2、謎の男
プリマの登場は、奈落の底からと決まっていた。何度も劇場を訪れている常連は、そのシーンになると待ってましたとばかりに拍手喝采する。曲目が変わろうと、演目が変わろうと、奈落から上っていく時に舞台上から見える光景は変わらない。誰も彼もが期待に満ちた目で、フェリア一人を見つめてくる。誰も彼もが彼女に陶酔し、顔をだらしなく綻ばせた。——人々は、フェリアに幻想を抱いている。
曲が中盤にかけて盛り上がっていく。それに合わせてフェリアの乗った迫出しの台が持ち上げられた。人の力で動かされるため、ぎこちなく上下しながらゆっくりと舞台上を目指す。クライマックスに合わせて盛大なシンバルの音とともに、照明が全てこちらを向いた。いつもどおり、客席からどっと拍手が起こる。フェリアは人々の幻想を裏切ることのないよう、極上の微笑みを浮かべた。
曲調が変わり、チェロとピアノの音のみを伴奏に、大人しいメロディを歌に乗せる。それまで派手であった照明も薄い青一本に絞られ、フェリアはゆっくりと歌いながら舞台へ一歩踏み出した。
このシーンになると、照明が暗いため、客席の様子がよくわかる。客のほとんどが軍人であり、その全てが恍惚としているのが瞭然になるのだ。彼らは、フェリアを見つめているようで、実は何も見ていない。プリマという看板を背負った彼女のことを透かして、自分の理想を思い描いている。フェリアは彼らの理想を壊すことのないよう歌で場面を盛り上げる。それが彼女の仕事だ。
だがしかし、今日はその中に奇妙な視線を感じた。誰も彼もが宙を見つめてうっとりしているのに、その視線だけはまっすぐフェリアを捕えて離さない。他の誰でもない、フェリアのことを見ているのだ。突き刺すようなその鋭さに、威嚇されている気がしてフェリアは舞台の最前に出ることを躊躇した。客に怪しまれることのないように歌うことはやめず、さりげなく視線の元を探る。
——一階席の後ろから四列目の一番左。
軍服を纏った男であった。軍人であることは確かだが、暗闇に包まれている上に距離があるため肩章までは窺えない。地位はわからないが、やけに覇気のある男だった。雰囲気からのみ判断すれば経験を積んだ老兵のようだが、いかんせん見た目が若い。ゆえに、奇妙だと思う。
男の眼光の鋭さに負けじとフェリアは胸を張った。高らかに高音を歌い上げ、くるりと衣装を舞わせながら、ふと楽屋でのアンナの話を思い出した。
——フェリアっ! その人ね、一階席の後ろから四列目の一番左に座ってるから!
まさに、その男の座っている位置である。
ああ、あれがアンナの言う、とフェリアは納得した。確かに一際目立つ軍人ではある。そこに何かしらの魅力を見出せはしなかったが、アンナが目を付けた理由はなんとなく理解できた。
(あの子は目立つ物が好きだから)
フェリアは観客に向かって大きく手を広げた。ここが劇の最初の盛り上がりだ。プリマのソロが終わり、一気にオーケストラが参入してくる。華やかな音の重なりとともに、今まで消えていた照明にも一斉にスイッチが入る。フェリアが最後の一音を歌い上げると、盛大な拍手が起こった。フェリアは胸の前で手を重ね合わせて息を吸う。網膜を痛いほど刺激する光の所為で、もはや観客の顔を見ることは適わなかった。あの奇妙な男の姿も見えない。
上手に捌けながら、彼女はさりげなく男のいる方向を一瞥した。すると、姿は鮮明でなくとも確かにこちらを見ているとわかるほどの強い視線を返される。フェリアは眉根を寄せて、幕の裏へと逃げるように引っ込んだ。
——なんだろう、あの男は。
本能的に、身を震わせた。
明るい舞台の方からは豊やかな旋律が絶え間なく聞こえてくる。演目はまだ、始まったばかりだ。
一通り演目が終わると、女たちは楽屋へ一度帰る。化粧を落とし衣装の着替えを行い、その間にファンからの贈り物が届けられる。その内容によって女たちは呼び出しに応じるかどうかを決める。応じる場合はその男のもとを訪れ、拒む場合は「また次の機会に」と鑑賞券が一回限り割引される優待券を丁稚に託す。
フェリアは劇団の看板とだけあって、届けられる贈呈物の量が他の踊り子や歌手の二倍近くあった。アンナなどはそれを羨むが、正直言って面倒臭い。全員の相手を出来ればいいのだが、体は一つしかないためその中から一人を選ばなくてはならず、その作業がまた億劫だった。
「ベーラ」
フェリアは暑苦しいプリマの衣装を脱ぎ捨て普段着にしているドレスを纏う。隣にいる親友も、フェリアほどではないにしろトップダンサーの肩書きのためか大量の贈呈物を抱えていた。フェリアはたくさんの贈呈物の中から最も高価そうな物を選ぶため、仲間たちにはもう少し相手の男を考えろと諌められるが、ベーラの場合はさらに淡白である。彼女は最初に目に入った物を持ってその送り主に会いに行った。曰く、「直感は裏切らない」。フェリアのやり口には散々非難を述べる少女たちも、ベーラに対しては何も言わなかった。どうにもこのトップダンサーの所作は一つ一つ何かを超越しているように見えて、周囲にも口の出しようがないのだ。
フェリアは、今回も贈呈物の山を受け取り三秒ほどで答えを出したベーラの肩を叩いた。
「アンナの言っていた軍人、あんたも見た……?」
「ああ、ナイザー准尉でしょ」
ベーラは真っ先に目に付いたらしい熊のぬいぐるみを片手に取って、高く結わえ上げた髪を解く。艶のある黒が広がった。フェリアは澄ました親友の顔を見て、瞬く。
「……知ってるの?」
「有名だもの」
ベーラの受け答えはいちいち短絡的である。わかりやすいと言えばわかりやすいが、詳細が何も伺えない。フェリアは彼女の使っている化粧台の上に腰掛けて、先を促した。鏡の前を遮られてベーラは少し鬱陶しそうな表情をしたが、すぐに諦めたのか、櫛をとって髪を梳きはじめる。
「軍人の間では有名なんですって。オレーク・ナイザー。まだ准尉だけれど、あちらこちらで功績をあげてて、ラウグリアの新星だそうよ。彼が昇進すれば西国エウリアの滅亡も遠くないって」
「……そんなに凄いの?」
「知らない」
「でも、それだけ知ってるんなら、アンナに教えてあげればよかったのに」
「聞かれなかったもの」
フェリアは肩を竦めた。
あの男は、舞台上からでもわかるほど他とは明らかに違う空気を纏っていた。今まさに獲物を狩ろうとしている猛獣のようなあの覇気は、近い将来他国の軍隊を滅ぼし他国そのものを滅亡させるための物だったのか。フェリアは複雑に交錯する胸のうちをぐっと押さえ込む。
「……野蛮だわ」
「それが軍人の仕事でしょう」
「大体そんなに凄い人がどうしてこんな民衆の劇場に来てるのよ」
「彼だってただの民衆よ」
言い返すことが出来ずに、フェリアは口を噤んだ。楽屋の外から自分を呼ぶ丁稚の声が聞こえる。今日は誰の誘いを受けるのか、あるいは誰の誘いも受けないのか早く返事を寄越せとの催促だろう。「行かないの?」とベーラが横目に問いかけてくる。フェリアはふんと鼻を鳴らした。
「どんなに偉くったって、所詮軍人だものね」
「軍人だろうとなんだろうと私たちにとっては大切なお客様よ」
ベーラの言葉にはあえて反応せず、彼女は化粧台から降りた。自分への贈り物の束の中から最も値の張りそうな金の時計を選んで化粧を落とす女たちの間をかきわけた。
「おつかれさまです」という後輩たちからの挨拶にはにっこり笑って返す。先輩の幾人かがこちらを睨んでいたが、それに対してもにっこり笑っておいた。自分より後に劇団入りしたくせにあっという間にプリマの座をかっさらっていったフェリアのことを妬む女も少なくはないのである。また、彼女たちの反感を買う要因はフェリアの不遜な態度にもあるわけだが本人は気がつかないふりをしていた。
楽屋の外へ出ると新鮮な空気の臭いがする。劇団に入った当初は終幕後の楽屋などあまりの香水の濃さに息の出来たものではなかったが、今ではすっかり慣れてしまった。
フェリアは丁稚に金の時計を渡し、大きく伸びをした。丁稚の仕事は女たちの選んだ送り主を探し、それ以外の男を追い帰すことである。店の前で争い沙汰の起こらぬように、選ばれた男以外は女の姿を見ることも禁止されている。
フェリアは自分のブロンドをかきあげながら、こっそり窓の外を覗いた。何人かの男がわらわらと帰っていくのが見える。そしてその合間に、あの男を見つけた。思わずフェリアは目を細める。
(ナイザー、准尉……?)
夜闇の中、照らす物は頼りない街灯のみであるため一瞬見間違いかとも思ったが、確かにそれは先刻劇場にいた例の男であった。やはり奇妙な男で、傍らに幾人かの女を従え——その風体からして、貴族階級の女に見えた。貴族の女が外へ出ることはとても珍しい。——特にこの劇場の女を待っているわけでもなさそうである。何のためにまだ劇場の前に残っているのか、甚だ不可思議でならない。
その委細を探れないかとフェリアが窓辺に身を乗り出そうとすると、「プリマ」と声をかけられた。丁稚が戻ってきたらしい。この劇団の丁稚はなかなか有能で、名残惜しむ男どもを追い払うことにかけては天才だった。
仕方なく、フェリアは窓から離れる。表には決して見せられない汚れた通路は、裏玄関へ通じている。観客のためには開かないその門は、内側から団員達が出るためだけに使われていた。そして大抵、男たちはその前で待っている。
フェリアが門をくぐると、金の時計を手にした男が優越感たっぷりにこちらを見下ろしていた。何度か見たことのある顔である。おそらく裕福な家の出身なのだろう。彼はフェリアのために相当な額を費やしているはずだ。
「待たせたわね」
仕事のための笑顔を貼り付けて、彼女は男のことを見上げる。当然のように差し出された腕に自分の腕を絡ませて、二人は歩き出した。この男はプリマと一緒に過ごす時間を楽しむため、無理に会話をする必要もない。フェリアにとってはこれ以上ないほど楽な仕事だった。
劇場から離れる前にふと気になって男たちのたむろする門の前に視線を投げたが、すでにナイザーの姿はなかった。あの貴族風体の女たちと何処かへ行ったのだろう。本当におかしな軍人である。
あまり余所見をしていては仕事にならないので、フェリアはすぐに彼のことは頭の中から追いやる。それがどんな男であろうと、フェリアには関係がない。彼女は黙って自分の役をこなすだけである。