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3、歌姫の力と矜持

 アナトーリ・ヘルム公爵。貴族制度により支配されるラウグリア国にて公爵の地位を持ち、首都エルヴァから南西の方角へ離れたスールイと呼ばれる田園地域に屋敷を構える男である。数年前に父から位を継いだ。スールイ公という通称を持つ。


 彼の屋敷に呼ばれたフェリアは、朝一番に馬車に乗せられ、午前中いっぱいを揺られて過ごした。その道中で転寝をしてしまっていたらしい。目が覚めると、普段過ごしている都とはまるで違う、延々と続く緑に包まれていた。


 他国には「北国」とも呼ばれるラウグリアでは、秋から春にかけて地面が凍り雪に覆われてしまうため、田畑を構えるのが難しい。スールイは、ラウグリアの中でも珍しい稔り豊かな地域であった。

 季節は夏であり、草木は青々と茂っている。フェリアが来るなり喜んで屋敷内へと迎え入れた公爵は、自慢気にテラスから一望できる景色を見せてくれた。外へ出る時は常に仮面をかぶるフェリアも、この時ばかりは素直に感動を覚えた。ラウグリアにおいて、これほどの緑を見ることが出来るのはスールイだけではないだろうか。


 テラスでの昼食を終え、フェリアは公爵に頼まれるままに歌を歌った。舞台上で壮大なオーケストラに合わせて歌うのも嫌いではないが、こうして伴奏もなく好きな曲を口ずさむのはまたそれとは違った良さがある。フェリアの父がかつて残した曲のほとんどは、どちらかと言えば鼻歌程度に口ずさむことに向いており、フェリアは歌をねだられると必ず父の歌を歌った。

 揺り椅子に腰掛け、瞑目してフェリアの歌に聞き入っていた公爵は、それが終わると同時に軽く手を叩いた。舞台に響く盛大な拍手も、一対一で自分へと贈られる素朴な拍手も、フェリアには同じ重みに感じられる。

「——君には、力があるね」

 それはフェリアが歌うと、たびたび公爵の漏らす感想であった。評論家たちも、劇場を訪れれば「力のある歌手だ」と口を揃えていたので、おそらくそれらと同じ意味なのだろう。その「力」とやらにより、フェリアは他の歌手たちを制してプリマになり、他の劇場を制して自らの劇場を繁栄させたのだ。フェリア自身が望んだ以上に、その力は強大だった。

「公爵様の、プリマですもの」

 フェリアはさらりと答えて会釈する。公爵は満足そうに頷くと、ソファーに座るよう促した。テラスに通じる広い居間には、一人掛けのソファーが六つ置いてある。中央にはガラスのテーブルがあり、シャンデリアの光をきらきらと反射させていた。

 フェリアの腰掛けた向かいに腰を下ろしたスールイ公の頭髪には、ちらほら白髪が混ざっている。位をもらって家を受け継ぎ、仕事をやりはじめる時にはすでに年老いてしまっているという貴族の生き方は、フェリアには理解しがたいものであった。

「相変わらず美しい声だな」

「おかげさまで、まだプリマの座を守り通していますわ」

「お前に敵う新鋭はそうそう現れるまい……。歌の御礼と言ってはなんだが、何か欲しい物はないか」

「欲しい物、ですか?」

「贈る物として一般的な物は何不自由なくファンからもらっているだろう? お前が欲しいと思う物はなんだ」

 フェリアは思わず唸りを上げた。

 何か欲しい物はないか、とはフェリアへ向けられる問いの中でも最も多い物の一つであった。なんとかして人気者のプリマの心を自分へ向けようと四苦八苦するファン達は、彼女の望む物を知りたがる。だが、正直なところ、フェリアには格別欲しい物などないのだ。それでもいつもはその時々に応じて相手の男に用意できそうな物を選んでねだっていた。しかしスールイ公を相手にすると、言葉に窮してしまう。貴族階級の中でも最も高い位に拝命されている彼に、大抵の物は手に入れられてしまうから。

「……公爵様、私、欲しい物なんてございませんわ」

 正直に答えると、銀の縁を持つ眼鏡の奥が、興味深そうな色に輝いた。

「欲しい物がない、と? 若いくせに、うちのプリマには欲がないな」

「欲がないわけではありません。でも、欲しい物ってなんでしょう……」

 フェリアはメイドが出してくれた紅茶のカップを手にとって、赤い水面に目を落とした。ゆらゆらと波打つ中に、自分の顔が見える。

「公爵様のおっしゃる通り、ありとあらゆる物が連日私の元へ届けられます。形ある物には不足しておりません」

「では、形ない物が欲しいか」

「そういうわけでもありませんの。私は歌が好きですけれど、歌うための場所もあれば歌うための声もあります。私をプリマにまで持ち上げてくれた容姿も、世話を見てくれる人も、友人だっております。大勢の人に愛されてる自覚だってありますわ。しいて言うなら、お父様に帰ってきて欲しいくらいです」

「お前を芝居小屋に預けて消えた父か。さすがに行方の知れぬ軍人を探すのは、私にも難しいな」

「それどころか、生きてるかどうかも定かじゃありませんもの」

 フェリアは誤魔化すように笑ってみせた。気まずい空気にならぬようにと口に含んだ紅茶は甘い。何の葉を使用しているのか、花のような香りがした。

「……では、今のフェリアは満たされているということかな?」

「……それは」

 フェリアは再び考え込む。満たされているかと問われれば、答えは否であった。しかしながら、何が足らないのかはわからない。ゆえに日々、理由なき憂いを感じている。

「例えば、劇場を出てみたいと思ったことは?」

「え……」

「フェリアは、自分には歌う場所があると言ったが、その声さえあれば、歌う場所など何処でも確保できよう。何もラウグリアの小さな劇場にこだわる必要はあるまい」

「それは、どういうことですの」

「私と一緒に西国へ行く気はないか」

 フェリアは目を大きく見開いた。

「……冗談でしょう?」

「本気だとも」

 驚きのあまり手から滑り落ちそうになったカップを受け皿に置き、テーブルへ戻す。まっすぐ見つめてくる公爵の目は、冗談を言っているようには見えなかった。

「でも、西国エウリアは、戦地なのでしょう……?」

「東国ほどではない。今のうちにもぐりこんでしまえば問題ない」

「けれど、どうして……?」

「近い将来、西国エウリアはこのラウグリアの確固たる敵になるだろう。その時に、敵情を探ることが出来ればいいと思わぬか?」

「そんなこと……公爵様のやるお仕事ではありませんわ」

「軍に任せておけと言うか?」

 普段柔らかな物言いしかしない公爵の強い口調に、フェリアは言葉を呑んだ。公爵は掌を重ねてその上に顎を乗せる。いつになく難しい顔つきをしていた。

「この国は皇帝を中心とした貴族の国だったが……その時代はもう終わった。今、国は軍に食われてしまっている」

 フェリアは頷いた。かつて、都へと降りて劇を鑑賞するのはほとんど貴族ばかりだったという。しかし、フェリアはその時代を知らない。彼女が舞台に立つようになってから、客席が軍人で埋まらない日はなかった。

「そのうち軍は我々貴族の存在をも疎むようになるだろう……その前に、私は軍に重宝される存在にならなくてはいけない」

 公爵の言い分は尤もに聞こえた。フェリアは国情などほとんどわからない。しかし、都を闊歩する軍人の横暴な振る舞いを目にすると、彼らが本格的に権力を握るなりそれまで王宮を支配していた貴族を排除するのはごく自然の成り行きに思えた。

「……公爵様のお考えは、よくわかりますわ……けれど、どうして私を一緒に?」

 公爵の気分を害さないようにと、緩やかに問いかけると、硬かった彼の表情が一気に和らいだ。いつも通りの公爵の顔だ。

「お前がいれば、見知らぬ西の地でも路頭に迷うことはあるまい。もともと劇場すら所有していなかったグロピウスの劇団をあそこまで繁栄させたように、きっと幸福をもたらしてくれる」

「そんな……買いかぶりすぎですわ」

「買いかぶりなどではない」

 公爵の顔が再び険しくなる。

「お前には、力がある」

 今まで何度となく繰り返されたその台詞が、やけに重々しく聞こえた。フェリアは、はいともいいえとも言うことができない。金縛りにあったように固まってしまった。その昔、母が地方の豪族につれられて劇団から姿をくらましたことが頭をよぎる。自分は、決して母のようにはならない。それだけを心に決めて生きてきた。もしここで安易に公爵の手をとってしまったら、それは自分への裏切りとなり、父への裏切りとなるのではないか。そう思うといくら公爵様の頼みであっても、軽々しくは頷けない。

 黙りこくって俯いたフェリアに、公爵は「今すぐにというわけではないから」と付け加えた。彼は本気である。フェリアはしばらく言葉を探して黙り込んでいた。



 「この一件は他言無用」と公爵に釘を刺され、フェリアが彼の邸宅を出たのは夕暮れ時のことであった。まだ先のことだからと彼は言ったが、グロピウスに聞こえてしまったら彼がパニックに陥ると見越したのだろう。グロピウスはプリマドンナとしてのフェリアはもちろん、自分の友人の娘としてのフェリアも大切にしてくれている。フェリアの父、ラドレッサが戻ってくるまで何があっても護ってやるからとは彼の口癖だった。フェリアも、グロピウスを父の代理と思っている。余計なことで心配をかけたくはないが、彼に黙ってこの件を自決する気もなかった。とりあえず、しばらくは様子を見ることにして、口を噤んでおこうと決める。

 邸宅の門の前には、フェリアが都から乗ってきた馬車が彼女を待っていた。劇団が唯一所有している車で、グロピウスやフェリアなど劇団の重役しか滅多に使わない。そしてその隣には見知らぬ馬車が停車している。丁度今到着したようで、馬が足並みを整えると、馬車の扉が開いた。スールイ公の客人か何かだろうとフェリアは大して気に止めず、自らの乗る車の方へ回った。劇団専属の御者が車輪の脇に控えている。なぜかそわそわとしていて落ち着かない。彼はフェリアの姿を見つけると、はっとしたように顔をあげて、駆け寄ってきた。

「プリマ……!」

 そのただならぬ様子に、フェリアは何事かと目を瞬かせる。昼時に此処へきてから数時間が経過しているが、その間に何か事件が起こったのだろうか。御者は困惑したように馬車の方をちらちら眺めながらフェリアの顔色を窺った。

「実は、その……馬車の車輪に故障が見られまして……」

 御者はおどおどしながら、馬車の後輪の方を示した。つられて後輪を見るが、フェリアの目では故障の有無などわからない。鉄で作られた黒い輪は、おおよそ不調があるようには見えなかった。

「外側からはわかりづらいもので……私も、まるで気付かず、ここまで来てしまいましたが……行きに無理をさせてしまっていたようで、帰りはエルヴァまでもつかどうか……」

「まあ……」

 都まで辿り着ければ、そこからは町馬車を拾ってもいいし、いざとなれば歩いても戻れる。しかし、その途中の砂利道や山道で身動きが取れなくなってしまったら、もはやなすすべがない。

 フェリアが柳眉を寄せると、御者は縮こまった。馬車を走らせない時は、馬車や馬の整備が彼の仕事である。車の不調に気付かなかったのは彼の落ち度だ。おそらくフェリアを待つ間にそのことに気付き、今まで自責の念に駆られていたのだろう。グロピウスがいれば団長としてその失態を叱るだろうが、プリマにその権限があるかどうかはわからない。ただの不平になってしまうかもしれないし、そもそも彼を責めたところでどうしようもないので、致し方なくため息を吐いた。

「公爵様に頼んで、馬車を借りるしかないわね。私は明日も舞台があるし……」

「申し訳ありません……」

 深々と頭を下げた御者を前に、フェリアはすっかり窮する。公爵から馬車を借りられればいいが、彼の足を奪ってしまっては、公務に支障をきたしてしまうかもしれない。公務と天秤にかけられてしまったら、フェリアの舞台に勝機のあろうはずもなく、フェリアは足止めを食らってしまう。

「とりあえず、私は早々に都へ戻ります」

「壊れた馬車で?」

「私一人なら、なんとかなります。いざとなれば馬に乗って帰りますし」

「鞍がないわよ」

「轡はありますので、都までならなんとか……」

 いざとなったら、御者が都まで往復して戻ってくるのを待つしかない。とにかく公爵に相談してみないことには始まらない。フェリアが再び門を潜って屋敷の方へ戻ろうとすると、不意に引き止められた。見知らぬ声に、足が止まる。振り返ると馬車に片手を乗せた男がこちらを見ていた。

「お困りのようなら、同乗して行かれぬか?」

 先刻、門の前に到着した馬車から降りた人物である。夕闇の中、馬車の影に隠れて顔は見えないが、軍人らしい。普段であれば見知らぬ軍人に同乗を頼むなど有り得なかったが、今は願ってもない話であった。

「よろしいの?」

「構わんよ。これから都へ引き返すところなのでね」

 ありがたい、とフェリアが胸の前で手を組むと、隣に控えていた御者もほっと胸をなでおろしたようだった。これで彼の過ちが消えるわけではないが、少なくとも明日の舞台に彼の所為でプリマが穴を開けてしまうという大事故は防げそうである。

「助かるわ」

「元々二人乗りの車だ」

 なんてことはない、と男は肩を竦めた。夕日が完全に落ち、道も暗くなる。男の乗ってきた馬車の御者が、自分の車の前灯に火を落とした。ほんわりと暖かい火にその場が照らされる。それまで黒い影でしかなかった軍人の顔が炎によって映し出された。それはとても、見覚えのある顔立ちであった。端整な造りをしており、鋭い目を備え、どこか虚無的な笑みを称えている。フェリアは思わず息を呑んだ。

「ナイザー……准尉……」

 それは、少し前に劇場の観客席にあった顔と全く同じであった。

 オレーク・ナイザー。今まさに名を上げている軍人だと、ベーラに聞いたばかりである。まさかこんなところで顔を合わせるとは、夢にも思っていなかった。

 名を呼ばれたナイザーの方ははて、と首を傾げている。

「どこかでお会いしたか……?」

 フェリアは目を丸くした。しばしの間、瞼を下ろすことすら忘れる。それほどの、衝撃であった。

 フェリアは、都ではその名を知らぬ者がいないというほど名だたる歌手である。その姿見たさに劇場を訪れた者は、一生彼女を忘れることなどなく、実際フェリアは知らぬ者から名を呼ばれることはあってもその逆を経験したことがなかった。しかも、この男は幾度かフェリアの舞台を見に来ているはずなのである。

「……フェリア・パーチスよ。グロピウスの劇場でプリマをやってるの」

 渋々自己紹介をすると、ようやく思い出したように、ナイザーは手を打った。

「ああ……思い出した。何度か舞台を拝見したことがある」

 そんなことは知っている。フェリアは苦々しく頷いた。そうでなければ、なにゆえフェリアが数多の軍人の一人である彼の名を覚えているというのか。

「偶然とは言え、名高いプリマと同乗できる機会を得たんだ。光栄に思うよ」

 どこまで本気かわからない口調で——ほとんど社交辞令だろう——彼は言い放って、馬車の扉を開いた。どうぞとエスコートされて、拒むわけにもいかずにフェリアは車へ乗り込む。紅一色に装飾された席の奥へと腰掛けて、まだ外にいる男を軽くねめつけた。

「名高いプリマの名を忘れていた男なんて、始めてよ」

 すると、何故だろう、男は声色高く笑った。

「プリマの矜持を傷つけたかな。申し訳ない」

 上辺だけの謝罪は、苛立ちを募らせるばかりである。それでも、ほぼ初対面の相手に対してこれ以上憎まれ口を叩きたくなかったので、ぐっと唇を結んで小窓の外を眺めた。他方のナイザーは少しも気にした様子を見せず、フェリアの隣に乗り込むと扉を閉める。「都まで」と御者に声をかけたところからして、馬車は彼の持ち物ではないのだろう。この上、彼の車で送ってもらって借りをさらに大きくしたくなかったため、フェリアは心底ほっとした。

 歯切れの良い鞭の音に続き、馬の足音と車輪の転がる重い音がする。馬車はゆっくりと前進を始めた。

 腰を落ち着けたナイザーは、赤いクッションに背をもたれて腕を組む。公爵の話によって悩みを抱えていた上に馬車を損ない、初対面の軍人に無礼を働かれてフェリアの機嫌は最悪だった。これ以上は何も話したくないという意を込めて見る物もない外を眺めていたが、この無骨者には全くと言っていいほど通じなかったようである。

「——ところで、矜持高いプリマが、なぜ俺ごときしがない軍人の名を知っていたのかな?」

 フェリアは、ベーラからうっかり情報を得てしまったことを本気で後悔した。

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