4、物知らずな歌姫と奇妙な男
走行中、馬車の中は恐ろしく静かだった。フェリアが会話の一切を拒んだためだ。途中まではいろいろと話しかけてきたナイザーも、いい加減に嫌気が差したのか、途中から口を閉ざした。
劇団の外の人間、客になるかもしれない人間に対して無視を決め込むだなんて、こんな行動に出たのは初めてのことだった。フェリアが会話をするのは劇団の人間以外には客人くらいのものだし、相手が客であれば例えどんなに嫌いな相手でもフェリアは仮面を被ることができた。そもそも金を払ってまでフェリアに会いたいと言う輩は彼女に対して不遜な態度を取ったりしない。少しでも彼女が気分を害せばプリマの機嫌を取ろうと必死になるので、会話を拒む必要もなかったのだ。
スールイの田園地帯を抜けると、次には山道が迫ってくる。馬車は暗い山道に差し掛かっていた。山奥とは言え人の手によって開かれており、今では住まう獣も少ないが、夜になるとどことなく不気味である。
「ようやくスールイを出たか……都まで遠いな」
まだ道のりの半分にも到達していない。そう呟いたナイザーにつられて、フェリアも延々と続いている道を見やった。暗闇の中、鬱蒼と生い茂っている山の木々には得体の知れない恐ろしさがある。もしもこんな道の途中で馬車が動けなくなってしまったりしたらと想像するだけで慄いた。隣に座る男は気に食わないが、同乗させてもらった一点には感謝の念が浮かぶ。
「……何の用があったのか知らないけど、貴方がスールイに来ていて助かったわ」
ぽつりと零すと、ナイザーがぴくと反応した。初めてフェリアから能動的に発された言葉に、少なからず喜んでいるらしい。彼はにやと笑った。
「何用があってこんな辺境まで来ていたのか、知りたいか」
いちいち彼の台詞は癇に障るものばかりである。
「……別に」
「スールイ公のご息女を都から送ったのさ」
聞いてもいないのに説明されて、フェリアはうんざりと後れ毛をかきあげた。
そういえばスールイ公には二人娘がいたな、と思い出す。もしも本当にスールイ公が西国へ行くつもりなら、娘たちをどうするつもりなのだろうと頭の片隅で考えた。その一方で、たかが准尉でしかないこの男が何故仮にも公爵であるスールイ公のご令嬢と知り合いなのかという疑問が浮かぶ。フェリアは横目でナイザーを見上げた。
「そういえば、一度うちの劇場に来た帰りにも、貴族のご婦人と一緒だったわね。あれが公爵様の?」
「そんなこともあったな……プリマは意外によく見ていらっしゃる」
ナイザーの口の端が持ち上がる。しまったと思うが既に遅い。劇場の窓からこっそり彼の姿を窺っていたことを計らずも吐露してしまったことに気付き、フェリアは恥辱に赤くなった。
「ちなみにあれはスールイ公のご息女ではないぞ。知り合いの伯爵夫人の妹御で、一度民衆の娯楽を見てみたいとおっしゃっていたから、グロピウス座に連れて行ったんだ」
「……どうでもいいわよ、そんなこと」
「これは心外。プリマの方から聞いてきたんだろう」
「貴方が何人の貴族のご婦人をたぶらかしていようと、どうでもいいと言ったの」
「貴族だけに傾倒しているつもりはないが」
それこそどうでもいいことだったので、フェリアは無視することに決めた。再び彼女が無言になったのを受けてさすがに悪ふざけが過ぎたと思ったのか、ナイザーは意地の悪い笑みを隠す。彼は癖のある茶の髪を自分で撫でながら目を細めた。
「——今のラウグリアはどう傾くか、全く先が見えんからな。少しでも人脈を広げておきたいものだ」
貴族の女と遊び歩いていることを何の恥もなく吐露しておきながら、急にしおらしく言うものだから、覚えるのは違和感ばかりだ。
「……それが女遊びの大義名分?」
「まあ、そんなところだ」
「女を使って准尉までのぼりつめたとでも?」
「否定は出来ないな」
ナイザーの面に食えない笑みが戻ってくる。思わずフェリアが表情を険しくさせると「冗談だ」とすぐに弁明した。それでもあながち冗談に思えないのは、ふざけた人柄の所為だろう。ベーラから聞いた「オレーク・ナイザー」という人物は、この世に二人といない傑物という印象だった。軍人なら誰でもその名を知っているというのだから、あながち間違ってはおるまい。だが、この男のどこから傑然たる所以を見出せばいいのだろう。
フェリアがぼんやりと悩んでいると、ふとナイザーが唸りをあげた。続けて吐き出した声は低い。
「ラウグリア国の民は、自分がいかに恵まれているのかを何故か納得できていない」
今までになく真面目な声色に、むしろ気味の悪いものを感じる。フェリアが首を傾げると、ナイザーは試すような視線を投げかけてきた。
「お前は、そもそも何故この戦争が始まったか知っているか?」
「……知らないわ。今から十年以上も前のことじゃない」
「そうだな、今から十三年前のことだ」
十三年前のあの日、フェリアの父は兵卒になると言って姿を眩ました。フェリアには、この戦争の意味などどうでもよかった。とにかく父が戻ってくれば、それでよかった。
「北国ラウグリアは、東国ヤンムを占拠する戦を始めた。何故なら、東国ヤンムはラウグリアと違って冬が短い。北国は実り豊かな土地を欲しがった。そして十年かけて東を征服し、今度は西国エウリアを配下に置かんとして戦っている。理由は、東に戦いを吹っかけた時と同じだろうな」
しかし、とナイザーは顎を引いた。彼の目の色が変わる。それはフェリアがかつて劇場の舞台から見た物と同じで、殺気すら感じられるほどの鋭い覇気を帯びている。彼女は思わず身震いしそうになるのを、必死で押しとどめた。
「——しかし、東が本当に豊かな土地ならば、何故、東西南北四カ国の中で最も貧しい国と言われているのか。北は冬こそ長いが、英知に恵まれている。西国のように宗教に頼らずとも何百年も巨大な国家を支えてこられたのは、人間の考えが発達していたからだ。——それに、北国には獣人がいない」
「獣人……?」
「お前はそれも知らないのか」
呆れたように吐き捨てられてむっとするが、知らないものは仕方がない。フェリアが口を噤むと、ナイザーはため息をついた。
「獣人。西国では人畜とも呼ぶらしいが、俺たちは獣人と言うな。人の子として生まれるが、成長するに連れて巨大な化け物になっていく生き物だ」
「……まさか」
「信じられんのも無理はない。何故か、北では生まれてこないからな。かと言って南に行けば行くほど多いかと言えばそういうわけでもないらしい。獣人の出生率が最も高いのは東国だ」
「人間が、化け物を生むの……?」
「端的に言えばそういうことになる。どういう原理なのか未だにわからないが、生むまで親にもわからない。しかも、幼い時には人の形をしているというから尚更厄介なんだ」
フェリアは想像出来ずに、ただただぽかんとした。
「東国の発展が遅れているのは、この獣人の影響だと俺は思っている。成長してしまえばただの獣でしかないから、人には扱えない。ゆえに人は獣人を殺すが、大抵の親は情が移って殺せず、山奥に捨てるか自分の方が子供に殺されちまう。そして野生化した獣人が山奥や森に溢れるわけだな。東では、こんな風に夜中の山奥で馬車を無防備に走らせることなど出来ないそうだぞ」
言葉を失ったフェリアに苦笑し、ナイザーは馬車の小窓に肘を突いた。月明かりと前灯だけで暗い山道を走れるほど、北国ラウグリアは恵まれているのである。
「……それなのに、ラウグリアが戦に暴走しているのは、『力』があるからだろうな」
「力」という単語に妙な気迫があり、フェリアは不思議に思ったが、これ以上物知らずだと思われたくなかったため、疑問を飲み込んだ。そういえば、スールイ公も妙にフェリアには「力」があると繰り返した。それとこれとが関係あるのかないのかさえ、フェリアには判断できない。
「……あんただって軍人じゃない。国を戦に走らせている一員よ」
誤魔化すように憎まれ口を叩いた。そうすれば、ナイザーが先刻までのようなふざけた調子を取り戻すと思ったのだ。しかし、彼は「そうだな」と低い声色で呟いたきり、閉口してしまった。月夜を眺めて、こちらを見ようともしない。
——本当に、奇妙な男である。
准尉という立場にありながら自国の体勢を批判し、しかもそれを初対面のプリマドンナに向かってぼやく。腹の立つほどふざけているかと思えば、気味の悪いほどに真面目腐る。
ぱかぱかと軽快に馬の闊歩する音が、夜道の静寂の中へ響き渡った。そろそろ山を越え、都の見えてくる頃合である。
それから後もずっと、馬車の中は静寂に包まれていた。