第九話 蒼き森の龍 2
その声に、あたしは顔を上げた。
王子が、振り返って、あたしを見ていた。
龍のすさまじい咆哮の中で、どういうわけか、あたしは王子の声で聞こえて――――。
おばあちゃんのことが、なぜか思い出された。
おばあちゃん。
優しくて、明るくて、毅然としていた、おばあちゃん。
あたしのおばあちゃん―――。
いつの間にか、震えが止まっていた。
あんなに、止めても止まらなかったのに。足も動いた。
―――大丈夫。
あたしは自分に言い聞かせる。
大丈夫よ。大丈夫――――。
あたしに怖いなんてものは、ない。
おばあちゃんが、ボケで戻らなくなることに比べれば、このくらいどうってことない、もの。
そして、何より――――。
あたしはキッと龍を見上げた。
とらなくちゃ。何があっても、龍の髭だけは―――。
あたしは冷静になってじっと龍を見つめた。
観察すること。それが大事。
龍は、巨大な岩を間に身を横たえていた。
少し頭を上げ、あたし達を見下ろしている。
そのために、私が必要とする龍の髭を見ることはできなかった。
あたしはそれでも考えた。
あの巨大な龍から、髭を取る方法を―――。
大きな岩。
カーマイン色した龍の瞳。
やるしかない。
あたしは自分に対して大きくうなずくと、剣を手に取り、背中に背負っていた余計な荷物をその場に放り投げた。
そして、王子のいる方ではなく、道から外れた林の中に飛び込んだ。
入り組んだ木と木を巧みにすり抜ける。
こうして林の中に入ったのは、龍に見つからずにその龍の傍に立つ岩に近づく為だ。
大きく迂回をして、龍の視界に入らない所まで走ると、あたしは林から出た。
王子が、あたしに気づいた。何か、言おうとする。
けれど、あたしは唇に人指し指を当てて、それを制した。
大丈夫とばかりに、ぎこちなく、だけど微笑む。
ここまで来たら、やる以外にない。
結局、王子の言葉通りになってしまったようだ。
剣を邪魔にならないように背中にくくりつけると、あたしは龍のいる側の反対から、岩に足をかけて登り始めた。
この岩は山のように巨大だけど、幸い、急斜面ではないし、ごつごつしてて足場もある。
きっと上まで登り着けるはずだった。
龍が咆哮する。
地面が揺れる。
さっきより一層近くなったため、そのすごさは岩を隔てても、身に沁みた。
何度かすべりそうになるし、足を踏み外した。
だけど、だけど、あたしは四苦八苦して、時間をかけて、ようやく大きな岩の頂上にたどり着くことが出来たのだった――。
比較的足場の安定した所に足を掛けて、あたしは岩の上から見下ろした。
森が見えた。
龍の住む、この場所を中心として放射状に伸びた森が。
そして、その中心に座する龍の姿も。
龍の胴体は、岩と岩の間に出来た隙間に蛇行するように伸びていて、高い所からでも大きく、長く、そして巨大だった。
岩の上からは、龍の頭部も見えた。鱗と同じ色の角もあった。
背中に括りつけた、剣を手に取る。
大丈夫。龍は、まだあたしに気づいていない。
すうっ、と息を吸い、吐き出すと、あたしは眼下に王子の姿を探した。すぐに判った。馬上から、真っ直ぐあたしを見ていたから。
残念なことに、顔は遠すぎて見えない。
従者もいた。
龍の姿を見つけても、一歩も動こうとしなかった、あの人の姿もあった。
ここにきて、あたしは、ようやくわかった。
王子の姿を、遠くから見下ろして、初めて気づいた。
自分が思っている以上に、あの王子様のことを、気に入っていたことに―――。
初めて会ったのは、昨日。話したのも、昨日が初めて。
なのに、いつの間にかすっかり気になってしまっていた―――。
とらえどころがなくて、でもとても惹かれる人。
あの人、怒っているかもしれない。こんな無茶をしてって。
でも、もし無事に戻れたら、可能性のない告白ってやつを、してみてもいいかもしれない――――。