或る男性とパンティストッキングの夢
*家紋武範様主催『あの一作企画』参加作品です。(企画参加期間2023.9.9〜2023.9.18/旧作短編対象)
帰宅すると、ピザのデリバリーのチラシと一緒に、「試供品」のシールが貼られた未開封のパンティストッキングが一袋入っていた。
鉄筋コンクリートの安いアパートで、郵便受けは各部屋の玄関にしかない。
つまり、明らかに俺のところへポスティングされた。
玄関の扉を閉めて、誰もいない部屋に電灯と暖房をつける。
耳障りな冷蔵庫の音と、ファンヒーターが始動する震えだけが部屋に響く。
よし、とりあえず履いてみよう。
妻も子どもも彼女もいない俺の酔った決断力は素晴らしかった。
そっと、袋から取り出して、台紙に巻き付いたパンティストッキングをゆっくりと外す。
なめらかな手触り。
ちなみに、俺の職種はパンティストッキングの開発とか販売とか、そういうのとはまったく関係がない。
はいて捨てるほど代わりが存在するただのデスクワーク多めのサラリーマンだ。
ただ、少し酔っているだけだ。
そして、ちょっといいな、と思っていた女性社員の結婚祝いの飲み会から帰って、切なさと悲しみとあきらめで、もやもやしていただけだ。
……足が綺麗な人だったな。
付き合ってもいないのに、別れた彼女を思い出すように、飲み会の主役で笑っていた女性社員を思い出す。
俺はしんみりとした気持ちで、そっとベルトを外し、靴下も脱いだ。
暖かな風がファンヒーターから追い風となって流れてくる。
そっと爪先を伸ばし、柔らかなパンティストッキングに片足を突っ込む。
破けないように、ゆっくりと。
ああ、この感触をどう表現すればいいだろうか。
肌にぴったりとつきながら、それでいて程よい圧力。
俺は、今、優しさに包まれている。
ほんのりとしたあたたかさに、俺は涙ぐんだ。
翌日から俺はパンティストッキングを履いて、出勤するようになった。
独身のひとり暮らし。
誰にも気兼ねせずに、室内にパンティストッキングを干す。
買う時は堂々と。
ドラッグストアで、日用品を買う時に合わせて買うだけだ。
奥さんに頼まれて買っている。
そう思い込んでレジに並ぶだけだ。
ポイントは、決して俺のプライベートを知らない人だけのエリアで買うこと。
しかし、ここは大都会・東京。
誰も俺がどこの誰だか知りはしないのだ。
パンティストッキング生活を送り、一年。
夏の暑さも、秋の肌寒さも、パンティストッキングと共に過ごしてきた。
足の毛も剃った。
夏場の汗が、どうしても気になってしまったのだ。
しかし、その結果、女性たちの隠れた苦労と努力に気がついた。
脱毛をするには、夏の半年前からエステサロンに通わなければならない。
除毛として、足の毛を剃ればいいが、男性のせいか、とても伸びるのが早い。
その足を髭と同じように毎日剃る。
そうなると、肌荒れが気になってくる。
がさがさになると、パンティストッキングに穴が空いてしまう。
女性用ストッキングの一番大きなサイズでも、俺には少し小さく、何度か履いてみてようやく満足のいく履き心地になるのだ。
そのぴっちり感を守るためには、穴が開くことは厳禁だ。
どこか一ヶ所に穴が空くだけで、そこの皮膚が薄くなってしまったような喪失感をおぼえる。
うるつや素肌で、快適なパンティストッキング生活を。
文章にすると、たったこれだけだが、その維持の難しさよ。
俺は世の女性たちのたゆまぬ努力を知った。
そして、再び冬になった。
仕事を終えて、パンティストッキングをトイレで整えて、趣味の書店巡りをする。
寒波がやってくるから、今年はタイツに手を出してみようか。
いや、そうなると今のように靴下を上にはいて誤魔化すことが難しくなる。
ズボンの部分はいいが、革靴のサイズが合わなくなってしまう。
やはり、パンティストッキングが一番だ。
横断歩道の信号待ちで、そんなことをつらつらと考えていると、横断歩道に沿って車が爆走してきた。
あ、と思う間もなく、俺は車に轢かれた。
目を覚ますと、そこは病院で、戦場のように思えた。
痛みがひどい。
どこの何が痛いのか、分からない。
天井からは眩しいライト。
そのライトに照らされる俺は、手術服を着た医者たちに囲まれて、横たわっている。
自分の状態も、治療の過程も分からない。
ただ、びしゃびしゃに濡れていて不快だったズボンが脱がされた感覚は分かった。
たぶん、ものすごい出血をしているんだろうな、と妙に冷静に思った。
そして、ひやりとした感触が腰のあたりに。
視線を腰のあたりに立つ手術服の人に目を向けると、視線が合ったことに気づいたのか、その人は、
「切りますよ」
と、端的に言った。
その後、今まで俺の下半身を覆っていたピッタリとした皮膚が切り裂かれ、剥がれていく感触を知った。
痛覚のない薄皮が一瞬で消えた。
ああ、大切な何かが奪われてしまった。
喪失感が俺の全身にじわじわと浸透していった。
もう目を開けていることすらも、億劫だ。
そして、再び俺は意識を手放した。
次に目を覚ました時は、静かな病室だった。
ひどく体が重かった。
手術をした医師が色々と説明をしてくれたが、ほとんどが頭に入らなかった。
医師もそのことに気がついたのか、途中で説明をやめて、
「……あなたの治療をするために、犠牲になってくれたパンティストッキングのためにも、元気にならないといけませんよ」
と、優しい声で言った。
俺はそれを聞いて、涙があふれて止まらなくなった。
医師は、忙しいだろうに、明日また説明に来ると言って、病室を去っていった。
残された俺は、ただただ涙を流した。
失われたパンティストッキングを思いながら。
それから、何度か医師が診察に来るたびに、少しだけ雑談をするようになった。
お互いに似たような年齢だったからだろうか。
俺は、自分のパンティストッキング姿を見られている医師に、何も取り繕うことなく、のびのびと会話をすることができた。
思えば、今まで人と話す時は、常に自分をよく見せよう、弱いところを隠そうと、余計なことばかりに注意を向けていた。
それを取り除いて、俺自身が、ただ俺の言葉で話し、相手の答えに注意を向けるようになった。
すると、相手も俺の関心がきちんと向かっていることを感じ取るようで、なんでもない会話でも弾むようになった。
同じ病室の人たちに、決まった時間に談話室で会う入院仲間たち。
俺は今までの自分の世界が、どれほど閉ざされたものであったのか、改めて知ることが出来た。
これもすべてパンティストッキングのおかげだ。
今はもう失われてしまったが、ぴったりと俺に寄り添い、弱い俺を守ってくれていた。
その身をていして、俺を守ってくれたパンティストッキング。
退院の日、医師は血だらけになったパンティストッキングが入ったビニル袋を差し出して言った。
「このパンティストッキングは、とても丁寧に履かれていました。
仕事の忙しさと生来のせっかちな性分で、私はいつもパンティストッキングに穴をあけてしまうんです。
……このパンティストッキングのように、大切にしてもらえたらな、と思ってしまって」
「先生……」
「いえ、医師が患者に言うべきことではありませんでしたね。忘れてください。
退院おめでとうございます。
それではさようなら」
俺は急いで白衣の袖を掴んだ。
パンティストッキングの喪失によって、ひと皮剥けた俺は、勇気を出して言った。
「あの、俺こそ、あの時、パンティストッキングにハサミを入れたあなたの目が忘れられなかった。
人生で、世の中で、一番無様な姿を見られていたから、もう、この想いは告げられないと思っていたけれど」
俺はビニル袋越しに、パンティストッキングを握りしめて言った。
「俺は、あなたのことが好きです。
このパンティストッキングのように、最後まであなたを守らせてください」
「………はい!」
こうして俺は女医と結婚した。
………と、いう夢を見た。
ぼんやりと夢の余韻から抜け出せない頭のまま、俺は布団から出て、玄関の郵便受けを開く。
中には、朝刊紙と「試供品」と袋に印字されたパンティストッキング。
俺はおもむろにファンヒーターのスイッチを押すと、ゆっくりとパジャマのズボンを脱いだ。
「待ってろよ……女医!」