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そこにあったのは、死体の山と血液の川。そして、純然たる死の匂い。
怒号と剣撃が飛び交う戦場に一陣の風が吹いた。
ディノはそんな地獄のほぼ中央、自陣と敵陣の間にて無数の敵に囲まれていた。
今回の戦いは敗色濃厚であり、味方のほとんどは撤退を始めていた。ディノと彼が率いる部隊は他の味方を逃がす為に殿を務めていた。だがそれも芳しくない。
奇跡的に死者こそ出ていないものの、後数分もすれば全滅してしまうだろう。
「ディノ、ワリい報せだ」
ディノの部隊の中でも一番の年上であり、古くから部隊を支え続けてきた男は、苦虫を噛み潰したような顔で言う。それに対してディノは努めて明るく返した。
「今の状況以上に悪いことがあるってんなら、是非とも聞いてみたいもんだね」
「……もう物資が尽きた。保存食も医薬品も全部だ。あとは武器防具と俺達の命くらいしかねえ」
それは分かりきったことであった。だが同時に聞きたくもないことであった。
「最初は俺にしとけ。俺はもう充分生きた」
「バカ言うなよ!こんな状況、剣なんか使わなくてもどうにでも――」
「こんな時代に、何の力も持たねえ俺がここまで生きてこれたのはお前のお陰だ。だから最後くらい、お前に恩を返させてくれよ」
男はそう言って、ニカッと笑みを見せた。
それが無理矢理作られたものだということは、誰の目から見ても明らかだった。
それを見た剣は、たまらずディノに声をかける。
「ディノ、ここは……」
「ああ、分かってる」
最初から分かっていた。それが最も多くの仲間を救う方法であることは。
ただ目を背けていただけなのだ。残酷な真実か、あるいはディノがこれから歩む未来から。
ディノは男の首筋に剣先を沿わせた。剣に刃は確かに存在しているはずなのに、決して血が流れることはない。ディノはまるで目の前の男が血の通わないただのモノであると言われたようで、堪らなく悔しかった。
だからディノは、男の命の鼓動を、あるいは生きていた証を感じ取りたくて、こんなことを言った。
「言い残しておきたいことがあったら、俺が伝える」
「……後のことは、頼んだぜ」
「……ああ、任された」
最後の最後まで、残された者を気遣ったその言葉。ディノとしては恨み言でも言ってくれた方が気が楽だったが、彼の気遣いを不意にする気はなかった。
目をつぶり、言葉を紡ぐ。
「我……力を欲する者なり。ここに生贄を捧げん」
ディノはそっと、剣を離した。
はた目から見れば、何が起こったのか分からなかっただろう。だが、男は自分の中から何か大事なものが抜け出ていくのを感じていた。それと同時に剣が淡い輝きを放った。
ディノは男に背を向け、敵の群れの中へと突っ込んでいった。
その時にディノの耳が拾ったのは、誰に向けたものでもない、男の最後の言葉。
「ああ、ちくしょう。これで終わり、か」
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「おい、大丈夫か!しっかりしろ!」
人の争いなど知らぬとばかりに豊かな森の中を、悲痛な叫び声がこだまする。
それを上書きするのは獣の唸り声。辺り一面緑に囲まれているにも関わらず、その声の先だけは赤く染まっていた。
本来そこは退却経路であり、危険などないはずだった。そこに突如として現れたのは、人類の天敵たる存在、すなわち魔物。ディノの部隊はその凶刃に襲われた。
「隊長、俺はもう、駄目みたいです。だから、せめて……」
「言うな!まだ生きれるだろ!俺が背負って国まで連れてってやる!だから……」
「確かに、まだ、生きれるかもしれません。でも、足手まといを連れてたら、ペースは落ちます。もう食料は、ほとんど、ないんですよ?」
倒れ伏す彼が息も絶え絶えに伝えたのは、確かな事実であった。
物資のほとんどは剣に食いつくされており、ディノの部隊は町へと着くまで、ほぼ飲まず食わずで進まなければいけなかった。そんな状況では、一日遅れるだけでも命に関わるのだ。
「けど、俺は……」
「隊長、俺は、感謝してるんです。魔法使いの家系に生まれて、魔法が使えなかった俺を、見捨てないでくれた、あなたに。だから、せめて、あなたの手で……」
彼は目の端に涙を浮かべて、それでも尊敬する隊長にカッコ悪いところは見せられないとばかりに、微笑みを湛えた。
「お主は男の最後の意地を踏みにじるつもりか?」
そんな剣の言葉に背中を押されて、ディノは剣を抜いた。
そのなけなしのプライドを守る為に、涙が零れ落ちない内に終わらせるべきだ、と。
「お前のことは忘れねえよ」
「あなたの記憶の、片隅にでも残れたら、俺は満足ですよ」
「我……力を欲する者なり。ここに生贄を捧げん」
彼の胸元に突き立てた剣は、微かに震えていた。
その震えが彼のものなのか、ディノのものなのかは分からない。
唯一確かなのは、ディノが彼の涙を見ることはなかった、ということだ。
――どこかで、涙が落ちる音がした。
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それは、まだこの国が戦いで溢れていた頃の話。
――いやだなー、なんで戦争なんかしなくちゃならないんだろう。
――泣いていいのは悲しい時だけ。なんにせよ、今日は勝ったんだから泣いちゃダメだよ。
――私達なら、絶対勝てるよ、この戦い。だから、私がいなくなっても泣かないでね。
故国の為、仲間の為、愛する者達の為に皆がその命を燃やしていた時代のこと。
――俺、父親がいなくって。母ちゃんが女手一つで育ててくれて、だから母ちゃんには楽させてあげたいんです。
――これですか?手紙書いてるんですよ。しばらく出せなくて、もう何枚も溜まっちゃってるんですけどね。
――母ちゃんに、ごめ……いや、育ててくれてありがとうって、伝えてください。
彼等はさらなる力を渇望し、その命を生贄として捧げた。
――僕の命を救ってくれて、ありがとうございます。お名前は何とおっしゃるのですか?
――僕はこの国が好きです。だから、この国を守るための力が欲しいんです。
――僕の命、ディノさんに預けるので……この国を勝たせてください!
その顔は、決意を秘めていた。
――俺はお前を信用していない。味方を殺している可能性のあるやつと一緒に戦えるか。
――ふん、俺を助けたことで、貸しでも作ったつもりか?
――俺は未だにお前を信じたのではない。だが俺は家族と仲間を守る為に、お前に賭ける。
その顔は、悲しみが隠されていた。
――大丈夫だよ、わたしが戦うんだからもうその剣に頼る必要はない。保証するよ。
――ほら、見てよ。敵軍が私に恐れをなして逃げていってる。流石わたし!
――ごめんね、約束守れなくて。大丈夫、ディノは何も、悪くない。
その顔は、後悔が詰まっていた。
――ディノさん、ディノさん!稽古つけてくださいよ!
――見てください、特訓の成果ですよ!これであなたと一緒に戦えますよね?
――あなたを支えられるくらいに、強くなりたかったなあ。
それは、ある男に捧げられた遺言。
数多の犠牲を力に変え、敵軍を死体の山へと変え、自らを死神へと変えた男への、思いやりと覚悟に満ちた恨み言。
絶望に対して死神は、決まってこう答えた。
「我、力を欲する者なり。ここに生贄を捧げん」
――果たしてその絶望は、生贄のものか、それとも死神のものなのか……