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調香師の少女と、色を失った盲目の彫刻家

作者: キュラス
掲載日:2026/07/03

王都の喧騒から少し離れた、緑豊かな一角にその店はある。

軒先に吊るされた乾燥ハーブが風に揺れ、扉を開ければ、甘やかな花の香りと、鼻腔をすっと突き抜ける清涼な薬草の香りが入り混じって、訪れる者の心を解きほぐす。


ここはお香と香水の専門店。そして店主である私――アミィは、この国でも数少ない、目に見えない感情や記憶を「香り」として結晶化させることができる特別な調香師だった。


「……よし、これで完成ね」


私は手元にある小さな硝子瓶を光に透かした。

中に入っているのは、淡い琥珀色の液体。ただの香水ではない。激しい焦燥感に苛まれる若き文官のために調合した、『故郷の夕暮れ時の安らぎ』を再現した記憶の香水だ。

私の力は、特別な魔法ではない。客の話をじっくりと聞き、その精神の奥底にある記憶の断片を手繰り寄せ、最適なハーブや魔鉱石の粉末を厳選して一滴ずつ混ぜ合わせることで、その人の脳に直接「かつての感情」を呼び起こす香りを生み出すのだ。


「失礼する。ここが、記憶の調香師の店で間違いないだろうか」


不意に、店の入り口の真鍮製のベルが、ひどく静かな音を立てて鳴った。

振り返ると、そこに立っていたのは、一人の仕立ての良い衣服を纏った老紳士だった。その胸元には、王宮の執事であることを示す金色の美しい刺繍が施されている。


「はい、間違いありません。私が店主のアミィですが……王宮からのご依頼でしょうか」


老紳士は厳かに一礼すると、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには王家の赤印が押されている。


「調香師アミィ。王命である。……現在、宮廷の奥深くで心を閉ざしている、一人の若き天才彫刻家の心を癒やす香りを調合してほしい」

「彫刻家、ですか?」


「うむ。彼の名はレオン。弱冠二十歳にして、神の指を持つと称えられた当代随一の芸術家だ。……しかし、半年前。彼はある不慮の『事故』に巻き込まれ、その両目の視力と、彼の中にあった『世界のあらゆる色彩の記憶』を完全に失ってしまったのだ」


老紳士の言葉に、私は息を呑んだ。

芸術家にとって、視力を失うことがどれほどの絶望か、想像するに余りある。しかも、ただ見えなくなっただけでなく、「色」という概念の記憶そのものを脳から削ぎ落とされてしまったというのだ。


「彼はそれ以来、一歩も部屋から出ず、泥をこねることも、のみを握ることもやめてしまった。あらゆる医者や聖職者が手を尽くしたが、彼の心を閉ざす『闇』を払うことはできなかった。……そこで、記憶を刺激する君の香りに、最後の望みが託されたのだ」


老紳士の哀しげな目を見て、私は静かに頷いた。

「……分かりました。そのご依頼、お受けいたします。ですが、お香を調合するためには、まずご本人にお会いし、その精神の気配を感じ取る必要があります。王宮へ伺ってもよろしいですか?」


「もちろんだ。案内しよう。……彼を、あの暗闇から救い出してやってくれ」


*****


王宮の最奥、高い窓から差し込む陽光さえも厚いカーテンで遮られた、薄暗い一室。

そこが、色を失った天才彫刻家、レオン様の部屋だった。


部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、私はその圧倒的な『無』の気配に身体がすくみそうになった。

部屋のあちこちには、作りかけの、あるいは途中で叩き壊されたような石膏や粘土の破片が転がっている。そして部屋の中央にある古びた椅子の裏側に、彼は座っていた。


白金色の美しい髪が影の中に沈んでいる。

彫刻のように整った顔立ち。けれど、その両目は白い包帯で固く覆われており、彼からは生きている人間としての覇気が、微塵も感じられなかった。


「レオン様。王宮調香師として参りました、アミィと申します。あなたのために、心を安らげる香りを……」

私が声をかけると、レオン様はぴくりとも動かず、ただ冷徹な声で言葉を紡いだ。


「……帰れ。俺には、香りなど必要ない」

「ですが、少しでもお気持ちが楽になればと……」

「楽になる? 視力を失い、赤が何色だったか、青がどんな風に輝いていたかも思い出せないこの頭で、何を思えば楽になるというんだ。……俺にとって、世界はもう、何の匂いもしない冷たい石の塊と同じだ」


彼の言葉には、他者を激しく拒絶する壁と、底なしの絶望が渦巻いていた。

私は、彼の頑なな態度に怯むことなく、持参してきたアタッシュケースを開けた。


「レオン様。あなたが世界の『色』を忘れてしまったのなら、私の香りが、それをもう一度あなたに見せてみせます」

「……傲慢な小娘だな」


私は、彼の罵り言葉を無視して、あらかじめ用意してきた数種類のハーブの精油を取り出した。

まずは、彼の緊張を解きほぐすための、オーソドックスなラベンダーと、微かなレモンの香り。それを、小さな香炉の熱でゆっくりと部屋の中に拡散させる。


部屋の中に、ふわりと、爽やかで優しい香りが広がっていった。


「……っ」

レオン様の鼻先が、微かにピクリと動いた。

包帯で隠された彼の眉が、わずかに中央に寄る。


「これは……」

「ラベンダーです。紫色の、小さくて可愛いお花の香り。……レオン様、何か思い出せますか?」

私が尋ねると、レオン様はしばらく沈黙し、やがて吐き捨てるように言った。


「……何も。ただ、頭の奥が少しだけ、騒がしい。……だが、色は見えない。紫がどんなものか、やはり俺の脳は拒絶している」


簡単にはいかない。

色彩の記憶を完全に失うというのは、ただの忘却ではない。彼の脳の、芸術を司る部分が、強いトラウマによって厳重にロックされているような状態なのだ。


「今日は、これで失礼します。……でも、私は諦めません。明日も、明後日も、あなたが『世界』を思い出すまで、私は新しい香りを持ち込み続けますから」


私は香炉を片付け、一礼して部屋を出た。

背後で、レオン様が「フン、無駄なことを」と小さく呟くのが聞こえたけれど、私には確信があった。

彼が香りを嗅いだあの瞬間、彼の精神の奥底で、何かが確かに微かに波打ったのを、私の調香師としての感性が捉えていたからだ。


*****


それから、私とレオン様の奇妙な対話が始まった。


私は毎日、王宮の彼の部屋へと通った。

ある日は、深い森の木々を思わせるサンダルウッドの香り。またある日は、夜の静寂を運んでくるジャスミンの香り。

私が香りを焚くたびに、レオン様は拒絶の言葉を口にしながらも、次第に私を部屋から追い出そうとはしなくなっていった。


「……アミィ」

彼が私の名前を呼んだのは、通い始めて二週間が経った頃のことだった。


「今日の香りは、何だ。……ひどく、胸の奥が締め付けられる」

「これは、オレンジの精油に、微かなシナモンを混ぜたものです。……暖炉の火のような、夕焼けのような、温かい『赤や橙』をイメージして調合しました」


私が答えると、レオン様はゆっくりと、包帯で覆われた顔を私の方へと向けた。


「……赤、か。……分からない。やはり色は見えないんだ。……けれど、この香りを嗅いでいると、なぜだろう。……昔、誰かと一緒に、ひどく温かい場所にいたような……そんな、ひどく切ない記憶の残骸だけが、胸の奥に灯るんだ」


レオン様の美しい唇が、微かに震えていた。

色が思い出せなくても、その色に伴う「感情」は、私の香りによって彼の魂の表層へと引き揚げられつつあった。


「レオン様……。その『温かい場所』にいた誰かのこと、もっと詳しく思い出せますか?」

私が一歩近づき、彼の様子を覗き込もうとした、その時だった。


「……ダメだ。それ以上は……思い出すなと、俺の頭が叫んでいる」


レオン様は突然、激しく頭を抱えて苦しみ始めた。

「あ、ぐ……っ、頭が、割れるように痛い……! 帰れ、アミィ! 今すぐその香りを消して、ここから出て行ってくれ!」


「レオン様!?」

彼の異様な苦しみ方に、私は慌てて香炉の火を消し、彼の背中に手を当てようとした。

しかし、その瞬間、私の指先が彼の衣服に触れたとき。


ジリ、と。

まるで強力な静電気に触れたかのような、奇妙な『拒絶の魔力』が私の指先を弾いた。

それは、ただの体調不良ではない。彼の精神の奥底に、何かが強固な『呪い』のような術式でロックをかけている証拠だった。


(……おかしい。ただの事故による記憶喪失なら、こんな風に魔術的な反発が起こるはずがないわ)


私は、レオン様から離れ、息を荒くする彼を心配そうに見つめることしかできなかった。

「……分かりました。今日はもう、香りを消します。……ゆっくり休んでください、レオン様」


私はアタッシュケースを締め、逃げるように病室を後にした。

王宮の長い廊下を歩きながら、私は自分の指先を見つめた。痺れはすぐに収まったけれど、あのレオン様の頭痛と魔術の反発……何かが、決定的に間違っている。

王宮の執事が言っていた「不慮の事故」というのは、本当の本当に、ただの事故だったのだろうか。


私は、レオン様の失われた記憶の裏にある、暗い宮廷の陰謀の匂いを感じずにはいられなかった。


*****


王宮からの帰り道、私は重い足取りで自分の店へと戻った。

作業台にアタッシュケースを置き、ランプの灯りの下で、レオン様が苦しんでいた姿を思い返す。


(あの激しい頭痛と、指先を弾いた魔術の残痕……ただの事故なわけがない)


私は調香師であり、魔道士ではない。けれど、感情や記憶を香りで結晶化させるプロセスにおいて、人間の精神に刻まれた魔術的な干渉――すなわち『呪い』や『制約』の気配には、誰よりも敏感だった。

レオン様の色彩の記憶と視力を奪ったのは、不慮の事故などではなく、何者かによる意図的な魔術の改変、あるいは強烈な口封じの呪術だ。


「だとしたら、私はとんでもない禁忌に触れようとしているのかもしれない……」


窓の外を見上げると、王宮の尖塔が、夜の帳の中で不気味に黒い影を落としていた。

恐ろしさはあった。王宮の陰謀に一介の調香師が巻き込まれれば、明日には私の存在ごと消されてしまうかもしれない。

けれど、あの部屋で、色彩を奪われ、世界の匂いさえ失ったと絶望していたレオン様の、白磁のように美しい、けれど死人のように冷え切った横顔が、どうしても頭から離れなかった。


「……私の香りが、もう一度あなたに世界を見せるって、約束したもの」


私は唇を噛み締め、作業台の引き出しの奥から、普段は滅多に使わない、厳重に封印された小さな木箱を取り出した。

中に入っているのは、白夜の国でしか採れないという幻の青い花――『月見草の涙』の乾燥させた花弁と、精神の障壁を微かに和らげる効果を持つ魔鉱石の粉末。


記憶の鍵を無理やりこじ開けるのではない。

彼の凍りついた精神を、内側からじんわりと、優しく解きほぐすような、そんな特別な香りを調合しなければならない。

私は一晩中、ランプの灯りを絶やすことなく、一滴、また一針と正確に素材を調合し続けた。


*****


翌朝、私は再び、厚いカーテンに遮られたレオン様の部屋へと足を運んだ。


部屋の空気は、昨日にも増して冷え切っていた。レオン様はベッドの端に腰掛け、包帯で覆われた顔を床に向けて、じっと動かずにいた。


「……また来たのか、アミィ」

声は掠れ、ひどく疲弊している。昨日、記憶を呼び起こそうとした反動の頭痛が、まだ続いているのだろう。


「はい。レオン様、お加減はいかがですか?」

「最悪だ。お前が変な香りを持ち込むせいで、昨夜は一晩中、ひどい悪夢にうなされた。……もう止めろ。俺をこれ以上、惨めな目に遭わせないでくれ」


「申し訳ありません。……でも、今日の香りは、昨日とは違います」


私は静かに歩み寄り、昨日調合した新しい香炉に火をつけた。

立ち上ったのは、どこか懐かしい、雨上がりの土の匂いと、夜露に濡れた花畑を思わせる、ひどく静かで透明感のある香り――『月見草の涙』をベースにした、精神の調和を促す香りだった。


「……っ」

レオン様の身体が、微かに震えた。

彼は深く息を吸い込み、包帯の奥の目を丸くするように、顔を少しだけ上げた。


「これは……頭痛が、しない。むしろ、頭の中にたまっていた泥のような重みが、スーッと消えていくようだ……」

「精神の障壁を和らげる香水です。レオン様、無理に色を思い出そうとしなくて構いません。ただ、この香りに身を委ねて、あなたの心が『心地よい』と感じる場所へ、意識を向けてみてください」


部屋の中に、穏やかな静寂が満ちていく。

レオン様の荒かった呼吸が次第に規則正しいものになり、彼の頑なだった肩の力が、ゆっくりと抜けていくのが分かった。


「……アミィ。お前は、不思議なやつだな」

レオン様は、自らの長い指先を、所在なげに動かした。

「俺の周りに来る大人たちは皆、俺に『早く色を思い出せ』『早くまた彫刻を作って王家を喜ばせろ』と、そればかりを要求した。……お前のように、思い出さなくていいと言った者は、一人もいなかった」


「芸術家としてのレオン様ではなく、今、ここで苦しんでいるあなたを救うのが、私の仕事ですから」

私がそう言って微笑むと、レオン様はふっと、本当に微かに、寂しげな笑みを浮かべた。

出会ってから初めて、彼の心が、私に向かってわずかに開かれた瞬間だった。


「……アミィ。手が、動かしたくなった。……泥を、持ってきてくれないか」

「えっ……」


「彫刻は作れない。色が見えない俺には、もう完成形が想像できないんだ。……でも、この香りを嗅いでいると、何かに触れていたい衝動に駆られる」


私は胸を躍らせ、すぐに部屋の隅にあった、乾きかけた彫刻用の粘土の塊を彼の元へと運んだ。

レオン様は、包帯で覆われた視界のまま、細く美しい両手で粘土を受け取ると、愛おしそうにその表面を指先でなぞり始めた。


こねて、伸ばして、形を作っていく。

彼の指の動きは、迷いがなく、驚くほど流麗だった。それはまさに、神に愛された芸術家の指そのものだった。


数十分が経過した頃、レオン様の手の中で、一つの小さな形が完成しつつあった。

それは、何かの『花』の形だった。


「……レオン様、それは?」

私が尋ねると、レオン様は不思議そうな顔をして、自らが作った粘土の花を指先で愛おしそうに撫でた。


「分からない。……ただ、この香りを嗅いでいると、どうしてもこの花の形が頭に浮かぶんだ。……アミィ、この花は何という名前なんだ? どんな色を、しているんだ……?」


彼の手の中にあったのは、小さな、けれどひどく精巧に模られた『ハーブ』の花の形――それは、私の店にとっても、そして私自身の記憶にとっても、特別な意味を持つ『ローズマリー』の花の形だった。


(どうして……レオン様が、ローズマリーの形を知っているの?)


ローズマリーの花言葉は――『記憶』。

そしてそれは、私がまだ幼い頃、ある大切な約束と共に、一人の少年に贈った思い出の花だった。


私の胸の奥で、ドクンと激しい警鐘が鳴り響いた。

レオン様の失われた色彩の記憶。そして、彼が忘れてしまったはずの『事故』の真相。

そのパズルのピースが、私の香りを媒介にして、恐ろしい速度で繋がり始めようとしていた。


*****


「ローズマリー……」

私がその名を呟いた瞬間、レオン様の手がピタリと止まった。


粘土で形作られた、小さく精巧なハーブの花。それを持つ彼の指先が、微かに、けれど拒絶しきれないほどの強さで震えている。


「ローズマリー、だと……? なぜ、その名前を聞くだけで、こんなにも胸が痛むんだ。まるで、最初から俺の魂の底に、その花が深く根を張っていたかのように……」


「レオン様、その花は……」

私が言葉を続けようとした、その時だった。


カチャリ、と背後で冷たい金属の音が響いた。

ハッとして振り返ると、そこには昨日の老執事ではなく、数人の王宮魔術師たちを従えた、一人の豪奢な衣服を纏った男が立っていた。この国の第二王子であり、現在の宮廷を実質的に牛耳っているとされるシャルル殿下だった。


「そこまでのようだね、市井の調香師(お針子)さん」

シャルル殿下は、冷酷な笑みを浮かべて私たちを見下ろしていた。


「殿下……!? どうしてここに……」

私が立ち上がろうとすると、背後に控えていた魔術師たちによって、見えない重力の障壁でその場に縫い付けられた。身体が鉛のように重くなり、指一本動かすことができない。


「レオン、君の『治療』は本日をもって終了とする。これ以上、この女を部屋に立ち入らせることは許さない」

シャルル殿下は冷たく言い放ち、レオン様の手から粘土の花を乱暴に取り上げると、床に投げ捨て、靴の踵で無残に踏みにじった。


「な、何をするんだ……! 殿下、それを返してくれ!」

レオン様が盲目のまま、声を荒げてベッドから身を乗り出す。


「レオン、君は余計なことを思い出さなくていい。君はただ、色を失ったまま、私のために『完璧な神の肉体』を模した彫刻だけを作っていればいいのだ。それが、君が宮廷で生き永らえる唯一の価値だからね」


シャルル殿下の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、すべての謎が一線の光となって繋がった。

不慮の事故。色彩の記憶の忘却。そして、私を弾いた強力な拒絶の魔術。


(そうか……事故なんかじゃない。レオン様の目を奪い、色の記憶を消し去ったのは、この人だ……!)


半年前、レオン様は宮廷の陰謀――おそらくは、シャルル殿下による現国王への『毒殺未遂事件』を、偶然その目で目撃してしまったのだ。

天才彫刻家としての彼の腕を惜しんだ殿下は、彼を殺す代わりに、宮廷魔術師に命じて強烈な『忘却の呪い』をかけた。目撃した事実だけでなく、二度と外部に告発の意図を持った芸術(作品)を作らせないよう、彼の「視力」と、芸術の命である「色彩の記憶」を代償として根こそぎ奪い取ったのだ。


そして、それだけではない。

私が昨夜から感じていた、強烈な、けれどどこか懐かしいこの違和感。

レオン様がローズマリーの形を完璧に模倣できた理由。


彼が失った「視力と色彩の記憶」は、彼が目撃した陰謀の口封じの代償……ではなく。

かつて宮廷の毒殺の陰謀に巻き込まれ、瀕死の重体に陥った『アミィ』を救うための、秘薬の材料として、彼が自ら宮廷の魔術師に差し出した「代償」だったのだ。


私が幼い頃、ある約束と共にローズマリーの花を贈った少年。

それこそが、まだ何者でもなかった頃の、レオン様だった。

彼は私を救うために、自らの最も大切な「芸術家としての未来(目と色彩)」を、悪魔のようなシャルル殿下との取引に差し出し、私の命を買い取った。そして、その取引の事実そのものを忘れる呪いを受け入れた。


「アミィを……連れて行け。この調香師は、国家反逆の容疑で地下牢へ投獄する」

シャルル殿下の冷酷な命令が下る。


「待て……! アミィに手を出すな!!」

レオン様が叫ぶが、魔術師たちによってベッドに押し留められる。


私は引きずられるようにして部屋から連れ出されながらも、必死に声を張り上げた。

「レオン様!! 忘れないで!! ローズマリーの香りは、あなたが私にくれた『命』の香りです!! 私が作ったあの香水のベースは、あなたが昔、私に贈ってくれた約束のハーブなんです!!」


バタン、と重厚な扉が閉まり、レオン様の叫び声は遮られた。


薄暗い地下牢へと閉じ込められた私は、ひんやりとした壁に背を預け、自らの胸元に手を当てた。

恐怖はなかった。ただ、胸が張り裂けそうなほどの愛おしさと、切なさが溢れていた。

彼は私を覚えていなかったのではない。私を救うために、すべてを失って、あの暗闇の部屋で一人、絶望を引き受けていたのだ。


(レオン様……今度は、私があなたを救う番よ。たとえ、この命が尽きようとも)


私は、アタッシュケースの底に隠し持っていた、最後の一瓶――私の魂のすべてを注ぎ込んで作った、本当の『ローズマリーの記憶』の香水を、そっと強く握りしめた。


*****


地下牢の壁は凍りつくように冷たく、時折、天井の隙間から不気味な水滴の音が響くだけだった。

私は冷たい床に座り込み、自らの胸元で温め続けていた最後の一瓶――淡い翡翠色の香水瓶を、祈るように強く握りしめていた。


(レオン様は、私を救うためにすべてを捨てた)


その事実が、凍えそうな私の心に絶やすことのない烈火を灯していた。

彼は私の命を繋ぎ止めるため、芸術家にとっての命である『視力』と『世界の色彩』、そして私との思い出のすべてをシャルル殿下に差し出したのだ。そして私は、その彼が差し出した代償の輝きによって、今こうして生かされている。


「……私のすべてを懸けてでも、あなたに世界を返す」


私は瓶の蓋をそっと緩め、微かに立ち上る香りを自らの衣服に染み込ませた。

ローズマリー、そして清涼なミントと、精神を研ぎ澄ます魔鉱石の結晶を砕いた微粉末。これは記憶を呼び覚ますためだけの香りではない。人間の脳に刻まれた強固な『呪術の術式』を、香りの分子によって内側から分解し、破壊するための、私にしか作れない禁忌の「破呪の調香」だった。


その時、地下牢へと続く鉄の扉が、ギィと重々しい音を立てて開いた。


「……おい、そこまでだ」


松明の灯りを揺らしながら入ってきたのは、数人の宮廷魔術師たちを引き連れたシャルル殿下だった。その顔には、一介の調香師を完全に路傍の石として見下す、残酷な薄笑いが浮かんでいた。


「アミィと言ったかね。君の作った香水は、少々余計なものが混ざりすぎていたようだ。レオンの呪いを刺激し、彼に余計なノイズを与えた罪は重い。……ここで大人しく、その不遜な首を落とされるといい」


殿下の合図と共に、魔術師たちが杖を掲げ、私に向かって鋭い光の刃を形成し始める。

死の恐怖が間近に迫る。けれど、私の手は震えなかった。


「殿下。あなたは、レオン様の本当の『才能』を、何も分かっていない」


「何だと?」


私は、握りしめていた翡翠色の香水瓶を、思い切り床のコンクリートへと叩きつけた。


パリン、と小気味良い硝子の砕ける音が地下牢に響き渡る。

次の瞬間、部屋全体に、爆発的なまでのローズマリーの香気が炸裂した。それはただの匂いではない。視覚化された淡い翡翠色の光の霧となり、突風となって地下牢の檻を突き破り、上方へと一気に駆け上がっていったのだ。


「ぐ、は……っ!? 何だ、この煙は……! 術が、霧散していく……!?」

魔術師たちが激しく咳き込み、彼らが展開していた光の刃が、香りの霧に触れた瞬間からサラサラと砂のように崩壊していった。


私の作った調香は、空気の壁を伝い、通気口を通り、王宮のすべてを侵食していく。

そして、その香りの導火線が目指す先は、ただ一つ。

最上階のあの薄暗い部屋で、自らの結界に囚われている、白金色の髪の芸術家のもとだった。


*****


最上階の部屋。

レオン様は、両目を覆う包帯の上から頭を強く押さえ、床に跪いていた。


「あ、あぁぁぁぁぁっ……!!」


激しい頭痛。脳の最深部で、シャルル殿下の宮廷魔術師たちが施した『忘却と封印の呪い』の黒い鎖が、今、怒涛のように押し寄せてきた翡翠色の香気の霧によって、パキパキと音を立ててひび割れ、砕け散ろうとしていた。


脳裏に、失われたはずの『色彩』が、凄まじい濁流となってフラッシュバックする。


最初に蘇ったのは、鮮烈な『赤』。

それは、あの日、宮廷の陰謀に巻き込まれて倒れていた、幼い少女アミィが流していた血の赤。


次に蘇ったのは、深い『青』。

それは、彼女の命を救うため、自らの目と色彩の記憶を差し出すと悪魔に誓った、あの地下室の冷たい闇の青。


そして最後に、彼の世界を完璧に満たしたのは、眩いばかりの『緑』と、淡い『紫』。

それは、少女が「生きて、また会おうね」と僕の手に握らせてくれた、一本のローズマリーの花の色。


「あ……、あ……っ」


レオン様は、自らの顔を覆っていた白い包帯を、乱暴に引き剥がした。

開かれた彼の瞳。半年の間、光を失っていたはずのその両目に、今、翡翠色の香水の霧を通じて、世界のすべての『色彩の波長』が、圧倒的な輝きを伴って蘇っていた。


視力は戻った。色はすべて思い出した。

そして、自分が誰を救うためにすべてを捨てたのか、その最も大切な少女の名前も。


「アミィ……!!」


レオン様は立ち上がり、部屋の隅に置かれていた、かつて愛用していた重い鉄ののみを手に取った。

彼の目に、もう絶望の影はなかった。そこに宿っていたのは、大切な者を今度こそ守り抜くという、神の指を持つ芸術家の、凄まじいまでの『執念』と『怒り』だった。


床を蹴り、彼はアミィの囚われている最下層へと向かって、一気に駆け下りていった。


*****


地下牢の奥底で、翡翠色の霧がシャルル殿下と魔術師たちの視界を完全に遮っていた。


「くっ、何だこの香りは……! 術式が、脳の命令を拒絶している……!?」

魔術師たちが狼狽し、掲げた杖から放たれるはずの光の刃が、火花を散らして霧散していく。衣服に染み込ませたローズマリーの香気は、宮廷魔術師たちの精神的な集中を内側からかき乱し、魔術の構築そのものを不可能にさせていた。


「おい、何をまごついている! 早くその小娘の首を撥ねろ!」

シャルル殿下が激昂し、自ら腰の細剣を引き抜こうとした、その時だった。


ズゥゥゥンッ!!!


地下牢の分厚い鉄の扉が、凄まじい衝撃音と共に内側へ向かって吹き飛んだ。

爆風と火花、そして砕け散った石材の破片が飛び散る中、もうもうと立ち込める煙の向こうから、一人の長身の青年が姿を現した。


白金色の美しい髪を激しくなびかせ、その両目からは、かつての死人のような濁りは完全に消え去っていた。らんらんと輝く氷の青色の瞳。その鋭い視線は、真っ直ぐに私を捉えていた。


「レオン、様……」


私の声に、彼の視線が微かに和らぐ。しかし、彼がその手に握り締めていたのは、彫刻用の粘土をこねるための優しいヘラなどではなかった。石材を打ち砕くための、重厚で鋭利な鉄ののみだった。その大ぶりな刃先が、松明の光を反射して冷たくギラリと輝いている。


「レオン!? 君、なぜ目が……まさか、呪いが解けたというのか!?」

シャルル殿下が驚愕のあまり声を裏返らせ、後ずさった。

「魔術師ども、何をしている! 侵入者だ、出会え、出会えッ!!」


「どけ」


レオン様の口から放たれたのは、地響きのような低い一言だった。

襲いかかろうとした魔術師の一人が杖を突き出したが、レオン様は一切の躊躇なく踏み込み、その重い鉄の鑿を真横に一閃した。


ガキィィィンッ!!


強固な魔力防御の障壁ごと、魔術師の杖が真っ二つに叩き折られた。凄まじい腕力。ただの芸術家だと思われていた彼は、巨大な大理石を何日も不眠不休で削り出す、宮廷で最も強靭な肉体と筋力を持つ職人でもあったのだ。


「ひっ、化け物め……!」

武器を失った魔術師たちが、恐怖に顔を歪めて次々と壁際へ逃げ惑う。


レオン様は彼らには目もくれず、真っ直ぐにシャルル殿下の前へと歩み進めた。その足取りには、寸分の迷いもない。


「シャルル殿下。あなたの企みは、すべて終わった」

レオン様の氷のような瞳が、殿下を射抜く。


「な、何を言う! 証拠でもあるのか!? 色彩を失った哀れな彫刻家の妄言など、誰も信じはしない!」

「証拠なら、俺のこの両目が、そして俺の脳がすべて記憶している。半年前、あなたが国王陛下のワインに盛った『白夜の毒』。……その出所と、あなたが毒を買い付けた商人の名前まで、俺の呪いが解けた今、すべて鮮明に思い出した」


「なっ……!?」

シャルル殿下の顔から、完全に血の気が引いた。


「俺は、アミィを救うためにあなたの脅迫に応じ、自ら目と色彩を差し出した。……だが、あなたがその約束を破り、彼女の命を再び奪おうとするならば、俺は全力を懸けてあなたを地獄へ引きずり落とす。この国の全平民と貴族の前に、あなたの罪をすべて曝け出してな」


レオン様が鉄の鑿をシャルル殿下の喉元へと突きつける。その刃先から放たれる圧倒的な威圧感に、殿下はガタガタと膝を震わせ、ついにその場にへたり込んだ。


「あ、あぁ……。魔術師、誰か、こいつを止めろ……」

しかし、周囲の魔術師たちは皆、レオン様の放つ職人としての、そして一人の男としての凄まじい気迫に圧倒され、誰一人として動こうとはしなかった。


「……終わったな、シャルル殿下」


背後から、さらに別の重々しい声が響いた。

地下牢の入り口に現れたのは、現国王の直属である近衛騎士団の面々、そして、あの私に依頼を持ってきた老執事の姿だった。


「シャルル殿下。レオン殿より事前に提出された、殿下の毒殺未遂に関する告発書、および毒の鑑定書に基づき、これより殿下を国家反逆罪の容疑で拘束いたします」

近衛兵たちが一斉に踏み込み、抵抗する気力を失ったシャルル殿下と、その配下の魔術師たちを次々と取り押さえていった。


「レオン、君……最初から、これを狙って……」

引きずられていくシャルル殿下は、信じられないものを見るようにレオン様を睨みつけていたが、レオン様はもう、彼に視線を向けることはなかった。


静まり返った地下牢の中で、レオン様はゆっくりと鉄の鑿を床に置いた。

そして、私の方へと向き直り、一歩、一歩と近づいてきた。


「アミィ」


「はい、レオン様……」


彼が、私の前に膝をついた。

その細く、美しい両手が、私の泥に汚れた手をそっと包み込む。

出会った時の、あの凍てつくような冷たさはもうどこにもない。私の命を救ってくれた、あの優しくて、ひどく温かい彼の体温が、そこにはあった。


「……遅くなって、すまなかった。俺のために、何度も危険な目に遭わせてしまったな」

「ううん……。私の方こそ、あなたが私のためにすべてを捨ててくれたことも知らずに……。ごめんなさい、レオン様」

僕の目から、堪えきれずに大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


レオン様は愛おしそうに、その親指で私の涙をそっと拭った。


「謝る必要なんてない。……君が届けてくれたあのローズマリーの香りが、俺の暗闇に閉ざされていた世界を、もう一度鮮やかに染め上げてくれたんだ。……アミィ、君の言う通りだった。君の香りは、俺に世界のすべてを思い出させてくれたよ」


彼は包帯の取れた美しい顔で、心からの、眩いばかりの笑顔を私に見せてくれた。


「さあ、帰ろう、アミィ。俺たちの、あの温かい店へ」


「はい……! 帰りましょう、レオン様」


私は彼の首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。

地下牢に漂う翡翠色の霧の向こうから、本物の朝の光が、優しく私たちを照らし始めていた。


*****


それから、一年の月日が流れた。


王都の片隅にある私のお香と香水の専門店は、今日も朝からたくさんのハーブの香りに包まれていた。

けれど、一年前と大きく違うのは、店の奥にある広めの作業スペースに、見事な大理石の作業台と、無数の鑿や槌が並んでいることだった。


「……アミィ。この部分の曲線、どう思う?」


白金色の髪を後ろで無造作に結んだレオンが、白いシャツの袖を捲り上げ、大理石の像の前から私に声をかけてきた。

彼が今作っているのは、一人の少女が、一本のハーブの花を大切そうに胸に抱いている姿の彫刻だった。その表情はひどく穏やかで、見ているだけで胸の奥が温かくなるような、そんな素晴らしい生命力に満ちている。


「とっても素敵、レオン。……でも、少しだけ、このお花の部分の香りが足りない気がするわ」

「お香のソムリエは厳しいな。じゃあ、君のとっておきのローズマリーの精油を、この石の台座に少し染み込ませてくれるかい?」


レオンは悪戯っぽく笑い、私の腰を引き寄せて、その額に優しくキスを落とした。


色彩を取り戻した天才彫刻家は、宮廷お抱えの地位を辞退し、私の店の『専属の職人兼パートナー』として生きる道を選んだ。

今、彼が作る彫刻は、私の調香した「記憶の香り」をその身に纏い、見る者の五感すべてに訴えかける、世界で唯一の『香る芸術』として、国内外の多くの人々から絶賛されている。


「レオン、今日の午後は、街の市場に新しいハーブを仕入れに行く約束でしょう? 早くその作品を仕上げちゃって」

「分かっているよ。……でも、その前に、少しだけ休憩にしないか? 君が淹れてくれた、あのハーブティーが飲みたい」


レオンは私を後ろから優しく抱きしめ、その温かい体温を私に伝えてきた。

窓の外からは、色鮮やかな王都の街並みと、初夏の爽やかな風が、私たちの店へと吹き込んでくる。


失われた色は、もう二度と消えることはない。

私の紡ぐ香りと、彼の刻む形が、これから先もずっと、私たちの新しく色鮮やかな未来を、どこまでも美しく彩り続けていくのだから。

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