはそれで十分誤摩化せたようである。少女は納得したような表情を浮かべた後、やんちゃに微笑んだ。
「違うわぁ、私フェリアたちよりちょっと休憩早くもらったんだもの!」
「それでも、今は面会禁止の時期なのに。グロピウスが怒るわよ」
「バレなきゃ大丈夫よ」
アンナは無邪気に笑っている。わずかな休憩時間さえ削り、劇団主の目を盗んでまで男に会いに行こうと思うのは若さゆえか、あるいは性格か。
「普通、そこまでする……?」
「だって、今しか機会がないと思ったし……彼、本当にかっこいいんだもん! そう思わない、ベーラ?」
「別に」
ベーラは心底興味なさそうに即答した。ベーラは色恋沙汰に関して妙に冷めている。付き合いの長いフェリアですら、一人の男に固執しているベーラを見たことはなかった。——それは、フェリアの言えたことではないのだけれども。
「そっかぁ。まあ、ベーラの好みじゃなさそうだもんねー……フェリアは?」
まさか自分に話を振られると思っていなかったフェリアは一瞬固まった。咄嗟にどう答えていいかわからずに、目線が泳ぐ。しかし、あの気に食わない男を格好良いなどとはとても形容できそうになくて、力強く下方をにらみつけた。
「別に。ただの、軍人じゃない」
「相変わらず、フェリアは軍人が嫌いね……」
アンナが困ったように首をすくめた。軍人だからってみんな悪い人じゃないのよと彼女は言うが、フェリアは顔をしかめただけだった。こればかりは幼い頃潜在的に埋め込まれた意識なので、フェリア自身にもどうしようもない。
アンナは諦めたような仕草をすると、二人の前にちょこんとしゃがみこんだ。そして、ソファーに座る先輩たちを見上げる。
「じゃあ、私本気でアプローチしちゃっていいってことよね?」
無邪気な、きらきらと輝く、罪のない瞳。
その言葉を聞いた瞬間、何故かフェリアの胸のうちが激しく波打った。
隣の親友は「いいんじゃない?」と面倒くさそうに応対している。フェリアも乗り遅れてはいけないと慌ててそれに同調したが、波打つ心臓を止めることは出来なかった。
あんな男はやめた方がいい。後悔する。いろいろと安っぽい言葉が頭を過ぎり、そのまま素通りしていく。心の中にもやもやと得体の知れないわだかまりが浮かんでは消え、消えては再び浮かぶ。その正体はフェリアにも不明である。
アンナは「やった!」と悪戯っぽく笑うと、足取り軽く部屋を出て行った。フェリアは複雑な心境のまま、ただただ床を睨みつけていた。
気付けば、本番まであと一時間を切っていた。余計な話をしていたために仮眠をとる時間もなくなってしまったらしい。
フェリアは溜息を落とした。あんな男に酔いしれるアンナの心がわからない。自分の心に浮かぶわだかまりのこともよくわからない。だが、おそらくあの男が全て悪いのだ。可哀想なアンナが振り回されているのも、自分の心が穏やかでないのも、こんなに体が疲弊しきっているのも、それなのに仮眠時間がなくなってしまったことも、全てあの男のせいだ。フェリアは心の中で毒付いた。それが八つ当たりであることに、彼女は気付いていない。
空に銀鉤の月が浮かんでいる。表通りならば活気もあり道を照らす明かりもあろうが、建物を一つ挟んだ裏側には、心許ない月明かりしか光源が存在しなかった。
その日の演目が終わると、フェリアは着替えもせずに劇場の裏へと回った。裏門に続く湿っぽい道には、ほとんど誰にも使われていない鉄のベンチが放置されている。隣の宿舎と接近しているその狭い空間には、ベンチを一つ置くのが精一杯で他には何もない。日当たりは悪く草木も生えないため、余計に陰湿な雰囲気をかもしだしていた。
今頃楽屋の中は着替えたり化粧を落としたりする女たちで溢れかえっていることだろう。常であればフェリアもそこに混ざっているのだが、今日はあの混雑の中で後始末をしたくなかった。少し待てば空くだろうと見越して、しばらく楽屋からも離れた劇場の裏側で休憩することにしたのである。
予想した通り路地には人っ子一人いなかった。フェリアは衣装の裾に泥が跳ねないようにとスカートを持ち上げる。石の道を通って鉄のベンチの前まで行くと腰掛けた。布越しでもひんやりと冷たい感触は、あっという間に体温と同化していく。酷い倦怠感により脳が活性せず、フェリアはぼんやり虚空を見つめた。
考えなくてはいけないことがたくさんある。例えば、スールイ公に西へ行こうと誘われたことや、可愛い妹分であるアンナのこと。また、考えたいこともたくさんある。明日の舞台へ向けての自分なりの反省点や、いかにして親友ベーラとの口争いに勝つかなどだ。だが、頭が働かない。無意識に口を開くと、歌が溢れた。彼女にとって歌うことは息をするのに等しく自然な動作なのである。人前で歌うためだけにこの声は存在しているわけではないと教えてくれたのは誰であったか。
——お前の歌は人を救う。
かつてそう言ったのは、フェリアの父ラドレッサだった。ただ歌うだけという動作の中にいかなる救いがあるのかフェリアは未だに答えを見つけ出せてはいないが、実際に彼女の歌を聞いて「救われた」と口にする者は少なくなかった。誰もが彼女の歌に恍惚と聞き惚れる。——あの男を除いて。
今宵の舞台の上から見ても、ナイザーの姿はやけに目立っていた。他の客の全てがフェリアの歌を聴いている時に、彼だけはフェリア自身をまっすぐ見捕える。鋭い視線に貫かれるような気がして、どうにも落ち着かない。そのせいでフェリアは二、三個ミスをしていた。劇全体に関わるほどの大きな過ちでなかったから良かったものの、客からの視線に気が散ってミスをするなどという屈辱は初めてであった。その原因があの男だということがさらに、腹立たしい。
フェリアは心に渦巻く恨み言が口から出て行かぬようにと歌を止めた。彼女は始めた歌は歌い上げると自分の中で決めており、滅多に途中でやめることはなかったが、今ならば不自然に消えていく旋律を聴いている者は自分以外にはおるまい。と、油断していたため、不意に路地の奥の物陰から響いた声に仰天した。
「——やめてしまうのか?」
全く予測していなかったために、自ずと体が震えた。声の発生源を探して右へ左へと頭を巡らせていると、くくと厭味な笑い声がする。同時に、建物の設計の誤りで出来てしまったような小さな隙間から、男が出てきた。
「ただでプリマの歌が聞けるとは儲けものだと喜んでいたのだが」
丁度頭に思い描いていた相手だっただけに、動揺を隠せない。
「准尉……どうしてこんなところに?」
だが、それ以上にこの路地裏に潜んでいたことに驚愕していた。劇団の者さえいないと思っていたのだから、当然のことである。そもそも、此処はグロピウス座の私有地だ。どうやって入ってきたのだろう。
「……今は、面会禁止の時期よ。それに、劇場の裏側への一般人の立ち入りは禁止されてるはずだけど」
「そのようだな。それでもプリマに会いたいという男たちが、裏門の前にうじゃうじゃとたむろしている。さすがにプリマドンナの人気は著しい」
かけらの誠意も見えない応対に、苛立ちが募る。フェリアは自分の胸の内を落ち着けながら平常心を失うまいと、緩やかに足を組んだ。これ以上この男のペースに巻き込まれるのは御免である。あくまで、自分はプリマとしての余裕を保たなくてはならない。
「——准尉も私がお目当て?」
「俺が?」
「わざわざ劇場の私有地まで忍び込んだりして。そこまで熱意のあるお客様は初めてよ」
「おや、意外だな。度々あるのかと思っていたが」
「まさか。貴方が第一号よ」
「それは期待を裏切って申し訳ないな」
「期待ですって……?」
「残念ながら、今日はプリマがお目当てではない。生憎、女に不足はしていないもので」
「……そうでしょうね。じゃあ今日は何? どこかの貴族のお嬢様に劇場の裏側を視察してこいとでも懇願されたのかしら?」
「今日は一人できたんだよ。君の元のソプラノ歌手から熱烈な誘いを受けてね。こっそり中へ入れてもらったわけさ」
「まあ……」
アプローチすると断言したアンナの姿が脳裏に蘇った。彼女の行動力の旺盛さには呆れるばかりである。フェリアが注意しようとも直らず、グロピウスが叱ろうとも反省しないのは、本人にその気がないためだろう。フェリアは頭を抱え込みたくなった。
「……で、そのアンナは?」
中まで侵入できた経緯はわかったが、肝心の犯人が見えない。訝るような視線を向けると、ナイザーも困惑したような表情を見せた。
「終幕してすぐに裏門から入れてもらったのはいいが、しばらくしたら裏門の前にプリマのファンが集まってしまってな。出ようにも出られんのだ。彼女が他の出口を探しに行ってくれている」
裏門以外の出口は、表の正門かもしくは丁稚がゴミの出し入れなどに使う小さな木戸しかない。正門から出るわけにはいかないだろうし、アンナはゴミ出し用の木戸の様子を見に行ったのだろう。汚らしい木戸をくぐってこそこそと出て行くナイザーの姿を想像し、フェリアは思わず笑ってしまった。なんとも間抜けな風体である。これで少しは溜飲も下がるというものだ。
「准尉ともあろう方が、ざまぁないわね。ご愁傷様」
「何、おかげで劇場の裏を見るという貴重な経験をさせてもらったし、プリマの鼻歌を拝聴できたからな。安いものだ」
皮肉は安々と受け流される。ますますフェリアの機嫌が傾いていくのを知りながら、男は屈託なく笑った。結局、フェリアは彼の調子に飲み込まれていく。自分の意思でなく相手の都合の良いようにもてあそばれるのは望むところではなかった。負けるまい、とフェリアは毅然とした態度を固持し続ける。腕を組んで壁際を睨み上げると、面白そうに歪められたナイザーの目と視線がかち合った。
「……女には不足していないんでしょう? それなのにアンナに手を出す必要はないんじゃなくて?」
「おいおい、勘違いしてくれるなよ。手を出したのは向こうだ。俺はその手を取ったまで」
「同じことよ。軽はずみな気持ちなら近付かないでと言ってるの」
「おや、プリマが悋気か?」
「ふざけないで! あの子に本気なの、そうじゃないの?」
「可愛い女だと思うよ。俺には勿体無いくらいだ」
「それ、答えになってないわ!」
フェリアは息巻いて、立ち上がった。そこまで向きになる必要はないだろうにと呆れる心がある一方で、怒りを止めることも出来ない。ナイザーはこちらを見て興味深そうに微笑むのみである。その態度が彼女の神経をますます逆撫でしていく。
激昂し、何かを甲高く叫ぼうと口を開いたその時、ナイザーの後ろ側より小さな影が飛び出してきた。
「准尉……!」
暗く湿った空間の中でも、明るく爽やかさを失わない少女の声である。目映いほどの笑顔を称えて現れた少女は、そこにフェリアの姿を見つけると、小首を傾げた。
「あれ、フェリア……?」
フェリアは思わず、アンナから視線を逸らした。自分には関係のないことなのに、必要以上に熱くなってしまったと反省する。他人の口出しするところではない。アンナの問題なのだから、彼女が解決すればいいのだ。
「……出口は見つかったかい?」
きょとんとしていたアンナであるが、ナイザーに声をかけられるとすぐに目映さを取り戻した。自分より幾分も背の高い相手を見上げてにっこりと微笑んでいる。
「ええ……! 汚らしい木戸になってしまって、申し訳ないんですけれども……」
「構わんよ。それもまた一興」
「准尉はご寛恕の深い方ね、本当に……!」
アンナは嬉々としてナイザーを連れ木戸の方へと向かっていった。ナイザーもそれに従い、二人はフェリアの方を振り返ろうともしない。その姿が建物の角を曲がって見えなくなると、取り残されたフェリアはずんと重たくなる頭を片手で支えた。首をぐったりとうな垂れると、足元がふと目に映る。あれほど気をつけていた衣装の裾が、泥に濡れていた。我を失って激昂などしたからである。
フェリアは首を横に振った。自分はどうかしてしまったのではないだろうか。調子が狂っている。これは、いつもの自分ではない。
(楽屋へ、戻ろう)
かなり時間は経ったはずである。今戻れば楽屋もすっきりしているだろう。
休憩をしに此処まで出てきたはずだったのに、疲労は溜まっていくばかりであった。肩が重い。だが、何より頭が痛い。熱でもあるのだろうかと疑って額に手を当ててみたが、特に異常は見られなかった。
まっすぐと目的地を向かうと、期待した以上に空いていた。残されているのは脱ぎ捨てられた衣装ばかりで、人影はない。着替えが済むなり、皆寝床へ戻ってしまったのだろう。それぞれ連日の舞台とリハーサルに疲れているだろうから、無理もなかった。
フェリアは化粧台の一つを選んで椅子を引くと、腰を下ろした。ゆらゆらと燭台の上の灯が揺れている。目の前にどんと聳え立つ鏡台の前に肘をつくと、己の姿がその灯の色に染められていた。花のようなかんばせと言われるその顔が、目の前には鮮明に映し出されている。
——お母上によく似て美しい。
そう評されるこの顔を、フェリアはどうしても好きになれなかった。確かにこの顔のために得をすることもあることは認めるが、だからと言ってあの女のことを思い出さずにおれないこの顔をどうして好きになれよう。フェリアの記憶の中の母親の面影はひどく不鮮明であった。そのため、彼女の思い描く母親は、自分と同じ顔をしている。
民衆に天女のようだと言われて愛されていた母は、心優しい若き青年作曲家をたぶらかした。彼を、騙して捨てたのだ。父と母が一緒にいた期間はわずか数ヶ月だったという。父はその間に母に一生の愛を誓い、だが、母は父に別れを告げることすらなく蒸発した。父の手元に残されたのは、生まれたばかりの娘と白く細い花束だけだったという。母は子供の面倒の一切を男に押し付け、その手向けとばかりに花束を一つ置いていった。そしてそれきり二度と、姿を現さなかった。自らに必要のないものとして、廃棄したのだ。
しかし、そんなことをされても、父は母を愛することを誓い続けた。自分の前にはいない相手を愛することはどんなに苦痛だったろう。そして最後には、戦火の中へと自ら身を投じて、消えてしまった。
「フェリア」
名前を呼ばれて、フェリアは顔を上げた。いつの間に戻ってきたのだろう、鏡越しにアンナが覗き込んできていた。
「——どうしたの、怖い顔して」
無邪気に首をかしげている少女には、悪気もなければからかいの気持ちもない。おそらく自分は恐ろしく冷淡な形相をしていたのだろうなと思って、フェリアは頬を掌で撫でた。
「……疲れてるみたい」
「毎日働きっぱなしだものね」
フェリアの隣に腰を下ろしたアンナは、鏡に向かって白粉を落とし始めた。化粧落とし特有の鼻に通る臭いがする。フェリアは自分もまだ何の始末もしていないことを思い出して、アンナと同じ薬品を手に取った。
「アンナは、元気ね……」
「恋する乙女が疲れている顔を見せるわけにはいかないでしょ?」
「恋……」
恥ずかしげもなく吐き出された言葉にこちらの方がうんざりとしてしまう。フェリアは布で顔を拭く動作をふと止め、手を台の上に置いた。先刻のアンナの様子と、ナイザーの無情な台詞たちが次々に頭の中に蘇る。頭痛がますます酷くなりそうだ。
「……本気なの?」
恐る恐る問いかけると、
「もちろん」
何の恐れもない答えが返ってきた。フェリアの中を、複雑怪奇にさまざまな感情が駆け巡っていく。自分でも整理できない流星のような感情たちをなんとか押しとどめようと布を持ったまま拳を握り締めれば、布に浸した薬品が指の合間から滴り落ちていった。
「やめた方がいいわ」
咄嗟に口をついて出た言葉に、我ながら驚いていた。
「アンナのためにならないもの」
——私は何を言っているのだろう。
フェリア自身にも理解できない感情が言葉になって溢れていく。自分で自分を傍観しているような気分になった。まるで体の中に自分が二人いるようだ。
隣にいる少女もフェリアの突然の苦言にきょとんとしていた。
「……どうして?」
「愛なんて、所詮まやかしでしょう?」
「フェリア」
「何をどうしたって、実体はないのよ。見えない何かに翻弄されて、傷つくことがあっても得られる物なんて何もないの」
「フェリア……そんな悲しいことを言わないで」
「悲しいことなんて何もないわ。私は真実を言ってるだけよ」
「でも、すごく悲しそうよ、フェリア」
「私が……?」
自分を指差し首を傾げると、アンナは小さく頷いた。
目の前の鏡に映る自分は、そんなに悲愴な顔をしているようには見えない。だが、何かを思いつめていた。まるで何者かに追われているように、焦っている。
「フェリアも、恋をした方がいいわ」
「恋? 私が……?」
「ええ。そしたらきっと、そんなこと思わなくなる。絶対よ」
アンナは力強く断言した。彼女は幸せそうに微笑むと、再び鏡へと向かった。その幸福そうな面差しは、フェリアには決して真似できない物である。——眩しいのである。晴れ渡る夏の日に、肉眼で太陽を仰ぐような苦痛を感じてしまう。目が眩み、しばし言葉もなくす。
フェリアには、アンナが日常的に語る「愛」というものがさっぱりわからない。これが愛なのだと信じられる物など何一つなかった。
フェリアに言い寄ってくる男たちは、舞台の上で歌うプリマドンナとしてのフェリアに幻想を抱いている。フェリアはそれを瓦解させることなく演じきり、そこに愛の生まれようはずもなかった。
フェリアの母は誰のことも愛さなかった。人々に慕われる身でありながら、己は誰にも手を差し伸べなかった。一度は伴侶になった男にすら、そして自分の娘にさえも。
そしてそんな母を十年かけて追いかけ続けた父の姿にも、フェリアは愛を感じることなどできなかった。彼は母を追うために命を削り、十年も苦しみ続けたのだ。それは愛というより、呪縛である。彼女を愛し続けると誓った彼の心は、単なる呪詛でしかない。
人は何の目的か、恋をする。それはやがて呪縛となりその人間を殺してしまう。心を引き裂き、肉体を衰えさせやがては死に至る呪いだ。——ならばそんなもの、最初からなくしてしまえばいいのだ。愛など存在しないと声高らかに言い切ってしまえばいい。
フェリアはそう固く信じていた。そのはずだった。
それなのに、時折明るく輝くアンナを羨ましく思うのは矛盾しているのではないだろうか。彼女のことを眩しいと思い、彼女からは悲しそうな顔をしていると言われる。どうして存在しないものに縋る彼女を羨み、存在しえないものを切り捨てた自分が悲しげに映るのだろう。
フェリアは手に握り締めていた布を、台の上に置いた。その上に腕を組み、額を乗せる。唐突に机に突っ伏したフェリアを「大丈夫?」とアンナが気遣ってくれたが、大丈夫と返す余裕がなかった。つまり、大丈夫ではなかった。
酷く頭が重い。内側から外へと響くような頭痛がする。間々思い出される男の顔が、憎くて仕方ない。忘れてしまえばいいのに、どうしてわざわざ思い出してまで憎む必要があるのだろう。
——いっそ、一思いに殺してやりたい。
この時フェリアは初めて他人に殺意を抱いた。あれだけ恨んでいた母親にさえ、芽生えなかった激情を生まれて初めて経験した。
これがわだかまりの正体だったのだ、とフェリアは自分なりに結論付ける。二十年生きてきて、こんな感情を抱いたのは初めてなのだ。突然現われたあの男に、何もかもを奪われてしまう気がする。
——私は、あの男を殺してしまいたいほど憎んでいる。
誰もが花のようなかんばせだと称したその顔に、修羅の影が映った。