25.5
余章 彼女の愛の証明法
彼女が生まれたグラトニー家は、フロリア領を治める貴族であった。
彼女は、その家にとって望まれた子ではなかった。なぜなら、当主ととある魔法使いの間に生まれた隠し子だったからである。
なぜ魔法使いとの子供を隠さなければならなかったのか、それは当時がダーム帝国と戦争中だったことに起因する。
戦争のために、アチェスタには多くの魔法使いが必要だった。魔法使いを生み出す最も確実な方法は、魔法使い同士が子をなすことである。片親だけが魔法使いでも魔法使いが生まれることはあるが、両親ともに魔法使いの時よりも確率は下がる。
その為、アチェスタ王国の魔法使いは魔法使い同士で結婚する義務があった。
それを、あろうことか貴族が破ってしまったのだから批判は免れない。
そうでなくとも敵国であるダーム帝国は魔法使いの国だ。その為、魔法使いは敵であるとする風潮がアチェスタ王国には流れていた。
魔法使いの機嫌を損ねダーム帝国へと渡ってしまうのを防ぐため、表立って魔法使いと事を荒立てようとする者は少ないが、アチェスタ王国では魔法使いは半ば差別対象のようなものだった。
そんな魔法使いと、誇り高きアチェスタの貴族の間に子どもができてしまったなどというのだから大問題だ。
グラトニー家は、魔法使いである彼女の母親に堕ろしてしまうように言ったが、母親は頑として譲らなかった。
そうして、彼女は生まれた。そうして、彼女は必要のない人間となった。
なぜなら、唯一彼女の生を望んだ母親はもともと体が弱かったせいもあってか、彼女が生まれてすぐに死んでしまったからだ。
それでも彼女が殺されなかったのは、彼女の存在がいつの間にやら他の貴族にばれてしまったからだ。それがどんな子であれ、生まれた子供を殺すのは外聞が悪い。
その為、彼女は不必要とされながらも生き続けた。
彼女はグラトニー家当主の住む屋敷のそばにある小さな離れで、最低限の使用人に育てられていた。
彼女が物心つく頃には、彼女は自分が誰からも必要とされていないのだと理解していた。
使用人たちの、まるで物を見るかのような目、たまに会う父親の、心底忌々しいものを見るかのような目、彼女で遊びによく来る兄や姉の、嘲笑するかのような目。それらすべての目が、彼女を必要としていなかったからだ。
彼女は、不必要な存在である自分を何度も呪ったが、状況は変わらなかった。
彼女が七歳になったころ、転機が訪れた。彼女は魔法が使えるようになったのだ。
きっかけは、彼女が兄たちに大事にしていた人形を投げ捨てられた時だ。
それは彼女の五歳の誕生日に父親から贈られた、とされている物であった。
もちろん、あの父親が自分にそんなものを送るはずがないと理解してはいたのだが、まるで自分が父親に大事にされているかのような気分になれるので、お気に入りのものだった。その二年の間に兄たちに何度も何度も投げ捨てられており、元の姿は見る影もないが、それでも彼女にとってとても大事なものだった。
そうして、その日もいつものように兄たちに人形を奪われそうになっていた時のことだ。
ふと気がつくと、周囲から音が消えていた。あたり一面を、白い氷が覆っていた。離れも、庭も、そうして兄達も、すべてが氷で閉じ込められた。
唯一凍り付いていなかった兄の手には、人形が握られていた。彼女はそれを兄の手からそっと取り外すと、固く抱きしめた。
彼女の父親はそれを見て、怒りもせず、喜びもしなかった。
一歩間違えれば大事な子供たちが死んでしまっていたかもしれないというのに、彼女には、何の処罰も下されなかった。
なぜなら、父親は恐れていたからだ。彼女のその異常なまでの魔法使いとしての力を。
本来魔法使いが魔法を使えるようになるのは十歳前後であり、七歳でその才能を見せるのは一般的に考えても珍しいことだった。更に、発現したての魔法使いというのはせいぜい一般的な成人男性と同程度の力しか持たないといわれているが、彼女の力はもうすでにそこらの魔法使いのレベルにまで達している。
その力を恐れた彼女の父親は、彼女を遠ざけることにした。
そんな事情を全く知らない彼女は困惑した。
突然自分に向けられる目が変わったからだ。それは、恐怖と侮蔑。まるで化け物を見るかのような目だった。
しかし、その困惑も長くは続かなかった。
彼女が軍に預けられることが決定したからである。七歳で軍部所属というのは異例のことだったが、彼女の父親がその権力でもって押し通した。
軍での生活は、彼女の価値観を大きく変えた。そこでは、彼女が魔法を使うたびに誰かが褒めてくれたからだ。
彼女のその才能に、多くの人が期待し、彼女のその未来に、多くの人が夢を見た。
彼女はそこで初めて、誰かに必要とされるという喜びを知った。
そして停戦中だった戦争が再び始まった。
彼女もまた、十歳という若さでありながら戦場に駆り出された。彼女は、さらに自分が必要とされる場所があるのだと歓喜し、そして実際の戦場を見て絶望した。
ついさっきまで一緒に笑い合っていたはずの同朋が、仲間が、次々と死んでいく。自分の魔法を褒めてくれた上司も、出自を気にせずに仲良くなってくれた友達も、一緒に競い合った好敵手も、みな一様に死んでいった。
彼女はその悲惨な光景に打ちひしがれ、戦場へ向かうのが怖くなっていた。
そしていつしか、戦場に赴かなくなった。
初めのうちは彼女の年齢を鑑みて許されていたが、徐々に戦況が激化してくると、大きな力を持った魔法使いである彼女が戦場に立たないというわけにもいかなくなってくる。
そして、半ば無理やりに、彼女は再び戦場に足を踏み入れた。
彼女は恐怖を必死に押し殺して戦った。戦って、戦って、戦い続けた。殺して、殺して、殺し続けた。
時にその力を抑えきれないせいで味方すら殺しながら、彼女は戦い続けた。
いつの間にか、彼女は何も感じなくなっていた。
誰かに必要とされているという事実が、それだけが彼女の動かし続けていた。
誰かに必要とされるまま、彼女は殺し続けた。
誰かに必要とされるままの笑顔を振りまき、誰かに必要とされるままに誰かを守る。
そうして、しばらくの時が過ぎた。
彼女は危機感を持っていた。
これまで劣勢続きだった戦況が、ある一人の少年によって覆され始めているという。
それ自体は、彼女にとっては至極どうでもいい出来事だった。
しかし、もしもそのまま戦争が終結してしまったら、自分はいったいどうなるのだろう。
実家からは必要とされておらず、戦争が終結しては軍からも見放されてしまうかもしれない。そうすれば、自分はいったい誰から必要とされるのだろう。
一度誰かに必要とされる喜びを知った彼女には、もう誰にも必要とされないあの頃に戻ることは考えられなかった。
――もうこのまま、戦争が終わらなければいいのに。
彼女はそんな恐ろしいことを考え始めていた。そして、その思考の恐ろしさに気づけないほど、彼女の心は壊れていた。
だが、戦争が終わらないことを願いつつも、戦いにおいて手を抜くことはしなかった。
手を抜いてしまえば、もう自分が必要とされなくなるかもしれないと思ったからだ。
そして、彼女の願いに反して、戦争は徐々に収束していった。
彼女は自分が必要でなくなってしまうのを恐れていた。それと同時に、彼女は疲れていた。
もう何度も何度も悩み続けることに疲れていた。
そんな時、ある噂を聞いた。
なんでも死神という男の周囲にいる人間は、例外なく死んでしまうらしい。
本人が殺しているという噂もあれば、偶然のいたずらだという噂もあった。
だがそんなことは彼女にとってどうでもよく、死神の周りにいると死ぬというその一点だけが彼女の心を惹きつけた。
自死は選べない。それは自分を必要としてくれている人たちへの裏切りにほかならない。
だから彼女は近づいた。
もしかしたら自分のこの空虚な人生を終わらせてくれるかもしれない死神に。
その死神は、想像していたよりもずっと普通の男だった。
鍛えられていることは一目でわかるが、首を垂れてうなだれているその姿に覇気はなく、死神というほど恐ろしげな感じはしない。
あんな男に、本当に人殺しができるのだろうか?
いや、ひょっとしたら常に死地に送られるような不運が彼の力なのかもしれない。そこから一人だけ戻ってきているのだから幸運といえるのかもしれないが。
いずれにせよ、彼に頼るくらいしか今は手がないのだ。
彼女はそう思って死神に話しかけた。
――ねえ、あなたが噂の死神さん?
死神は、明らかに彼女と話したがってない様子だったが、彼女は構わずに頼みごとをした。
――あなたの力で、私を殺して
死神は、当然のようにその依頼を断った。
彼女は、死神といわれているくらいだから殺人狂か何かなのだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
彼女は死神のことをもっとよく知るために、付きまとった。死神に殺してもらうために付きまとった。
死神は、彼女のことをあまりよく思っていないようだった。
死神は自分を必要としていない。ならば死神に殺されるためにも嫌われておいた方がいいだろうと、思いつく限りの嫌がらせをした。
しかし彼女には何も起こらなかった。
死神は邪険にすることも殺すこともせずに自分がそばにいることを許している。
彼の周りにいても何か危険が訪れるということもない。
もしかしたら死神というのは、彼の功績に嫉妬した者が作ったただの噂なのかもしれない。彼女がそんなことを考え始めたころ、あることに気づいた。
彼が時々独り言を漏らすのだ。
最初はただの独り言だろうと思ったが、何度も何度も続き、さらにそれは会話のようにも聞こえる。
彼女が嫌がらせも兼ねてしばらく問い詰めると、死神は観念して話した。
生贄の剣、意思を持ち、生贄を喰らって力を得る剣。
その剣の力を聞いた彼女には、ある仮説が思い浮かんでいた。つまり、なぜ彼が死神と呼ばれているのかという仮説。
それを確かめるために、彼女はその輝かしい戦績を利用して、軍上層部を問い詰めた。
最初は渋っていた上層部も、教えてくれないのならばもう戦わないという条件を付けると、慌てて語りだした。
それは単に死神が誰を殺してきたのかという事実だけを語るものだった。
それは、何かとても悲しくて恐ろしいことのはずだった。
けれど彼女は分からなかった。彼が何を考え、何に絶望し、何を大切に思っているのか、まったく分からなかった。
昔だったらその気持ちを想像することができたはずなのに、今は全く分からなかった。
そして、自分のことすら、分からなくなっていた。
なぜ彼のことをこんなに知りたがっているのか、なぜそんなことのために戦わないなどと言い出したのか。自分にとって戦いは唯一他人から必要とされるものなのに、なぜそれを捨てようとしたかとが分からなかった。
そして、そんなことに思考を支配されているから、戦闘に身が入らなくなっていた。
彼女は迫る魔法を避け切れずに、彼に守られた。
そんな彼に、彼女は問うた。
――どうして、守ったの?あなたは私が嫌いなのだと思っていたのだけど
――別に、嫌いだからってだけの理由で隣にいるやつを庇わねえほど、落ちぶれちゃいねえよ
その言葉を聞いて、彼女は途端に自分が悍ましく思えた。
彼はきっと、望んで生贄を作り出したわけではない。
誰一人として殺したくないのに、それでも殺すしかなかったから殺していたのだ。
それに比べて、自分のなんと悍ましいことか。
自分はただ殺し続けた。何を思うこともなく、時に味方を殺してしまっても何も感じることなく、ただ殺し続けた。
挙句の果てに、この戦いがずっと終わらなければいいとすら思ってしまった。
自分のことだけしか考えられてない。まるで怪物だ。
彼女は数年ぶりに自己嫌悪に陥っていた。
そして彼女は、もっと彼のことを知りたいと思って、こんなことを聞いた。
――あなたは、何のために戦ってるの?
――分からない。昔は、大事な人を守るために戦っていたはずなのに、今は大事な人を殺してる。”どこかの誰か”を守るために敵を殺して、”どこかの誰か”を守るために大事な人を殺している。だからいつか、ただ敵を殺すためだけに味方を殺す、そんな怪物になっちまうのが怖えんだ
彼はやはり苦しんでいた。
彼女はそんな彼の力になりたいと思った。たとえ彼に、いや誰からも必要とされなくなってしまっても、彼を支え続けたいと、そう思った。
けれど、寄り添うだけではだめだ。彼に寄り添ってしまえば、それは彼にとってはただ生贄が増えてしまっただけである。
だから彼に決して好かれず、彼を苦しみから解放する術が必要だった。
そして彼女は、考え抜いた末にこんなことを言った。
――それなら、私のために殺しなさい。私のために”どこかの誰か”を殺す、それって素晴らしいことだと思わない?
彼女は彼に、ただ自分のために戦ってほしかった。自分のためならば、”どこかの誰か”のために戦うことと違って、目的を見失ってしまうようなことはないだろう。
だからその為に、”どこかの誰か”のために戦っている現状を変えなければならなかった。
そして、自分は彼にとって敵でも見方でもない守るべき“どこかの誰か”だ。
つまり自分が嫌われれば、彼はもう”どこかの誰か”のために戦わなくなるのだはないか、そんな希望的観測に基づいて、その言葉は発せられた。
そして、目論見通り彼女は嫌われた。彼が露骨に彼女を避け始めたのだ。
その事実に、少しもやっとしたものを感じながらも、彼女は喜んだ。
しかし、すぐに予想外のことが起こってしまった。
彼が敵の罠にかかったのだ。彼は数多くの魔法使いに囲まれ、逃げられそうもなかった。
彼女はその光景を隠れてみていた。
彼に避けられ始めてから、彼女は彼と接触しないようにしつつも、彼の様子を側で見守っていた。そしてそれは戦場においても同様だった。
彼女は迷った。
ここで飛び出してしまえば、これまでのことが台無しになるかもしれない。
しかし、彼が敵の攻撃に捕らえられそうになっているのを見て、彼女はいてもたってもいられなくなってしまった。
敵を凍り付かせ、彼を助けるために獅子奮迅の活躍を見せたが、それでもダメだった。
彼女は敵の魔法を受け、倒れてしまった。
――なんで、なんで俺を守った⁉
それは、彼女自身でもわからないことだった。
なぜ自分は必要とされたわけでもないのに彼を助けようとしているのか、なぜ自分はこんなにも彼に固執しているのか分からなかった。
けれど、自分の気持ちだけははっきりしていた。
彼をこの死地から救い出さなければいけない。
その為には生贄の剣を使ってもらう必要がある。
嫌われている自分では、生贄として足りないかもしれないけれど、それでも何もしないよりはましだろうと、そう言い聞かせて。
だからどうにか言葉を尽くして、彼に剣の力を使わせようとした。
しかし、彼は――
――いやだ。俺はお前が嫌いだ。唐突で、嫌みな奴で、自分勝手で、そんなお前が嫌いだ。だからお前は俺にとって、”どこかの誰か”なんかじゃねえよ。だから、お前の頼みなんか一生聞いてやんねえ
彼は彼女を殺してはくれなかった。彼は自分の力だけで、その窮地を乗り越えてしまった。
そんな彼の姿が、絶望と逆境に飲み込まれそうになりながらも前へと進むその姿が、どうしようもなく格好良くて、彼女は彼に恋をしていた。
――無茶をしたものね。どうしてこんなことしたの?
――大事な人のためでも、”どこかの誰か”のためでも、もちろんお前のためでもねえ。俺は俺のために戦ったんだよ
――あなただって自分勝手じゃない
――俺はもう迷わない。俺は俺のために、もう生贄は使わない!使わずとも守ってみせる
それは二人の約束だった。大事な大事な約束だった。
その日から急速に、二人の仲は縮まっていった。やがて二人は夫婦になり、子どももできた。戦争は終わり、彼女の人生は幸せに満ちていた。
だが彼女には、ある不安があった。
結婚しても、子どもが大きくなっても、その不安はぬぐえなかった。
彼は本当に、幸せなのだろうか?
他人の気持ちはどうやったって分からない。彼女はそんな当たり前のことに悩んでいた。
彼女は、戦闘能力以外の面で他人に必要とされた経験がない。
話しかけたのも自分から、告白をしたのも自分から。ディノはただ、断り切れずにずるずるとこの関係性を続けているだけなのではないか?
そんな不安がぬぐえなかった。
こと恋愛面において、彼女は彼以上に臆病だった。
あるいはそれだけ自分に自信がなかったといってもいい。
彼女の幼少期の経験が、戦い以外に関しての自信を奪っていた
そして、あの日がやってきた。
彼女は愛する娘を助けるため、解放軍の本部へと突入した。
そして、炎に包まれる中で、自らと、その家族に迫る死の音を聞いた。
自分はいい。だが、家族が死ぬのだけは承諾できなかった。
だから彼女は、彼に頼んだ。
生贄の剣の力を使うことを。
やがて彼もまた、その力を使うことを決意してくれた。
――リア、俺は……
――アリシアを、頼んだわよ
自分の中から何かが抜けていくのが分かり、剣が今まで見たこともないほどにまばゆく輝く。
ディノはそれを振り、世界は真っ二つ。
その幻想的な光景を見たリアが思ったのは三つ。
――ああ、私の家族が守られてよかった
――約束を、破らせてごめんね
――よかった、ちゃんと彼は幸せだったんだ