11、歌姫の力
自室へ戻るなりコートを掴んだフェリアは、父からの手紙は机上に放置して、朝の静けさに包まれた町並みの中を走り抜けた。前方に聳え立つ城の後ろからゆっくりと朝日が昇ってくる。その幻想的な光景に目を奪われる暇すらなく、彼女は走った。朝露に濡れた石の道は舗装されているとは言え走りにくい。幾度も転倒しそうになりながらも、疲れきった足を励まして、フェリアは歓楽街の入り口を目指した。
視界に映る城がだんだんと大きさを増していく。その後ろに輝く金色の光も、空へ空へと昇っていく。朝の空気は冷たく、頬を刺すようだ。そしてようやく目的の酒場が見えてくると、その戸の周辺に軍服を着た男が幾人もたむろしているのがわかった。丁度、宴の終わったところなのだろう。
艶やかな色をなす歓楽街も、此処までくると落ち着いてくる。此処から続く道は王宮へと繋がっているためだ。今はほとんど力を持たないとは言っても、王家の荘厳さはこの道にしっかり残されていた。丁度この辺りはその境目である。
フェリアは、すでに消火されたガス灯の足に片手を付くと、息を切らした。無我夢中で走り続けたため、軽く眩暈がする。目を開くことも億劫であったが、なんとしてでも一様な軍服の中から彼を見つけ出そうと顔を上げた。
「准、尉……」
激しい息切れの合間に吐き出される言葉は繋がらない。息をするたびに肺に進入してくる空気はあまりにも冷たくて、喉と胸を焼いた。だが、それに勝る痛みが彼女のことを急かし続けている。このまま会うこともできないうちに別れてしまったら、それこそ自分は彼のことを殺したいほどに憎むだろう。そうすることによって自分のことも散々傷つけるのだ。それだけは、避けたい。故に、叫ぶ。
「——オレーク・ナイザーっ!」
あらん限りの力を振り絞って大呼されたフルネームに、そこにいた軍人たちが一斉に振り返った。そうして彼らは、ようやくそこに佇む女の姿に気付いたらしい。瞠目している彼らの顔を見て、そういえば自分は寝巻きの上にコートを羽織っただけだったなと思い出した。髪の毛も絡まりあい、化粧だってまともにはしていない。こんな状況のプリマドンナを、彼らは想像したことだってなかったのだろう。
「プリマ……?」
だが、あられもない姿を彼に見られるのはこれが初めてではなかった。ある意味では、彼には常にプリマドンナらしからぬ姿を見られていたように思う。だが、それこそがフェリアの本来の形貌なのだ。
「准尉……」
静まり返った軍人の輪の中から現れたその男は、いつも通り気取っていた。一晩中、杯を交わしていたのだろうに少しの乱れもない癖の茶髪に、揺らぐことない灰色がかった切れ長の瞳。ぴしっと着こなした軍服は、今にでも戦地に向かえそうなほど整っていた。しかし、その表情は平静ではいない。突然現れたフェリアの姿に、少なからず仰天していた。
「ちょっと、話したいことがあるの。いいかしら?」
自分でも驚くくらい据わった声が出て、フェリアはほっと胸を撫で下ろした。彼の前でこれ以上動揺を見せたくはなかった。
「ああ……なら、少し移動するか」
ナイザーは興味深そうにこちらに視線を投げる軍人たちを睥睨し、フェリアの腕を取った。フェリアもこの時ばかりは反抗せずに大人しく従う。人目に晒されながらできるような話ではないと思われたし、もうこれきり二度と会えないかもしれない人の存在を、腕に確かに感じていたためだ。
彼女はいつかの大雨の日のように、力強くナイザーに腕を引かれていた。彼は力の加減というものを知らないため、腕の血が止まるのではないかとすら思える。だが、それでいい。痛いくらいで丁度いい。寝不足で明瞭としない意識の中でも、彼の存在を刻むことができるから。
歓楽街から出たナイザーは、フェリアの腕を引いたまま王宮を右手に見て曲がった。石畳を踏みしめて軽い傾斜の道を登ると、朝日が目に染み込んで来る。そこは開けた丘になっていて、ラウグリアの国の城が一望できた。
創立三百年を迎えるという国城は、老年ならではの威厳を称えている。三百年もの間何があっても此処から動かず、都を見守り続けた国の主は、見る者を圧巻させた。
「すごい……」
思わず、太陽に照らされて輝くその様を見て感嘆が漏れたのは、心に少し余裕が出来たためかもしれない。鬱陶しそうな顔をされるかと思って隣にいる男を見上げたが、意外にも彼は満悦していた。
「あそこは、俺の故郷だ……西に行く前に一度はここから拝んでおこうと思っていてな」
「故郷……」
ああ、そういえばこの人は王宮の中で育ったのだな、と言われてから思い出した。
ずっと下町で育ってきたフェリアには、王宮が現実とはかけ離れた世界に見えた。故にその全貌をこうして眺めて感動したわけだが、その中で当然のように生活していた人物と肩を並べて話していると思うと不思議な感覚である。
本当なら出会うはずのなかった人とこうして出会い、彼のためにプリマである立場も矜持も捨てて町を駆け抜けることになるなんて、思いも寄らなかった。全てを憎んでいた気持ちはどこへやら、今は達観し、清清しさすら覚えていた。王宮を照らす金色の光のためかもしれない。
「……スールイ公が、暗殺されたわ」
会って何を話せばいいのかと危惧していたフェリアであったが、言葉に窮することはなかった。まず口をついて出てきたのは決して穏やかではない話題であったが、それでも不穏な空気は流れない。この絶景を前にして、険悪な雰囲気を作ろうというのが無理なのだろう。
「ああ……暗殺されたな」
「貴方がやったのでしょう」
「俺がこの国に届ける最後の仕事だ」
ナイザーはごまかすことさえしなかった。その顔には笑みが浮かんでいる。不思議とその笑みに飲み込まれそうになりながらも、フェリアは続けた。
「うちの後援者だったのよ」
「何、グロピウス座ならすぐに新しい買い手がつくさ」
「人一人殺して、あっさりしてるのね」
「軍人だからな」
「だから嫌いよ、軍人なんて」
「俺も嫌いだ。だからこれを国のための最後の仕事にしようと思ってな」
ナイザーも定常通り、のんびりとした口調で答えた。内容は長閑に話すものでも何でもないのだが、一日の始まりを告げる光は、何もかもを浄化してしまう作用を持つのだろうか。
「……もう仕事はしないっていうこと?」
「この国のための、最後の仕事と言ったんだ。これからは、自分のための仕事をこなす」
「つまり、どういうこと……?」
「国の利害を考えるのは、今回の件で終わりということさ」
ナイザーは草むらの上に腰を下ろして、片足をまっすぐ伸ばした。彼の穏やかな眼差しに胸の奥が締まるような痛みを訴える。それをごまかそうとしてフェリアは胸の前できゅっと拳を握った。
「……スールイ公は、この国にとって邪魔な存在だったのね」
「邪魔というより、国の仇そのものだった。西と密通していたからな。そして、西エウリアとの戦争が激しくなる前に、エウリアへ逃げようとしていた。『力』を持つ歌姫を手土産にな」
——私と一緒に西国へ行く気はないか。
そう告げた公爵からは、強い意志を感じた。なにゆえ一介の歌手でしかないフェリアを強情に連れて行こうとしたのかその時は疑問に思いつつも深く考えたりはしなかったが、彼にとっては必要不可欠な要素がそこにあったのだろう。西国はここラウグリアよりも『力』という物を重要視するらしいから、フェリアの存在は貴重だったに相違ない。
「あいつが密通していることは確かだったが、確たる証拠がなかった」
「それで、私に掛け合ったのね」
「そういうことになる。正直、あの雨の日にまさか俺をつけてくるとは予想外だったし、面倒なことになったと思ったが、結果的に助かったよ」
「……別に助けたわけじゃないわ」
そりゃそうだ、と彼が軽快に笑う声を聞きながら、フェリアはそっぽを向いた。結局、彼には踊らされてばかりだ。それなのに四日前のように憎悪の生まれてこない胸のうちは、どうしてしまったのだろう。
「……准尉は、嘘ばかりね」
「うん……?」
「嘘は良くない、とか私には言うくせに、自分は本当のことを話さないなんてずるいわ」
「俺は嘘なんてついたか?」
「正直、とか、本当のことを話そう、とか前置きするくせに、私はその後で本当ことを知るのよ、いつでも」
「でも、嘘はついていない」
「そういうの、屁理屈っていうの。知らない?」
流し目に睨むと、ナイザーは低く笑った。そして観念したというふうに両掌をこちらに見せる。
「——わかった。最後だし、君の質問になんでも答えよう。嘘はつかない。それでいいか?」
諭されている子供のような気分になって、フェリアは一瞬眉をひそめたが、不平を言うのは諦めた。どの道自分は愚図っている子供のようなものだ。わざわざこんなところまで押しかけてきて、文句を言う権利などないはずなのだ。彼の態度の全てが気に入らないと思っていたが、そもそも彼は自分とは違う世界の住人だったと思えば、詮方ない。あの輝かしいばかりの宮で育った彼と自分とでは元より価値観から何から違うのだ。それを認めてしまえば、それほど腹は立たないのだということをようやく理解できた。
それよりも「最後だし」という全ての終わりを連想させる言葉の方が気になったが、フェリアはこれにも目を瞑る。彼女はただ黙って頷いた。そして、恐る恐る口を開く。
「じゃあ、聞くけど……貴方、アンナに何をしたの? アンナだけじゃないわ。私が貴方を追いかけたあの日、たくさんの女に会っていたでしょう? あの時の全員が、准尉のことを忘れてるんだわ……」
アンナ以外の女には会ったこともなかったが、きっとアンナと同じ状態に違いないと確信していた。アンナがおかしくなったのはあの日以降だ。あの時彼が何かをしたのなら、他の女たちも同じ運命を辿ったと考えるのが妥当である。案の定、ナイザーは否定はしなかった。
「単に忘れてしまっただけだ、という可能性は?」
「あんたの名前すら覚えてないのよ。准尉が何かしたんじゃなかったら病気じゃない」
「俺が何かをしたと?」
「だってあの日、貴方は私に言ったわ。『お前は俺のことを忘れられない』って。それってつまり、私が『力』を持っていることにも関係してるってことじゃないの?」
早口でまくしたてると、なんだそこまで感づいているのかとナイザーは首をすくめた。
「あの日、俺の後をつけていたなら、俺が何をしたか覚えているんじゃないか?」
「たくさんの女に、会ってたわ」
「会って、何をしていた」
「抱き合って……花を渡してた」
「それだ」
抱き合っていたことは別段関係がないらしい。ナイザーは僅かに苦笑した。
「あの花には、花の贈り主の記憶を飛ばす作用がある。いや、花そのものにあるというわけではないな。あの花には、そういう作用を込めてある」
「どうやって……?」
「お前と同じように、『力』を持った人間がいるということさ。この国では『力』のことは禁句であり最高機密だが、法律や政府の目の行き届かない地域では、極秘裏にやりとりされていたりするんだよ。大雨の日に、お前を連れて行った廃屋があったろう」
「ええ」
「あそこの親父は、そういった地下組織の情報屋をやってる」
フェリアは汚らしい廃屋の奥から姿を見せた老爺の姿を思い起こした。一見ただの乞食にしか見えなかったが、言われてみれば只者ではない雰囲気をかもし出していたような気もする。おそらく乞食風体を装っているのは、国家から身を護るためなのだろう。
「つまり、あの老人に聞いて、その『力』のこもった花束を作ってくれる人のところへ行ったということね。……でも、どうして、アンナたちの記憶をなくす必要があったの」
「彼女たちにはひどいことをしたと思っている。情報を得るために、騙していたも同然だからな。それに俺は、もう二度と、此処へは戻って来ない」
フェリアは思わず息を呑んだ。先刻から、幾度も彼は似たようなことをほのめかしている。そこから連想されるのは、ただ一つ。
「……貴方、死ぬ気なの?」
死と言う名の、終焉だ。
やけに彼の表情が穏やかなことも、口調の柔らかいことも、全てが終焉の前兆に思えた。フェリアの体に戦慄が走る。人の死を経験したことのないわけではなく、つい先日も世話になっていたスールイ公を亡くしたばかりだが、それでもこんなに胸の内がざわめいたりはしなかった。
「死……?」
だが、ナイザーは依然としてあっけらかんとしている。
「そうだな、オレーク・ナイザー准尉という男であれば、死ぬだろうな」
「どうして……」
「さっきも言ったじゃないか。俺はもう、この国のためには生きないと。そのために俺は、西行きを引き受けたんだ」
理解できずにフェリアが首を傾げると、ナイザーは自分の隣の草むらを指した。隣に座れという指示らしい。大人しくフェリアがそれに従うと、彼はあぐらをかいて荘厳に光輝く自分の故郷を見つめた。
「俺は、ひどく狭い世界で生きてきた。あの世界にいた頃は、ラウグリアがこの世で一番強いのだと信じ、皇太子殿下の力により叶わないことなどないんだと思っていた。——だが、一歩外に出てみれば、ラウグリアはひどくちっぽけだ。最強だと思っていた皇太子殿下がいかに脆いのかも知った。この国はいずれ滅ぶ。俺はそれを見たくないんだ」
「だから、西へ逃げるの……?」
「違うな。外から救いたいんだ、この国を」
「おかしいわ。さっきと言ってることが違うじゃない。もうこの国のためには生きないって言っていたわ」
「確かに、それだと少し矛盾しているな。なら、なんと言おうか……。もうこの国家のためには生きない。俺は、准尉という称号を捨てるし、皇太子殿下の隣に寄り添った日々に縛られるのもやめる」
「縛られる……?」
「ああ、縛られていたんだ……すぐにでも国家を破壊してしまいたい衝動を抑えられたのは、その中央に殿下がおられるからだ。俺は、あの方の傍でずっと、あの方を支えると誓ったのに、逃げ出してしまった……それを悔いるだけの毎日だった……だが」
ナイザーはちらとフェリアの方を見やった。純真な瞳が向けられて胸が高鳴るが、すぐに落ち着いた。彼の瞳の中にはフェリアが映っていない。彼は、フェリアを通して、別の人を見ている。
「……ラウグリアの東の方の田舎で、とある女性に出会った」
「誰……?」
「かつては首都にもいたという、絶世の美女だ。昔は誰からも愛される踊り子だったとか」
聞き覚えのある台詞であった。フェリアは幾度となくそう形容される女性のことを聞いている。それはもう、うんざりするくらいに。
自分のことを見ながらこういった話をする連中が、自分を見ていないことをフェリアはよく承知していた。彼らの見ている女が誰であるかも、紛うことなくわかっている。
「彼女は、田舎の町でも細々と踊り子をしていたよ。その町の住民皆に愛されていた」
「まさか……あの女には、愛される価値なんてないわ」
「いや、まるで女神のような女性だったよ。出会ったのは、東との国境の見張りで始めてその辺りを訪れた時だった。彼女は俺を見るなり、俺が思い悩んでいることを言い当てた。そして俺に一言『全てを忘れたい?』と」
遠くを見つめるような眼差しで、彼はその女のことを見ているのだろう。フェリアの胸の内がぐっと締め付けられる。自分を通して母親の影を見られるのはこれが初めてではないのに、こんなに歯がゆく思ったことはなかった。
「その時に、教わったんだ。あの白い花のことを」
「……白い花?」
「首都に、贈り主のことを忘れさせる花を作る職人がいる、と聞いた」
「それって」
「そう——俺が女たちに贈った花束のことだ。贈るとは言っても、相手から花束を手渡されればそれで全ては忘れられるという仕組みになっている。計画すれば、殿下から俺がその花束を受け取ることは出来た。……だが、結局俺はそれをしなかった」
「どうして……」
「忘れたくなかったんだ。まだ、俺の殿下への償いは終わっていなかったから。せめてあと三年は殿下のため、国家のために身を粉にして働こうと、決意した。それこそが殿下のためになるのだと、あの頃は勘違いしていたんだ。それが三年前のことだ」
そのために誰を利用しようと傷つけようと恨まれようと、どうでもよかった、と彼は付け加えて目を瞑る。
「——だが、全員の記憶を失わせたのは、せめてもの罪償いのつもりだな」
「だったら、私の記憶も飛ばしてくれればよかったのに……」
あんなに誰かを憎んだことも、底知れぬ悲しみに埋まったことも、歯がゆい気持ちで自分が自分でなくなっていくのをただ傍観するしかできなかったことも、忘れてしまえれば楽だった。恨みがましい目を向けると、珍しくナイザーは困惑した笑みを浮かべていた。彼にもこんな表情が出来るのだなと知ってフェリアは拍子抜けする。戸惑いの表情なんて、彼には最も似合わない。
「記憶を飛ばす花の効果は、大して強くない。ある程度の『力』の持ち主には利かないと、そう教えてくれたのも田舎で出会った女神だよ」
「……私の前であの女を女神だなんて言わないで。あの女は夫を捨てて娘を捨てて、私利私欲に走って逃げたのよ。豪族に囲われて、それで鼻を高くして……」
「プリマ」
「純粋な作曲家だったお父様を、誑かしたのよ。きっと嘲笑ってたに違いないわ。お父様の純粋な心を……!」
息巻くフェリアに、今度はナイザーが拍子抜けする番だった。彼はフェリアを落ち着けるように彼女の肩を撫でると、その目を覗き込んでくる。
「そう思われても仕方ない、と彼女は言っていたよ」
「いいわよ、別に。どうせ貴方は女神様の肩を持ちたいんでしょう」
「そう言われるとなんとも返し難いが、少なくとも彼女は夫を愛していたと言っておこう」
「あんたに何がわかるのよ。お父様は別れの言葉すら告げられず、ただ一つの花束だけを託されて……」
途中まで言いかけて、フェリアははっとした。一つの考えが頭を過ぎったのだ。 そんな、まさか、と自分自身では否定するが、それで何もかも辻褄の合うような気がした。いくら誑かしただけだったとは言え、花束を贈って姿を眩ますというのはいささか不自然だとは思っていたのだ。手向けのつもりなら、もっと豪勢な花を贈ってもよかっただろうし、それすらしなくてもいいと思うほど興味がなかったのなら、花束を贈ったこと事態が不自然だ。
目を上げれば、それを肯定するようにナイザーが頷いていた。フェリアの想像したことを読み取ったらしい。
「そうでなければ、どうして彼女が記憶を消す花束の存在を知っていたんだ。——彼女は一度その花束を作ってもらったことがあったんだよ。自分の夫に、自分のことを忘れてもらおうと」
「……でも、それは自分が豪族に囲われる時に面倒を起こされたくなかったからじゃ……」
「まさか。もし贅沢な暮らしがしたくて豪族に囲われたのなら、いつまでもその男の下にいただろう。だが、俺が会った時、彼女は豪族のもとから抜け出して、目立たぬ田舎の村で貧しくも幸せそうに過ごしていた」
「じゃあ、どうして……」
「その豪族の名だが、俺も王宮内にいる時に幾度か聞いたことがあったよ。都で気に入った女を見つけては次々に囲い、そのためならどんな汚い手でも使う輩だ。まあ、国家に対してあくどいことをしているわけではなかったから、罰されることはなかったがな」
「じゃあ、無理やりだった……?」
「言うことを聞かないとどうされるかわからない状況だったには違いない。どうしようもなくなって自害した女もいたというくらいだからな……だが、彼女はそうしなかった。かわりに、夫の中に住む自分を殺そうとしたんだ」
「でも、お父様はあの女のことを決して忘れてなんか、なかったわ……!」
「つまり、君の父上にも『力』があったんだろう。君と同じように」
「嘘……! そんな話聞いたことがない……」
「本人も気付いていない場合は多いぞ。少し人より得意なことがあったところで、それが特殊能力によるものだなんて思わないだろう。——君がそうだったように」
そんな、と口の中で呟いて、フェリアは宿舎の机の上に放置してきた父からの手紙を思った。まだ目を通していないそこには、何が書かれているのだろう。それを考えると、背筋が寒くなった。父はあれほど愛した女の心を知っていたのだろうか。それとも結局悲しみに明け暮れたままだったのだろうか。
「だから、そんなに母を恨むものじゃない」
そう呟いたナイザーは、フェリアの髪を撫でた。間近に見える整った顔立ちに、またもや涙腺が緩みそうになる。彼の目には今、母の姿が映っているのだろうか。これまでにだって幾度も「本当に母に似ている」という台詞は耳にした。そしてそのたびに、嫌悪したものだった。自分は憎らしいあの女に似ている自らの容姿を嫌悪していたのだとばかり思っていたが、それはほんの建前でしかなかったのだとフェリアはこの期に及んで思い知る。
「違うわ……」
本当のところは、そうではなかった。
フェリアは父を愛していた。その父の愛する母のことも、例え一度も見たことがなくとも、捨てられたのではないかと疑ったとしても、確かに愛していたのだ。恐らく心に根付いた嫌悪は、母を厭うものでもなければ自分の顔を憎むものでもない。
「本当は、憎んでいたんじゃなかったの……本当は、とても羨ましかったのよ……」
人々は、フェリアの顔を見るたびに、母の面影を思い出して恍惚とした。誰も、フェリアのことなど見てはくれなかった。舞台を見に来た観客たちが、フェリアではなくグロピウス座のプリマを見に来たように。誰も、一人の人間としてのフェリアを見てはくれない。
そんな時に出会ったナイザーは、一人特殊であった。舞台上で歌っているフェリアを、プリマドンナとしてのフェリアではなく、フェリアその人を貫くような眼差しを向けてくれた。だから、あんなにも奇妙に思ったのだ。そしてその感覚が歓喜だったと気付くのと同時に、彼はフェリアの母の面影を見ていたのだと知らされる。女神のようだったという、フェリアの母を、この男は見ていたのだ。
「私は、決してあの人を越えられない……。私の歌を聴きに来る人々だって、私が『力』を持っているから、聞きほれるわけでしょう? 実力で、人々をひきつける女神様に、私は絶対に敵わない」
わなわなと震える唇を押さえ、熱くなった目頭を覆い、フェリアは俯いた。この感情の名前を、フェリアは知っている。今までずっとフェリアが醜いと思って蔑んできたものだ。例えばグロピウス座の先輩歌手たちは皆、フェリアにこの感情を向ける。——「嫉妬」というのだそうだ。誰かを羨み、妬んでいる。
「貴方も、私を見るたびにあの人のことを思い出すのでしょう?」
醜い感情は覆い隠そうとしても、溢れていくばかりだ。なんという屈辱だろう。この屈辱を自覚したくなくて、フェリアは自分が母親のことを憎むよう仕向けた。それは無意識のうちに働く自己防衛だったのである。
「君には『力』がある。それは、実力があるということじゃないのか?」
宥めるような声とともに、顔を覆う両手に暖かい物が重ねられた。それが彼の手の平だと気付く前に、顔を解放させられる。相手を見たくないし、相手に見られたくなくて、フェリアは必死で顔を背けた。それを強情に向かせるようなことはしないが、声は続く。
「君の母親は、『力』を持っていなかった。だが、君は持っていた。そこで勝ったとは思わないのか?」
「思わないわよ。だって現に、准尉だって」
「俺は今、君を見ている」
奮然と言われて、思わずフェリアは顔を上げてしまった。情けない顔を見られたことへの後悔よりも、彼の毅然とした表情の方が印象強い。ナイザーはふと笑った。
「それは確かに、最初は君があの踊り子の娘だと聞いて劇場を訪れた。だけれども、すぐに君の声にあてられてしまってね……。本当はスールイ公について調べて帰るつもりだったのに、一切できなかった。こんなことでは駄目だと思って、二度目からは殿下から授かった石を持つようにしたんだ」
ナイザーが自分の軍服の内側を示す。
そういえば、とフェリアは回想した。アンナの話によれば、フェリアが奇妙な客がいるとナイザーに気付く前に一度、彼はグロピウス座を訪れているということだった。それなのに、フェリアには一度目の彼の記憶がない。もしも客席の中にいたならば、あの居心地の悪いほどの視線に気付かないわけがないのに。
「母親と比べてどうする。『力』を持っているからなんなのだ。君は君らしく、堂々としていればいい」
ナイザーはそう言うと、フェリアから手を離した。フェリアは必死に平常心を保ちながら、言葉を探す。まさかこの男から励ましを受けるなんて、夢にも思わなかった。
「……あんたにそんなことを言われると、なんか腹が立つわね」
「そうか。死にたいほどの屈辱か」
「馬鹿言わないで。殺したいほどの屈辱よ」
可愛気のない台詞しか思いつかないのは、今に始まったことではない。ナイザーも特に気にかけた様子はなく「そういえばお前に一度殺されそうになったな」と冗談では済まないことを言って笑った。その笑い声を聞いて、ようやく平常心を取り戻す。苛立ちはするけれども、それが心地よいのだ。フェリアが何を言おうとも、軽く受け流してくれる彼だから、フェリアは思いの丈を遠慮なくぶつけられる。
「でも、それなら、貴方は私のことを最初から知ってたってことよね?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、スールイ公のお屋敷で会った時、私のことを忘れてたのは……」
「当然演技だ。忘れるわけがないだろう。舞台が終わった後も俺のことをちらちらと見ているし」
あの時も気付いていたのか、とフェリアは苦りきった。もはや苦言を吐くことも労力の無駄としか思えない。
「……だったら、最初から私に近づけばよかったんじゃないの? アンナとか、スールイのご息女に近付くより早く欲しい情報が得られたでしょうに」
「だから何度も言っているじゃないか。できることならお前とは関わりたくなかったと」
「私が『力』を持っていて、記憶を抹消できないから?」
「それもある。が、一番大きな理由は俺があてられてしまうからだ」
「はあ?」
「だというのに、神様は悪戯ばかりなさる。何故だか君と二人きりになる状況が多くて、はっきり言って、参ったよ」
「なぜ?」
「二人きりになると、会話をしてしまうからさ」
目をぱちくりさせるフェリアを前に、彼は哄笑し、立ち上がった。ズボンについた草を払って、彼は腰に手を添える。聳え立つ王宮の後ろに、朝日はもういない。高く上っていった太陽は、涼しい北の地に温もりを与えていた。
「しかし、人間とは不思議な物だな。一つ目的を果たすと次を果たしたい。一つ手に入れるともう一つ欲しい。実際にはこんなちっぽけな存在に何ができるわけもなく、何も持っていないのに。唯一あるとすれば、そうだな、自分の命だけだ」
「……何言ってるの?」
「俺は王宮の中で生まれ育ち、皇太子の世話役を仰せつかり、軍人にもなり、国中を旅して、そして今に至る。豊富な人生経験をしているとは思うが、結局それで何を手に入れたのだろう。確かに俺の物だと思えるのは、自分の命だけだ」
「あんたの言ってること、さっぱりわからないわ」
「生きろってことだ。戦火はいずれ、首都にもやってくることだろう。だが、負けるな。お前には生きていてほしい」
「どうして」
「……珍しく殊勝になってやったんだから、理由なんて聞かずに頷いておけ」
「珍しいから気になるんじゃない。私が『力』を持っているから? それとも女神様の娘だから?」
「……生きていればいずれまた会えるから、という選択肢はないのか」
「だって貴方はここに戻ってこないんでしょう?」
「それでも生きていれば、いずれ会うこともあるだろう。俺とて死ぬ気はない」
ナイザーは飄々と言ってのけてから、振り返った。
「これだけ正直に話したのだから、俺から君にも一つ、質問してもいいな?」
満足そうな微笑に、一瞬呆けてしまいそうになるが、フェリアは首を振った。自分に喝を入れて立ち上がると、「何」と問い返す。
「最後に、歌を歌ってくれないか」
予想外の質問にフェリアはぽかんとした。それにこれは質問というよりも、頼みではないか。
「でもだって貴方、『力』を防ぐ石を持っているんでしょう」
「今は持っていない」
「肌身離さず持っているものだと思ってた」
「今日は、特別だ。プリマに会うからな」
「私が会いに来たんじゃない」
「そうだったな」
要領を得ない会話を怪訝に思いこそしたが、やけにナイザーが嬉しそうにしているのを見て何もかもがどうでもよくなった。フェリアにとって歌うことは息をすることに等しい。別段、頼まれたりしなくとも、歌うこと自体に問題はなかった。
「まあ、歌ってやってもいいけれど……」
フェリアは丘の頂上に立って、コートの裾を揃えた。寝間着の上に直にコートを纏っているのだ。はしたない格好をしているという意識はあるが、それでも恥じることなく堂々と構えた。そしてまっすぐ、彼の切れ長の目を見据える。
「——これは、最後じゃないわ」
そう断ってから、フェリアはゆっくり瞼を伏せた。
太陽という天然のスポットライトを浴びて、草むらのステージに足を置いて。彼女の紡ぎだす歌は、父が残していったものだ。父の歌は娘の声となり、国中へと響き渡った。彼が何故、自分を裏切った愛というものをあれほど大切にしていたのか、今なら少し理解できる気がする。例えどんなに痛めつけられても、彼は後悔などしていなかった。裏切られた分だけ、与えられるものはあったのだ。いや、それ以上に彼を幸せにしてくれていたはずだ。おそらく愛とはそういうものなのだ。辛い時には忘れてしまいがちだけれども、何物にも変えがたい幸せをもたらしてくれるものなのだ。
彼女の歌声に呼応するように、丘の上を風が駆け抜けた。フェリアの羽織る外套がなびき、羽のようにふわふわとはためく。その姿に何を見たのだろう、ナイザーは眩しげに目を細めた。その口が静かに「フェリア」と呼んだのを、彼女は歌いながらでも聞き逃さない。初めてその声で自分の名が語られたことに、苦おしいほど感動した。
この苦しみの名は、今更言うまでもない。フェリアが自分には決して縁のないと思い、ずっと憎んでいたそれは、確かに彼女の中にも存在していた。
人に苦悶を与えるだけの感情ならばない方がいいに決まっているとずっと思っていた。
だが、何物にも変えがたい幸せを、フェリアは確かに今、感じている。
それはきっと、どんな『力』よりも心強い味方である。
フェリアは自分の『力』を歌に乗せて、彼に届けた。また次に会うその時まで、言葉として告白するのはとっておこう。




