第一話 シアとおばあちゃん
「バイス」
まどろみの中で、そんな呼び声があたしの世界に入ってきた。半分も機能しない頭が、にわかに動きだす。
「バイス」
けれど、その声は、あたしの意識を目覚めさせるには至らない。だって――。
「バイス。バイス。起きなさいな」
どこかで、聞いたことのある声。でも、それは違う。あたしじゃない。
「バイス」
手が、あたしの体を揺り動かす。その頃になると、あたしの意識はだいぶ目覚めてきていた。でも、まだ目が開くほどじゃない。半分夢の中。だって、それはあたしじゃない。
「バイス。朝食の用意が出来てますよ」
違う。違う。あたしはシア。バイスじゃない。バイスは……そうだ。父さんの父さん、つまりおじいちゃんの名前だ。一年前に病気で死んでしまった、おじいちゃんの名前。
「――って、え?」
あたしは声と共に目を開けた。鎧戸の隙間からもれる朝日が、目を刺して、あたしは思わず細めた。そして、あたしはあたしのベッドの傍らに、誰かがいるのに気づいた。
「ようやく起きたね。全く、お前さんは寝起きが悪いんだから」
その声で判った。あたしは、バッと上半身を起こした。目の前には、皺だらけのおばあちゃんの顔。
「おばあちゃん……」
あたしはため息をついた。
「あたしは、シア。孫娘のシアよ」
少し大きな声で、ゆっくり、おばあちゃんに納得してもらうように、話す。
「シア? 孫?」
不思議そうな顔をしておばあちゃんは、あたしの顔をじろじろと眺めた。そして、しばらくの間考える仕種をした後、ぽんっと手をたたいた。
「ああ、シア。シアだね。そうだ、シアだ」
「そう、そうよ。シアよ」
死んだおじいちゃんと間違えてしまうなんて、てっきり進んだのかと思ってしまった。あたしはホッと安堵の息をついた。
――ーが。
「……で、どちらのシアさんかね?」
にこにこ。人のいい笑みを浮かべて、おばあちゃんはそんな事を言ったのだった。
あたしはがっくりとうなだれた。まだ朝だと言うのに、体中にどっと疲れを感じてしまっている。
そのうち思い出すとは思うけど……孫娘と死んだ夫を間違えるなんて、あんまりじゃない?
確かに女のくせに剣を振り回したり、男にはさっぱりなのに同姓からはやけにモテているみたいだけどさっ。
……ううん。しかたないんだ。おばあちゃんは病気なんだから。
内心ため息をつきながら、のろのろと起き上がって着替えると、不思議そうにあたしを眺めているおばあちゃんを促して、部屋の外に出た。
家は、このトゥーリオ国の王都で宿屋を営んでいる。お偉いさんを泊めるような、そんな大層な宿じゃなくて、国を訪ねてくる旅人や商人が止まる、いわゆる一般大衆の宿だ。だから、人を雇う余裕は、実を言えばあまりない。家族だけでやっているから、お客さんはまだ寝ている時刻でも、それより早く起きて、先に食事を済まさなければならない。仕事もたくさんある。
正しく、日と共に起きだす毎日だ。
台所へ行くと、すでに父さん母さん、弟のタオがテーブルを囲んで、坐っていた。
「ねぇ、姉さん。姉さんは王子様の花嫁コンテストには、参加しないの?」
挨拶もそこそこに、タオが席につくあたしに、身を乗り出して尋ねた。
「え? ……あ、今日だっけ?」
「そうだよっ。……でも、そんな事言ってるようじゃ、参加しないんだね。今度の内容なら、万一にも姉さんに可能性あるかもしれないのにね。これ逃したら、どうすんのさ」
一ヵ月ほど前から街や国のあちこちで出ている公布の内容が、あたしの頭をかすめた。
気がついたら、手がテーブルの上のナイフを握っていて――。
「……う。姉さん、ごめんっ」
あたしより二つ年下のタオは、まだ幼さの残る顔をサーと青ざめさせると、パッとテーブルの下に身を隠した。追い打ちを掛けようと、イスを引いたその時、おばあちゃんの呑気な声があたしの行動を止めた。
「エルセリオ王子は、もうそんな歳なのかい? 早いものだねぇ」
あたしとタオのやり取りを無視して、食事を始めていた父さん母さんの、スプーンを持つ手が、ぴたっと止まった。タオもテーブルの下から顔だけ出して、おばあちゃんを見た。
おばあちゃんの言う、エルセリオ王子というのは、現在この国の王様のことである。今回、もちろん花嫁を選ぶのは、その息子のシオン王子であって、エルセリオ王ではないのだ。
沈黙が広がった。
また進んだ――と言うのは、この場にいる全員の共通の思いだろう。複雑なあたし達の思いをよそに、おばあちゃんは無邪気な顔をして、誰ともなしに尋ねたきた。
「今度の花嫁選びの内容はなんだい?」
――答える声は、なかった。
あたし達家族は無言のうちに顔を見合せ、深い深いため息をついたのだった。
昔々に書いた話をほぼそのまんま載せてます。
世界の存続とか国をゆるがす大事件とかいうファンタジーの王道ではなくて、ライトなコメディ風ファンタジーなので、気楽に読んでください。