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1、歌姫フェリア

 北国ラウグリアが隣国と戦を始め、そろそろ十三年の月日が経とうとしていた。領土を巡る国同士の規模の大きな喧嘩には、なかなか終止符が打たれない。時には剣を交え、時には話し合うこともありながら、解決の糸口は全く見出されていなかった。それどころか、問題はこじれていくばかりである。

 それまで数百年に渡って穏やかだったというラウグリア帝国であるが、今では軍人ばかりのはびこる軍国になりつつあった。軍人は国で最も儲かる職種であるため、目指す者は後を絶たない。いつ死ぬともわからぬ職だと言うのにそれほどまでに人気があるのは、未だラウグリアの国内に戦火が飛ぶことがなかったためかもしれない。戦の凄惨さを目にすることのできない国内において、軍人というのは軍に属しているというだけで様々な優遇をされる羨ましい存在であった。

 戦は国境付近か、あるいは遠い異国の地に広がっている。そのため最も国境から遠い首都エルヴァにおいてはほとんど現実感のない話であった。町は酒場や劇場が栄え、活気に溢れている。訪れるのはやはり軍人ばかりで、贔屓にしてくれればいくらでも金をはたいてくれる、最高の客であった。そのため、どの店も、劇団も、顧客を捕まえようと躍起になった。


 フェリアはその激戦区の中央にある小劇場の一つで、歌手をしていた。夕方にさしかかると、町の人通りが多くなる。そして完璧に日が落ちる頃には劇の幕が上がる。 フェリアはちらと楽屋の窓から外を見やって、空が赤く染まり始めるのを確認した。フェリア以外の歌手や踊り子たちもぼちぼち楽屋入りしつつある。そろそろ支度を始めなくてはならないが、もう十年以上続けている代わり映えのない動作が億劫だった。

 横にいくつか並べられた化粧台の一つを選び鏡の前に腰掛けると、フェリアは頬杖をつく。立ち上がれば上半身が全て映し出せるほどの鏡の中に自分の姿を見つけ、ぼんやりと眺めた。

 父親譲りの柔らかなブロンドの髪と、透き通った青い瞳。目や鼻の形、笑うと持ち上がる口の端などは母親に瓜二つだと言う。フェリアは母親の姿をおぼろげにしか覚えていない。だが、舞台を通して時折出会う母を知っているという人に話を聞けば、「なるほど、だから君もそんなに美しいのか」と誰もが恍惚と宙を見つめた。そこから、母親が民衆にどのように見られていたのか大体の予想はつく。しかし、例え万人の憧れの存在であったとしても、フェリアは母親が大嫌いだった。


「フェリア」

 唐突に名を呼ばれてはっとフェリアは意識を取り戻す。鏡の中の自分から声のした左方へと視線を移すと、左隣の化粧台の前に一人の女が凛と腰掛けていた。フェリアより三つ年上である彼女は、ベーラと言う。フェリアが歌うことを専門にしているのに対して、ベーラは踊りを専門にしていた。いわゆる踊り子というやつで、ベーラはその中でもトップの座にいる。

「自分見てて、楽しい?」

 淡々と言って、ベーラは櫛で自らの長い黒髪を梳かしはじめた。ベーラはフェリアよりも年上であるが、二人の間に上下関係はない。それはベーラが頓着しないためかもしれないし、フェリアが不行儀であったためかもしれないが、何よりの理由は互いにとても気が合うためだ。フェリアはこの劇場内で唯一本音をぶつけることの出来る相手をにらみつけた。

「楽しかないわよ。準備が面倒なだけ」

「あ、そうなの。てっきり自分に見惚れてるんだと思った」

 傍からは厭味にも聞こえなくはないが、ベーラに悪気はこれっぽっちもない。思ったことをそのまま口にしてしまう彼女は、他人と感覚が違うと言おうか。とにかく、この一風変わったトップダンサーと対等にやっていけるのは自分しかいないのではないかと、フェリアは密かに自負している。

「自分に見惚れるって……そんな今更なことはしないわよ。もう二十年この顔と付き合ってんのよ」

「準備が面倒なのも今更だと思うけど。もう十年以上毎日やってることじゃない」

 ベーラは言いながら慣れた手つきで前髪を止め、顔に下地を塗った。なんとなくむっとしながらも、舞台に穴を開けるわけにはいかないのでフェリアも渋々化粧を始める。すでに衣装は着ていた。今日は久々に演目前に何の予定もなかったので、一人楽屋でのんびりと過ごしていたのだ。

「今更、かもしれないけどさ……毎日同じこと繰り返してて嫌になったりしない?」

「プリマドンナってもてはやされるのが嫌になったの?」

「もてはやされるのは嫌じゃないわ」

「でしょうね。あんた、歌うのは好きだっていつも言ってるもんね」

「そりゃ、歌うのは好きだけど……」

 歌ならば何処でも歌える、と言いかけてフェリアは口を噤んだ。それはフェリアにとって、禁句であった。決して言ってはならないと自分で自分に何度も誓約させた一言である。

 言葉を一つ飲み込んだフェリアは、白粉を軽く顔に乗せて瞼の上にも色を重ねた。鏡越しに背後を見やれば、楽屋の中がうるさくなりはじめている。本番前に見られるいつも通りの風景だった。そろそろ客席も賑わい始める頃だろう。

 早く準備を終えて化粧台の前を譲ってやらなくてはならないな、とフェリアは手に力をこめる。後ろを通ったダンサーの一人に紅を取ってもらい、筆を浸して唇に赤を塗り始めると、突如軽快な足音とともに楽屋の扉が勢い良く開いた。

「フェリアっ!」

 続いて聞こえてきたのは甲高い少女の声。少女が扉から手を離すと、古びた木の扉は苦しそうな呻きをあげながら元の位置へと戻っていった。いつかこの少女の力によって、扉がへし折られてしまうのではないか、とフェリアは半ば本気で心配になった。

「アンナ……もっと静かに入ってきなさいよ」

「だって、だって! それどころじゃないの! また今日もいらしたのよ、あの軍人さん!」

「誰よ。客なんてみんな軍人じゃない」

「違うっ! ほら、前言ったでしょ! 一際きらきらした素敵な軍人さんがいらっしゃったって! 覚えてないのっ?」

 アンナという小柄な少女は、この劇団のソプラノ歌手の一人であった。フェリアが体調を崩すなどしてやむなく舞台に穴を開けると、アンナが代役になることが多い。期待の新星とも呼ばれ、何よりプリマドンナであるフェリアに懐いていた。フェリアも、少女のことを実の妹のように可愛がっている。とは言え、親も違えば生まれも違い、所詮は他人だ。どんなに可愛がったところでフェリアにはこの少女の感覚を理解することができなかった。アンナは何かと客人として現れる軍人に目を付けてははしゃぐが、フェリアの目にはどれも同じ、金を置いていく男としか映らない。

「あんたがいっつもそうやって次から次に新しい男見つけてくるから、私だんだんどれが誰だかわかんなくなっちゃった」

「フェリア、そんな年寄り臭いこと言わないでよ。今回のは今までのとは全然別なんだから!」

 年寄り臭い、という表現を受けて左隣の親友が忍び笑いを漏らしている。ぎろと睨みつけてやると、彼女は「私準備終わった」と知らん振りをして席を立った。空いた席にはアンナが遠慮なく腰掛ける。フェリアの隣を陣取った少女の勢いは増していくばかりだ。

「他の兵士たちと比べてもね、なんていうのかな……輝いてるの!」

「どれもむさくるしいだけじゃない」

「違うんだって! 一人だけスマートでね、たぶん年齢も若いんじゃないかしら」

「若いの? じゃあ最近軍隊入りしたばかりね。そのうち訓練に音を上げて、こんな劇場に来る暇もなくなるでしょうよ」

「ううん、なんか新入りって感じでもなくて……若いのに、落ち着いてて、素敵なの!」

「……つまり貴女の好みなのね」

 舞い上がってしまっているアンナには、何を言ったところで聞き入れてもらえない。

 フェリアはさっさと化粧を終わらせて、楽屋を出ることにした。人口密度が濃くなり、そろそろ息苦しい。鏡の前で入念に自分の顔を見直すと、椅子を引いて立ち上がった。

「男ばっか見てないで、きちんと仕事もなさいよ」

「それ、フェリアには言われたくない」

「私は仕事のために男と会うの。一緒にしないで」

「やーね、なんか乾ききってるかんじ」

 先輩歌手の苦言を物ともしないアンナに、フェリアの方が苦りきってしまう。それでも嫌味に聞こえないのは少女の持つ愛嬌の成す技だろう。これ以上小言を言うのは諦めて、フェリアはダンサーの一人に場所を譲った。準備が間に合わないと、数人の出演者たちはてんてこ舞いになり始めている。彼女たちの邪魔にならぬよう重い衣装を引きずりながらも壁際に避けて、フェリアは古い木戸を引いた。きぃ、と軋むその音に反応し、アンナがこちらを振り返る。

「フェリアっ! その人ね、一階席の後ろから四列目の一番左に座ってるから! よーく見てみてねっ」

 駄目押しするように言い放ち、彼女は化粧台に向き直った。鏡越しにも、少女の浮かれた様子が見て取れる。周囲に花を散らすような上機嫌っぷりに、フェリアは戸惑った。彼女の容姿が愛らしいのは不変の事実であるが、浮かれていると一層華々しい。


 アンナはフェリアのことを年寄り臭いと言ったが、あながち間違ってはいなかった。フェリアは若い娘のように艶やかな心を持っていない。娘たちを輝かせるような歓びに対して従順になれないのだ。——そのような純真さは、とうの昔にどこかへ忘れてしまった。


 父の後姿を見送った懐かしい日から、フェリアは人の心を信じることができない。


 ——フェリア、待っていてくれ。きっと帰ってくるから。


 そう最後に言い残し、父が都を去ってから、もう幾年過ぎただろう。当時十に満たぬ童女であったフェリアも、今年で二十を越えた。十数年のうちに劇団のプリマドンナになったフェリアの名声は、今では都を離れて遠い田舎の町にも聞こえるほどだという。もしも父が今もどこかで生きているなら、噂を聞きつけて戻ってきてくれるかもしれない。そんな淡い期待さえ、数年前には捨てていた。今では単純に歌を歌うことだけが、フェリアを支えている。


 今宵は星も見えない曇天の夜であった。都を照らすのは、華やかな店から漏れる色鮮やかな灯りと、都の中央にそびえたつ巨大な王宮の松明のみである。


 都の人々は闇を恐れない。本当の闇をまだ見たことがないためだ。暗闇の中で揺れる艶かしい光に心を躍らせ、劇場へと人がとめどなく流れてくる。それは、昼間の仕事を終えた軍人たちの数少ない楽しみだった。とは言え都の兵士の仕事は、王宮の門番であったり都の治安維持であったり、範囲が限られている。外へ派遣される兵士たちは、自らにも明日の仕事の内容がわからなかった。彼らには、一つの楽しみもないかもしれない。


 どちらにせよ、とフェリアは幕の端から客席を窺った。軍人で溢れているその光景も、大分見慣れたものだ。どちらにせよ、軍人などろくなものではない。国外の兵士は人の命を奪い、都の兵士は夜な夜な女を奪う。どちらも、何一つ与えてはくれない。



「フェリア」

 男の声がして、ふと肩を叩かれた。ちらと目線だけを動かせば、灰色の髭を生やした男がフェリアと一緒に幕間から客席を見下ろしている。

「今日も大入りだな。うちのプリマの人気は衰えない」

「……衰えて欲しいみたいな言い方ね」

「まさか。閑古鳥の鳴く劇場を維持できずに悔し涙する他の団長どもの仲間入りはしたくない」

 男は燕尾服の襟元を調えて、素っ頓狂な顔をした。グロピウスというこの男は、劇団の長を務めている。作曲家であったフェリアの父とは往年からの付き合いで、父の作った曲をいつでも真っ先に採用してくれたのはグロピウスの劇団であった。人付き合いの不得手な父にとって、グロピウスは貴重な相談相手だ。ゆえに、入隊する時にもこの劇場以外にはフェリアを預けることができなかった。

「フェリア、明後日の夜、スールイ公からお招きがあった」

「明後日? 急な話ね」

「仕方あるまい。ご公務の合間を縫ってお前に会いたがっているんだ」

「まあ、私はいいけど……舞台にまた穴開けちゃうわ」

「アンナがいる。なんとかなるだろう」

 フェリアは首をすくめた。本来、何よりも舞台を優先させるグロピウスが譲歩するのは、スールイ公からの招待くらいのものであった。

 グロピウスの劇団には女しかいない。舞台の監督や合奏団、小間使いたちの中には男もいるが、舞台に上るのは女だけであった。そのためフェリアを含めた女歌手や女ダンサーは、たびたび客から呼ばれることがある。舞台の上での晴れ姿を見て、間近で会いたくなるのだそうだ。グロピウスはそれを厭わないが、面会の代わりに金をとる。また、それは強制されるものではなく、女たちには断る権利があった。そのため、舞台に通い詰める男たちはまず、目当ての女に気に入られるためにと楽屋へ贈り物を寄越す。女はその送り主を舞台上から確認し、気に入れば面会を許すという仕組みになっていた。

 だが、スールイ公はそう言った客人とは待遇が違う。彼はこの劇団の後援者である。例えグロピウスがどれだけ商売上手であろうが、この小劇場では観客の払う金だけで他との激戦に勝利することはできなかった。そこで、スールイ公の後援がとても重要になってくる。月に一度莫大な後援金を寄越す公には、突然劇場を貸し切ることも、唐突に稼ぎ頭であるプリマを呼び出すことも可能であった。

 スールイ公からのお招きとあれば、他の男たちと違って拒否することは出来ない。そうしていつも呼び出されるフェリアのことをアンナなどは「あんな親父に呼び出されて可哀想に」と哀れむが、フェリア自身は一度も厭わしく思ったことなどなかった。フェリアには、スールイ公も若いダンサーたちの喜ぶ凛々しい軍人も、等しく見えた。むしろそれならば、金銭に余裕があり、決してフェリアに不自由させないスールイ公の方に利があると思えた。


 開幕の合図の鐘が鳴る。けたたましいその音に、フェリアは我に返った。気付けば、出演者たちは各々の立ち位置にて待機している。「フェリア」と他の出演者たちが小声でこちらに呼びかけていた。物思いに耽っていたために全く耳に入ってこなかったが、どうやらずっと催促をしていたらしい。慌てて促されるまま、フェリアは奈落へともぐった。それと同時に、前奏が始まる。危機一髪、間に合ったようだった。

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