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第1話 帰りたい元勇者と、口の悪すぎる魔女

夕暮れの王都は、今日もどこか他人事みたいに美しかった。


 石畳は西日に染まり、赤茶けた屋根の上を鳥が横切っていく。城壁の向こうに沈みかける太陽は、まるでこの世界そのものが絵本か何かでできているみたいに、少しだけ嘘っぽかった。市場から流れてくる焼き肉の匂い。子どもの笑い声。荷馬車の軋み。酒場から漏れる陽気な楽器の音。


 そんなものを背中で聞き流しながら、俺――相馬遼真は、王都の外れにある古びた安宿《木靴亭》の二階の窓辺で、薄茶色の紙片を睨みつけていた。


 紙片といっても、ただの紙じゃない。羊皮紙に近い、ざらついた魔導紙だ。その上には見慣れない文字と円環状の紋様がびっしりと刻まれている。


 召喚術式の断片。


 俺をこの異世界に引っ張ってきたものと、同系統の可能性がある古代式魔法陣の写しだ。


「……また肝心なところが欠けてるな」


 独り言は、狭い部屋の中で小さく跳ね返ってきた。


 机の上には他にも紙が山ほど積まれていた。王立図書院の古文書室で写させてもらった術式の断片、遺跡の壁面を写した拓本、魔力循環の仮説を書き殴ったメモ。端には硬くなった黒パンと、とうに冷めきったスープ。


 王都の人間から見れば、俺はたぶん「魔王を倒した元勇者」なんて大層な名前で呼ばれているのだろう。


 だが今の俺は、勇者でも救世主でも何でもない。


 ただ、元の世界に帰る方法を探しているだけの男だ。


「リョーマ、まだやってたのかい」


 扉の向こうから、女将の気のいい声が飛んできた。


「飯ならあとで」


「飯じゃないよ。今夜の宿代、明日の昼まででいいからねって言いにきたのさ。昼過ぎには兵士あがりの団体客が来るかもしれないから」


「助かります」


 返事をすると、女将は「ほんとに助かった顔しないねえ、あんたは」と笑って去っていった。


 この《木靴亭》は王都でも相当安い部類の宿だ。部屋は狭いし、風呂はぬるいし、壁は薄い。だが、俺にとっては十分だった。寝る場所と、紙を広げる机があればいい。余計なものは必要ない。


 人付き合いも、安定した生活も、この世界での将来も。


 全部、必要ない。


 必要なのは、帰還の手がかりだけだ。


 俺は椅子から立ち上がると、窓を少し開けた。夕方の風が紙を揺らす。王都の匂いが流れ込んでくる。香草と土と、石と、遠い厨房の油の匂い。ずいぶん慣れたはずの匂いなのに、俺の脳裏に浮かぶのはいつだって別のものだった。


 雨上がりのアスファルト。

 電車のブレーキ音。

 コンビニの自動ドア。

 湿気を含んだ日本の夏。


 もう三年になる。


 高校二年の春、気づけば俺はこの世界にいた。意味も分からず王城に呼び出され、神託だ召喚だ勇者だと騒がれ、帰る方法は「魔王を倒せばわかるかもしれない」とだけ言われた。


 それで、倒した。


 魔王も、その配下も、戦争も、全部。


 なのに、帰れない。


 王は「すまぬ」の一言で済ませ、神官たちは「召喚は神意ゆえ」と目を逸らし、国は俺に爵位だ屋敷だ金だを渡そうとした。


 全部断った。


 そんなものを受け取ったら、ここで生きていくことを認めるみたいで嫌だったからだ。


 俺には帰る場所がある。


 帰らなきゃいけない理由がある。


「……待ってろよ」


 誰にともなく呟いて、俺は紙片を丁寧に丸めた。


 今夜は王都南区画の古道具市に、遺跡あがりの品を流す露店が出るらしい。胡散臭い話だが、胡散臭い話でも掴まないと、帰還の手がかりなんて見つからない。


 革の外套を羽織り、腰の短剣を確かめ、机の上の術式メモを数枚だけ袋に入れる。部屋の鍵を持って廊下に出ようとした、その時だった。


 ――ずんっ。


 床の下から、重い衝撃が響いた。


「……?」


 次の瞬間。


 どんっ! ばきっ! ぎゃあああっ!


 一階の食堂の方から、椅子やら皿やら人やらがまとめて吹き飛んだような、ひどく不吉な音が上がった。


「おいおい……」


 嫌な予感しかしない。


 俺が階段を駆け下りると、食堂は半分地獄絵図になっていた。


 開け放たれた入口から、三体の魔獣が雪崩れ込んでいる。毛の抜けた黒犬のような体躯に、狼より太い首、赤く濁った目。王都周辺じゃ珍しくない低級魔獣グラウンド・ハウンドだが、宿の中に入ってくるとなると話は別だ。女将が鍋の蓋を盾みたいに構え、客の一人が椅子を振り回しているが、時間の問題だった。


「部屋に戻ってろ!」


 叫びながら、俺は階段の手すりを蹴った。体をひねり、そのまま一番手前の魔獣の首筋へ短剣を叩き込む。金属より硬い毛皮の下に、しかし確かな手応えがあった。魔獣が低く唸り、血を撒き散らして転がる。


 残り二体が俺へ飛びかかる。


 左から来る一体の顎を前腕で逸らし、膝で腹を蹴り上げる。だが右の一体が速い。床板を抉る勢いで突進してきた。


 間に合わない――そう判断した瞬間。


 漆黒の光が、宿の入口から一閃した。


 空気が、裂けた。


 紫がかった黒い魔力が帯のように走り、魔獣の体を横薙ぎに吹き飛ばす。壁に叩きつけられた獣は、そのままぴくりとも動かなくなった。


「……は?」


 食堂の入口に、一人の女が立っていた。


 長い銀髪。夕暮れを吸い込んだみたいに暗い、黒い魔女帽子。肩を覆うマントの下は、喪服めいた黒のドレス。ただし、戦うための服でもあるのだろう。腰には革帯、膝上までの編み上げブーツ、指先だけ露出した黒手袋。白い肌と、毒にも月光にも見える銀髪が、その黒をやけに際立たせていた。


 そして何より印象的だったのは、その顔だ。


 綺麗だった。


 腹が立つくらいに。


 整った目鼻立ちも、冷たそうな灰青の瞳も、頬にわずか差した紅も。だが、その美貌を台無しにするように、彼女は見るからに不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。


 見間違えるはずがない。


「……エルセ」


 災厄の魔女。


 かつて魔王軍側の切り札の一人として名を轟かせ、最終決戦では俺の前に立ちはだかり、それでいて最後にはこちらに刃を向けなかった女。


 魔王討伐後、行方知れずになっていたはずの存在だ。


「なによ、その間の抜けた顔」


 彼女は吐き捨てるように言った。


「相変わらず鈍いのね。そんなだから、こんな木くずみたいな宿で魔獣に食われかけるのよ。ほんと、最低」


 助けに来た人間の第一声じゃなかった。


 女将と客たちがぽかんとしている。俺もたぶん同じ顔をしていた。


「……お前、何してる」


「見ればわかるでしょ。あんたを助けたの。嫌だけど」


「嫌なら助けるなよ」


「そうしたかったわよ! でも放っておくと死にそうだったから仕方なくよ! 勘違いしないで!」


 最後の一匹が俺たちのやり取りの隙を突いて飛び込んでくる。だがエルセは視線すら向けず、指先を軽く振っただけだった。黒い魔力が鎖みたいに走り、魔獣を床へ叩き伏せる。そのまま床板ごと凍りつかせ、動きを封じる。


 相変わらず、とんでもない魔力操作だ。


 討伐戦のときより、むしろ洗練されている気すらした。


 食堂にいた連中が一拍遅れて歓声を上げる。女将などは涙ぐみながらエルセの手を掴みに行きかけたが、彼女が一歩退くと、その手は虚しく空を切った。


「た、助かったよお嬢さん! いやあ、すごいねえ!」


「別に。そこにいたから片づけただけ」


 口調はつっけんどんだが、女将の身体に怪我がないかだけはさりげなく視線で確認している。その小さな癖を見て、俺は妙に懐かしい気分になった。


 こいつは昔からこうだった。


 冷たそうで、攻撃的で、口が悪い。なのに、妙なところで世話焼きで、何だかんだ目の前の人間を見捨てられない。


 ……いや、昔より口が悪くなってないか?


「おい、エルセ」


「なによ」


「助かった。礼は言う」


 一応そう言っておくと、彼女はぴたりと動きを止めた。


 灰青の瞳が丸くなる。耳までうっすら赤い。だが次の瞬間、その顔はくしゃりと歪んだ。


「気持ち悪い」


「は?」


「礼なんていらないって言ってるの。あんたに感謝されるくらいなら、魔獣に噛まれてた方がまだましだったわ」


「言い過ぎだろ」


「ほんとに、昔からそういうところ嫌い」


 嫌い嫌い言いながら、彼女は倒れた椅子を足で起こし、割れた皿の破片を魔力で端へ寄せている。行動がまったく言葉と一致していない。


 女将が小声で俺の袖を引いた。


「ねえ、リョーマ。あの綺麗なお嬢さん、知り合いかい?」


「まあ、昔ちょっと」


「恋人?」


「違う」


「違うわよ!」


 否定の声だけは綺麗に重なった。


 だが、どういうわけか食堂にいた全員が、にやにやしながらこちらを見ている。やめろ。そんな目で見るな。


「ちょっと待って。何その空気」

 エルセが周囲を睨んだ。

「違うって言ってるでしょう。こんな男と、そんな関係なわけ――」


 彼女はそこで言葉を切った。


 一瞬だけ、喉を詰まらせたみたいな顔になる。


 俺はその変化を、見逃しそうになって、見逃した。


「……あるわけないでしょ。最低だし、鈍いし、野宿の方が似合うし」


「最後の悪口いるか?」


「全部いる」


 女将が完全に面白がっている。やめろ。あとで絶対酒の肴にされる。


 騒ぎが落ち着き、兵士への連絡だの床の片づけだのが始まる中、俺は外へ出た。息苦しくなったわけではない。ただ、あまりにも予想外の再会で、頭を冷やしたかった。


 王都の夕暮れは、もう夜の色に変わりかけていた。


 宿の前の石畳には、食堂から転がり出た木片や皿の欠片が散らばっている。遠くでは教会の鐘が鳴っていた。


「逃げるの?」


 背後から声がする。


 振り向かなくてもわかった。


「逃げてない。ただ空気を吸いに出ただけだ」


「ふうん。相変わらず、都合が悪くなるとそうやって誤魔化すのね」


 エルセは俺の隣に来た。つんと鼻を上げた横顔は相変わらず美人で、相変わらず感じが悪い。帽子のつばの影が頬に落ち、銀髪が夜風に揺れている。


「……久しぶりだな」


 そう言うと、彼女はまた一瞬だけ変な顔をした。


 懐かしさと、怒りと、泣きそうな何かが、ごちゃまぜになったような顔。


 だが出てきた言葉は、やはり別のものだった。


「最悪。会いたくなかった」


「そうか」


「そうよ」


「じゃあ何で来た」


「……魔獣がいたから」


「それだけか」


「それだけで十分でしょ。あんたを助けたかったとか、そんなわけないし」


 妙に引っかかる言い方だったが、深く考えるのはやめた。こいつは昔から、素直にものを言わない。今さらだ。


 むしろ気になるのは別だ。


「王都にいたのか」


「いたり、いなかったり」


「意味がわからん」


「別に、あんたに逐一報告する義理ないし」


「それはそうだが」


 俺が肩をすくめると、エルセはわずかに眉を寄せた。責めるでもなく、困るでもなく、何かを測るような目だった。


「……あんた、まだ帰る方法を探してるのね」


「ああ」


 即答だった。


 迷いなんかない。あるはずがない。


「まだ、じゃない。ずっとだ」


「魔王は倒したのに」


「関係ない」


「この国は、あんたを英雄扱いしてるのに」


「関係ない」


「ここで暮らす場所だって、いくらでも――」


「関係ない」


 口にした途端、自分でも少しだけ言い過ぎたと思った。


 だが訂正はしなかった。甘く言い換えたところで、本音は変わらない。


「俺は帰る。この世界に何があっても、それだけは変わらない」


 しばらくの沈黙。


 夜風が強くなり、エルセの髪が肩口で揺れた。彼女は俺を見ずに、王都の通りの先を見ていた。


「……そう」


「そうだ」


「勝手にすれば」


「する」


「ほんと、最低」


「だから何でそこだけ毎回悪口なんだよ」


 言い返すと、彼女は少しだけ唇を噛んだ。


 その仕草が妙に幼く見えて、俺は言葉を失う。最終決戦の頃のこいつは、もっと凍るみたいに冷たい顔をしていた。こんなふうに、感情を隠しきれない顔はしなかった。


 何かあったのかもしれない。


 いや、あるに決まっている。魔王軍が崩壊したあと、こいつがどこで何をしていたのか、俺は何ひとつ知らない。


 知らないし、聞くべきなのかもわからない。


「……とにかく」


 エルセは急に話題を切り替えた。


「しばらく、あんたの近くにいるから」


「は?」


「嫌だけど」


「いや、嫌なら来るなよ」


「うるさいわね。こっちにも事情があるの」


「事情?」


「あるの。説明する気はないけど」


 相変わらず一方的だ。


「俺は別に護衛なんか要らないぞ」


「知ってる。そこそこ強いものね、あんた」


「そこそこって」


「でも、放っておくと無茶するし。変な遺跡に潜るし。碌でもない術式に首突っ込むし。見てるこっちが不愉快なのよ」


「……お前、どこまで知ってる」


 俺の問いに、彼女は少しだけ目を逸らした。


「別に。王都にいれば、そのくらい耳に入るわ」


 嘘だな、と思った。


 王都にいて耳に入る程度の情報じゃない。俺が最近調べている召喚術式の系統も、南区画の古道具市に今夜出るらしい遺跡品の噂も、そんなに表へ出ている話ではない。


 だが、追及する前に彼女は話を畳んでしまった。


「だから決めたの。しばらく付きまとってあげる」


「嫌がらせか?」


「そうかもね」


「迷惑なんだが」


「知ってる」


 知ってる上でやるのか。性格が悪い。


 俺が本気で眉をひそめると、エルセはなぜか一瞬だけ傷ついたような顔をした。だがそれもすぐ消える。代わりに、いつもの棘だらけの表情が戻ってきた。


「なによ。そんな顔して。……別に、ずっといるわけじゃないんだから」


「ならなおさら意味がわからん」


「わからなくていい」


 こいつの言い分は、本当に昔からよくわからない。


 だが、それ以上押し問答する前に、宿の中から女将の声が響いた。


「リョーマー! ちょっとこっち来とくれ! 魔獣の血が床に染みる前に、力持ちの手がほしいんだよ!」


「ああ、今行く!」


 返事をして振り向くと、エルセはその場に立ったままだった。


 夜の王都の灯りが、彼女の銀髪に淡く映る。


「お前は」


「私はいい。あんたみたいに暇じゃないし」


「そうか」


「そうよ」


「じゃあまたな」


 何気なく言ったその言葉に、彼女は目を見開いた。


 たったそれだけで、ひどく驚いたみたいに。


 そして、唇を開く。何かを言おうとしたのだろう。だが出てきた言葉は、またも予想の斜め上だった。


「……二度と会いたくない」


「お前、本当にそればっかりだな」


「うるさい!」


 帽子のつばを押さえたまま、彼女はくるりと背を向ける。長い銀髪が翻り、そのまま夜の通りの向こうへ歩き出した。


 だが五歩ほど進んだところで足を止めると、こちらを見ずに、ぶっきらぼうに言った。


「その古道具市、今日は行かない方がいいわよ」


「……何で知ってる」


「知ってるから言ってるの」


「理由は?」


「言う義理ない」


「おい」


「どうしても行くなら、死なないで帰ってきなさい。……あ、違っ――」


 彼女はそこで、はっとしたように口を押さえた。


 珍しい。今のは少し、ほんの少しだけ、普通の言葉だった。


 だが次の瞬間には、いつもの調子に戻る。


「ち、違う! そこで死なれると後味悪いってだけ! 勘違いしないで!」


「勘違いも何も……」


「ほんと最低!」


 言い捨てて、今度こそ彼女は夜の闇へ消えた。


 残された俺は、しばらくその背中の消えた先を見ていた。


「……何なんだ、あいつ」


 思わず呟く。


 久しぶりに会ったと思ったら、宿を助けて、悪口を並べて、勝手に近くにいる宣言をして、最後に忠告だけして去っていく。


 災厄の魔女と呼ばれていた頃より、よほど意味がわからない。


 だが、胸の奥に残っている感覚は、不快さだけではなかった。


 妙なざわつき。

 懐かしさ。

 そして、ほんの少しの違和感。


 ――死なないで帰ってきなさい。


 あの一瞬だけ、言葉の棘が消えた気がした。


 気のせいかもしれない。たぶん気のせいだ。こいつはもともと、そういうふうに気まぐれな女だった。


 そういうことにして、俺は宿へ戻った。


 女将に呼ばれ、床掃除と椅子運びを手伝い、ついでに割れた皿の弁償がどうだと騒ぐ酔客をなだめ、ようやく部屋へ戻れたのは夜も深くなってからだった。


 扉を開けると、部屋は出る前と変わらない――はずだった。


「……ん?」


 机の上に、見慣れない包みが置かれている。


 白い布で雑にくるまれたそれを開くと、中からまだ少し温かい焼き菓子と、小瓶に入った赤い液体が出てきた。回復薬だ。市販の安物より、明らかに質がいい。


 それに、小さな紙片が一枚。


 雑な字で、こう書かれていた。


『あんたが死ぬと迷惑だから置いておく。無駄に苦しめばいいわ』


「……」


 しばらく、紙を見つめる。


 そして俺は、思わず小さく息を吐いた。


「意味わからんだろ……」


 だが、焼き菓子を一つ摘まんで口に入れた瞬間、さらに意味がわからなくなった。


 これ、俺が昔よく食ってた味に近い。


 甘さ控えめで、少しだけ塩気があって、硬めの食感。王都で普通に売ってる菓子とは違う。旅の途中、俺が「こういうのが好きだ」と何気なく言ったことがあったかもしれない。三年前の、たった一度だけ。


 覚えていたのか。


 何で。


 そこまで考えて、やめた。


 考えても仕方ない。


 こいつは昔から気まぐれで、意味不明で、口が悪い。ただそれだけだ。


 俺は机に向かい直し、召喚術式の紙を広げた。帰還の手がかりを追うために。余計なことを考えないために。


 窓の外では、王都の夜が静かに更けていく。


 そして、その夜。


 俺は結局、古道具市には行かなかった。


 理由は単純だ。女将に酒場帰りの酔客の見張りを押しつけられ、動けなくなったから。エルセの忠告を気にしたわけじゃない。たぶん。


 だが翌朝、南区画の古道具市が、違法な遺跡品取引を狙った魔獣使い崩れの襲撃で半壊したと聞いて、俺はしばらく黙るしかなかった。


「……当たってたのかよ」


 窓辺でそう呟いた時、部屋の外から、こつん、と何かが当たる音がした。


 扉を開ける。


 廊下には誰もいない。


 ただ、朝食の乗った盆だけが、ぽつんと置かれていた。


 焼きたてのパン。湯気の立つスープ。目玉焼き。刻んだ香草。どう見ても宿の朝飯より手が込んでいる。


 盆の端には、また紙片。


『余り物。捨てるのも面倒だから食べれば』


「……」


 俺はしばらく無言でその盆を見つめ、それから廊下の先へ視線を向けた。


 階下から、銀髪がひらりと消えるのが見えた気がした。


 見間違いかもしれない。


 けれど、たぶん違う。


「……エルセ」


 名を呼んでも返事はない。


 代わりに、階下の方でがたんと派手な物音がした。慌てて何かにぶつかったみたいな音だ。俺は眉をひそめ、それから小さく笑ってしまった。


 本当に、意味がわからない女だ。


 だがどうやら。


 災厄の魔女は、しばらく俺の近くにいるつもりらしい。


 帰りたい俺と。

 口の悪すぎる魔女。


 最悪に面倒で、最悪に騒がしい何かが、ここから始まるのだと――この時の俺は、まだ本当にはわかっていなかった。

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