第七話 熊と遭遇
この森が龍の住む、不可侵の森だといっても、それは人間だけのことであって、森にはちゃんと小動物やら獣やらもいるのだ。
特に今は春だから、冬眠を終えた獣が餌を求めてうようよしているのである。
その中で、最も人間に危害があるものといったら、やっぱり熊だろう。幸か不幸か、そんな熊が、突然襲ってきたのだった。
列があるとして、一番熊が襲うのは、前か後ろか真ん中か、と問われたら――答えは真ん中。何しろ列の前後には屈強な兵士たちが何人もいて守っているのだから。
この時、あたしはちょうど列の真ん中に居てしまったのだ。
熊は、あたしの右側、すぐ真横に現れた。
余りに突然、しかもすぐ傍に現れたものだから、あたしは周りの女の子達より、一瞬どころか、二テンポも三テンポも反応が遅れた。
皆が一斉に金切り声で悲鳴を上げた時、ようやくあたしの頭は目の前にいるのが熊だということと、そしてその危険性に気づいたのだった。
カンペキに逃げる機会を逃してしまったらしい。
傍にいた女の子たちは大半があたふたと逃げた後で、一人残されたあたしは、本当に、本当に途方に暮れてしまったのだった。
しかも、どうやら今さらあたしは逃げる訳にはいかないようだ。
死んだふりをするという手があるが、こんなに――こんなにばっちり視線が合ってしまった今ではそれも出来なかった。
あたしは微動だにせず、熊とにらみ合った。
瞬き一つ、視線を少しでもずらせば、その場であの爪にばっさり殺られるのは目に見えている。
だから――外すわけにはいかなかった。
どくん。どくん。
鼓動の音がやけに大きく聞こえた。いつの間にか、周りの音も色彩も、消えていた。
視線のぶつけ合いが、しばらく続いた。
それはほんの少しの間だったのかもしれない。
けれどあたしには、その時間がものすごく長く感じられたのだった。
脂汗に似た感じの冷や汗が、ツーと首を流れるのが分かった。
ふと気づくと、首に接触している襟が、じっとりと濡れている。体内の熱を感じて、体全体が燃えるようだった。
誰か、助けてくれないかしら。祈るような気持ちでそう思う。
けれど、あたしはまた知っていた。
誰も助けてくれない。助けられない。
だって、周りにいるのは、今まで剣を握ったこともない若い女の子達だ。
ハラハラと見ているのが精一杯だろう。騒ぎに気付いた兵士か、もしくは王子と従者が来てくれれば、何とかなるかもしれないけれど、彼らがこの騒ぎに気づくまで、果たしてもつだろうか……。
あたしは、睨みつけながら、でも、そろっと手を剣の方へ延ばした。
熊に気どられないように、ゆっくりと。
―――誰も来てくれないなら、自分でやるしかない。
だって、あたしはこんな所で死ぬわけにはいかない。
龍の髭を手に入れるまでは……ううん、それ以降だって、しぶとく生きるつもりだ。
だから、熊に殺されるわけには、いかない。
……大丈夫よ。
大丈夫。できる。
剣の柄に手がかかる。あたしのしようとする事に気づいたのだろうか、急に熊がグゥウゥルと唸りを上げた。
慌てて柄を握り、そして、引き抜く!
次の瞬間、本能的に身体が動いて横に飛びのいた。
あたしの斜め上の紙一重な位置で何かがブンッとうなるような音が聞こえた。
目の端にあたしが今までいた位置に尖った爪のある腕を振り下ろした熊の姿が映る。
あああ、危なかった!
人間相手とはいえ、場数だけは踏んでいるので、とっさに身体が動いてくれたのが幸いした。
でなければ今頃は熊に一撃死させられていたところだ。
体勢を整えたあたしは、剣を構え間をおかずに来るであろう第二撃に備えた。
その時。
どこかでヒュンという空気を切る音が聞こえた。
と同時に、熊の右目に矢がブスリと刺さった。
「……え?」
ハッと息を飲む。とたん、色彩と、周りの音があたしに戻ってきた―――。
女の子たちの小さな悲鳴。
ざわめき。
熊の傷つけられた唸り。
それらが一斉に戻ってきた。
あたしは、矢が飛んできた方を目で追った。
そこには、馬上で弓を構えている格好の、王子がいた。
きっと騒ぎを聞きつけて、来てくれたに違いない。
ホッと心の一部が安堵する。
来てくれた。もう大丈夫。
まだ熊を倒したわけでもないのに、あたしはそんなことを思った。
目を矢で射られた熊はしばし狂おしそうに、唸りを上げていたけれど、その唸りに怒りを漂わせて、熊は今度は矢を射た方向、つまり、王子の方へ向きをかえた。
王子のいる場所はあたしと熊から離れていたけれど、手負いの獣は危ないかもしれない。
あたしは加勢しようと剣を構え、背を向ける熊に一撃を与えようと踏み出した。
が、後ろからぐっと肩を掴まれるのと同時に、抵抗する暇もなく、あたしの身体は後方に追いやられた。
「……え?」
数歩ほど、よろよろと後退する。
突然のことにびっくりするあたしの前に、黒い影が躍り出た。
藍色のマント、そして、耳に揺れる金の耳飾り。一瞬見えたのは、それだけだった。
あとは、あたしを庇い、熊の方を向いてしまっているから、分からなかった。
左側の離れた所にいる王子の前には、同じく藍色のマントを肩に羽織った美丈夫な男が、王子を守るように、剣を握って立っている。
その後ろで、王子は矢をつがえ、ゆっくりとそれを構えた。
数瞬の後、ヒュンという切れのいい音が空気を裂くように聞こえた。
熊のもう片方の目にぶすりと刺さる。
と、同時に、あたしの前にいた影が、掛け声もなく無言で跳躍した。
剣が木漏れ日に反射する。
バスッ。
何か、重いものを切ったような、鈍い音。飛び散る血。
でも、それは、地面に着地したその影が、あたしの楯となってくれて、届くことはなかった。
助かったの……?
あたしは、しばらくの間、何が起きたのか分からなかった。
我に返ったのは、目の前の大きな影が、あたしを振り返った時だった。
両耳に揺れる、細い棒状の耳飾り。
唇はほんのりと赤く、顔はうすく化粧をしているみたいだ。
あたしは、その人が女性だということにようやく気づいた。
美人で、だけどどこか中性的な感じがする。
背はあたしよりも高く、きっと王子よりも高いに違いなかった。
身体はマントと甲冑に覆われていてよくわからないけれど、きっととても鍛えられた身体をしているのだろう。
誰にいわれなくても、判った。この人が、皆の言っていた、王子の従者の女性なんだ。
こんなに美人で、腕も立つんじゃ、きっと誰も適わないや。
あたしは半ば、呆然と目の前の女性を見つめた。
そんなあたしの視線を受けて、その人はふっと微笑んだ。
あたしは思わずどきん。
だって、艶やかに、華がパァと開くように笑うんだもの。しかも、自信に溢れた、笑顔。
その笑顔をあたしに向けながら、その女性は、あたしの前から離れていった。
歩き方も颯爽としていて、あたしだけじゃなく、周りにいた女の子たちも、ボゥと彼女の後ろ姿を追っている。
彼女が視界から消えると、入れ違いのように、王子があたしに近づいてきた。
「シア。怪我はっ?」
馬上で、あたしを見下ろす王子の顔は、何だか青ざめているように見えた。
「う、うん。平気」
とあたしは答えながらも、心は先方に消えた、あの女性の方に向かっていて、心あらずの返事になってしまっていた。
その様子が判ったのか、それとも別の理由でなのか、王子は青ざめた顔をしながらも、怒ったように言った。
「あんな時は、真っ直ぐ向かわないで、逃げればいいんだっ。怪我したりしたら、どうするんだ?」
「王子?」
あたしは王子が怒るとは思わなかったので、びっくりして王子の顔をまじまじと見上げてしまった。
そこにあったのは真剣なまなざし。
「……もしかして、心配してくれ、た?」
「当たり前だろうっ。……頼むから、あんまり危ないことはしないでくれ」
王子は、そこでふと言葉を切って、眉をひそめた。そして、怪訝そうに手綱から片手を外し、お腹の所にやる。
「ど、どうしたの? お腹でも痛いの?」
「……いや。気のせいかな? ま、いいや。……とにかく、あんまり無茶なことはしないように。いいね、シア」
王子は、押しつけるようにそう言うと、あたしの返事も聞かずに、馬の頭を巡らし、さっさと走って行ってしまった。
その後を、控えていたもう一人の従者が追っていく。
後ろ姿を見送ったあたしは、訳がわからずに、周りの女の子たちの刺すような視線を受けながら、首を傾げてしまった。
昨日は、ドラゴン退治を頑張れなんて言ってたくせに、どうして無茶するな、なんて言うのよ? 矛盾してなぁい?
「何が、いいね、よ」
口に出してしまってから、あたしはハッとその場の雰囲気に気づいて、慌てて口を押さえた。
というのもみんな、あたしを嫉妬の混ざった、険しい目で見ているのだ。
王子様に直々にお言葉を頂いた上に、名前まで知ってたとあっては、心穏やかではいられないのだろう。
あたしは苦笑しつつ、首をすくめた。
それでも、そんなに嫉妬が凄くないのは、やっぱりみんな、あの人を見ているからなのだろう。
――王子の女従者。
奇麗で、背の高い、腕の立つあの人。
あの人と比べれば、あたしにその可能性があるわけないだから。だから、あたしに対する風当たりも、そう強くはない。
歩きだして少しすると、みんなあたしの事なんて忘れてしまったかのように、またお喋りを始めた。話題は、あの人の事だけだった――。
―――おばあちゃんのことだけ、考えていよう。
そう、思うのに、思っているのに。どうしても思いはあの人の所へいってしまう。
美人だった。王子のすぐ傍らにいて、腕も立って――誰だって、あの人だと思う。
あたしだってそう思う。
それでいいはずなのに、なんだか、すっきりしない。
何だか、くやしくて、悲しくて、淋しくて……すっきりしない。
「帰り、たい、な」
あたしは小さくつぶやいた。
このままここにいると、胸が潰れてしまいそうだ。
そう思うと、居たくなんてなかった。虚しかった。家に帰りたかった。
でも――そんな事はできない。
龍の髭を手に入れない限り、帰れるわけないのに、でもあたしは、今、心の底から、帰りたいと願った。




