2:名前だけの青年
日和見高校はごく普通の高校。
偏差値も普通で、進学率も普通。何もかもが普通。
しかし校舎は無駄に広い。
現在はこの前新しく作られた新校舎しか使っていないのに、かつて使用し、取り壊しを待つ旧校舎を含め、学校敷地完全再現と来た。無駄なサービスを施してくれてありがとう。ついでに苦情の問い合わせ先がどこか教えてくれないかな。
おかげさまで膨大な土地を歩き回る羽目になってしまった。
「…はぁ」
疲労を覚え、適当な場所に腰掛ける。
いくら歩いても、人の影一つ無い。
本当に他の生徒がいるのだろうか。そんな疑念さえ抱いてしまう。
「…疲れはあるけれど、喉は渇いたりしないな」
幸いと言っていいのか、この世界に空腹という概念はないようだ。
いくら歩いても疲労は感じるが、喉の渇きは感じない。この調子であれば、空腹も同様だろう。
…ただ、食事という娯楽を封じられてしまうと、なかなかに難儀な気がする。
ポケットの中に入れていたスマホがないことから、この環境は娯楽という娯楽が欠けている。強いて言うなら図書室で読書をするぐらいではないだろうか。
数多の娯楽が存在する現代人から急に娯楽を奪ってみた。何日持つか。なんて実証には興味があるが…三大欲求のうち、食事以外の二つに走る未来しか見えないのは何故だろうか。
我々は高校生。多感で興味があるようなお年頃であろうとも、未成年である。
決して、絶対に、盛んになってはいけない!
…想像してしまった最悪を頭から振り払いつつ、再び立ち上がる。
まだまだ校舎の探索は終了していない。
軽い休憩を終えて、再び校舎へ。
すると先程まで誰もいなかった玄関口に、見慣れない生徒が立っていた。
僕らが着ている制服とは別物の制服…というか、背広、だろうか。
それを着用した男は、足音に気がついて僕の方へ振り返る。
服装の影響か、はたまた風貌か…まっすぐと背筋を伸びた姿がそうさせるのか、少しだけ大人びて見えた。
「…君は」
「…何か」
「…会えてよかった。この学校の生徒さんかな?」
ぼんやりとした紺色の瞳をこちらに向け、彼は敵対心がないことを示すかのように微笑みながら問う。
凜々しさを感じさせるその表情には、うっすらと不安が滲んでいた。
「…ええ、そうですよ。貴方は?どこかの高校の生徒だったりとか、します?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
「と、いうと」
「覚えていないんだ」
「それは、まあ…災難ですね。何か覚えている事は?」
「自分の名前が紘一ということだけ」
「苗字は…?」
「苗字も分からない。私は紘一という事しか、分からない」
「記憶喪失ってことですかね」
「そういうことだろうね。私にも上手く状況が把握できていないから、今はこう言うしかないよ」
「でも、きちんと受け答えはできていますよね」
「自分の事だけを忘れるタイプの記憶喪失なのだろう」
「身分証明書とかはお持ちではないんですか?」
「生憎、それらの類いは鞄の財布に入れていた。鞄を持っていたのは覚えているが、ここに来たらポケットの中身以外は無くなっていてね」
状況としては、僕と一緒らしい。
鞄の中に身分を示すものが入っていたのなら、これ以上の追求は無理だろう。
「…本当に、災難だ」
「同情してくれてありがとう。しかし警戒は解いてくれないらしい」
「当然ですよ…ここに来て、急に部外者が現れたんですから。まあ、身内かもしれないけれど」
「それもそうか。立ち位置が分からない人間なんて、信用に値しない。せめて、同じ高校の制服であれば違ったかもしれないが…」
「ですね…」
ここは日和見高校。少なくも集まっていたのは日和見高校の、水曜日の憂鬱の被害者達だけだと想定していた。
しかしここで部外者が追加となると、疑いは真っ先に彼へ向く。
たとえ無実だとしても、部外者の登場は「水曜日の憂鬱を引き起こした犯人」である可能性が強い。
…こういう対応に困る人間と最初に遭遇してしまうとは、本当にツイていない。
しかしここはあえてポジティブに考えよう。
…部外者は、最も疑わしい存在である。
しかし、この場で最も信用できる存在になり得るのだから。
それに、せっかく会えた人間とここで別行動をするメリットはない。
犯人であれば監視下に、無関係な人間であれば協力関係が構築できるかもしれない。
…彼の目的が、僕と同じでなければだけど。
少し探りを入れてみようか。
「でも、困っているんですよね」
「そうだなぁ…他の生徒には警戒されて、相手にもされなくて」
「他の生徒に会ったんですか?」
「ああ。一部生徒だけではあるけれど。もしかして、探しているのかい?」
「…」
「正直に言うといい。私も君に正直な言葉を述べるから」
「…そうですね。僕も他の生徒を探しています。僕の予想が正しければ。この学校にいる生徒は共通点を持っていますから」
「ほう、共通点」
「…教えませんよ」
「構わないよ。君が置かれている状況や他の生徒達の状況には興味が無い」
「なんで…?」
「自分の事も、今いる場所のことも、何をすべきなのかも分からない私は、他者の心配よりも自分の心配をしていてね。自分の記憶を取り戻すのが優先すべきと考えている」
「…それもそうか」
「まあ、この学校の生徒が記憶を失う前の私にとって、なんならの関係者である可能性は否定しないが…少なくとも、君は私の事を知らないのだろう?」
「そう、ですね。似たような方も存じ上げません」
他の人間がどうかは分からない。
彼とどこかで会っているかもしれない。
それを確かめる術は、この場にいる全員と対面し、確認するしかない。
なんだかんだで僕と彼の「大目的」は異なろうとも「現状の目的」は一致しているらしい。
「…他の人は、どうかはわかりませんが」
「そうだな。君は知らなくても、私を知っている誰かがここにいる可能性がある。そして私は他の生徒の居所を知っている」
「…そして僕は他の生徒を探している」
「利害は一致していると思うのだが…君はどう思う?」
「同感ですね」
それから先、彼は言葉を紡がない。
この流れだと、彼が「協力しないか」と言ってくると読んでいたのだが…彼は口を噤んだままだ。
まぁ、当然と言えば当然か。
この場では最も信用がない存在から、協力しようだなんて提案をしても…提案された側は受け入れないだろう。
仕方が無い。僕から誘うか。
博打ではあるが、多分…悪い方には転がらないだろう。
「…僕はこの学校の生徒ですが、何があるかわからないんですよね」
「と、いうと?」
「自分が知っているそれとは空気が異なるからです。言葉にはしにくいのですが…なんとなく」
「ふむ」
「単独行動より複数行動の方が望ましいでしょう。こんな縁ではありますが、協力し合いませんか?」
「…私でいいのか?」
「と、いうと?」
「君にはこの学校内に学友が待っているのではないかと思ってね。私より、その人物の方が信用できるのではないか?」
「ここにいる保証なんてないですからね。それに」
「…ふむ。それに、なんだろうか」
「最も疑わしく…最も信用できる人間を僕は逃す気は無いんですよ」
「…学外の人物だから信用できないけれど、同時に信用できる材料になり得る。ということだろうか」
「そういうことです」
協力の進言。現状の感情と、意志を伝えたら…もう一つ。
彼にもう一つ、伝えることがある。
「僕は今坂四季。日和見高校の二年生です」
「今坂君」
「名前で結構です」
「でも」
「貴方が苗字で、僕が名前呼びというのも…変だと思いますし」
「そうか?まあいい。わかったよ、四季。私の事は紘一と呼んでくれ」
「わかりました。紘一さん」
「さん付けもいらないよ」
「でも、貴方年上じゃ…」
「自分の年齢すらわからないんだ。君と同い年かもしれないし、年下かもしれないぞ?」
「それは…その可能性もあるのか…」
「だから敬語も無くすといい。信頼関係は、距離感を詰めて作り上げるものだからな」
「…堅苦しいのは苦手だし、そうさせてもらうよ」
自分の名前しか思い出せていない不思議な青年———紘一と手を取り、校舎内へ。
一人より、二人。
できることはきっと、増えている。