22.5
自分は両親に愛されていない。
彼女は物心ついたころからそう考えていた。
父親はいつも忙しくしていて、まともに会話をしたのは数えるほどしかないし、母親は家にはいたが、それでも事務的な会話以外はほとんどしたことがない。一緒に遊んだことはなかったし、食事も別々にとっていた。
特に不自由することもなく生活できているだけ幸せなほうだとは思っていたが、それでも両親と一緒に楽しそうにはしゃぐ他の家の子供たちが羨ましくないわけじゃなかった。
彼女はある小さな村に住んでいたが、その村には奇妙な風習があった。それは年に一度、神様にお供え物をするというものだ。
それもただのお供え物ではない。人間を捧げるのだ。
捧げられる人間は神様が決める。その神様の声が聞こえるのは巫女様だけであり、お供え物に選ばれた人間がその後どうなるのかは巫女様しか知らない。
村の大人は神様の一部になって村の発展の礎となるだとか、神様と家族になって永遠に幸せになるだとか、色々なことを噂するが、真実を知っている者は誰もいなかった。
この村は異常だ。そんなことは誰もが分かっていた。
だが、神様の怒りに触れるのが怖くて、誰も逆らおうとは思わなかった。
彼女はまだ幼かったが、自分の住む村が普通ではないことは理解していた。だからこそ彼女は村の人間に積極的に関わろうとしてこなかった。
両親の愛を受けていないというコンプレックスから、同年代の子供達とうまくいってなかったこともあり、彼女は村で孤立していった。
そんなある日、家に知らない大人たちがたくさんやってきた。
ある者は同情の目を、ある者は憐憫の目を、ある者はやりきれないような目を向けて向けて彼女を見ていた。
そんな中、どこかほっとしたような顔をしている者がいることに彼女は気づいていた。
その大人達の表情を見て、彼女は何が起きたのか、そしてこれから自分の身に何が起こるのかを察した。
彼女はお供え物に選ばれてしまった。
自分は選ばれないだろうと、無意識に、無根拠に確信していた彼女は途端に怖くなった。
まだ死ねない、死にたくないと、怖くなった。
大人たちはそんな彼女に声をかけた。怖くないよ、ただちょっと神様のところに遊びに行くだけだよ、と。
大人たちは彼女を家から連れ出し巫女様の家のうちの一室に軟禁した。
彼女は考えた。どうしたらここから逃げ出せるか、どうしたら生き残れるのか。
窓はなく、唯一の扉は開かず、何か使えそうな道具もない。
それでも彼女は、自分が死なないために考えた。
そんな時、両親が訪ねて来た。
彼らは言った。
大丈夫だよ、私たちが必ず助けに来るからね。だから少しの間ここで待っててね、と。
ああ、この人たちも同じなのか。自分がここから逃げ出さないように、こんなことを言っているのだ。甘い言葉で誘惑して正しい判断をできないようにしているのだ。
彼女はそんな風に考えた。
だからよりいっそう、逃げなければと思った。
そして再び扉に手をかけ――扉が開いていることに気づいた。
なんで、だとか、いつから、だとか、そんなことは考えなかった。ただただ、逃げなければ、と思った。
そうして走った。ただがむしゃらに、ただ全力で、ただ必死で逃げ続けた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて、そうして――捕まった。子供の足で、そう遠くまで逃げ切れるはずがなかったのだ。
彼女の逃走劇は、一時間とたたずに幕を下ろした。
そうして、捕まった彼女が巫女様の家で見たのは、血に濡れた部屋。真っ赤に染まったその部屋に倒れていたのは彼女の両親だった。
どうして、と混乱する彼女の耳は、彼女を捕まえた大人たちの会話を拾っていた。
それによれば、彼女の両親は彼女を助けようとしたらしかった。
面会したときに部屋の鍵を開けておき、馬車を用意して夜逃げの準備をしておき、あらかじめ開けておいた窓から侵入して、彼女を迎えに来たらしい。
だが、彼女が一人で逃げてしまったがゆえに計画は失敗し、茫然としていたところを警備に見つかり、裏切り者として殺された。
もともと彼女の両親も彼女と同じようにこの村に不信感を持っており、娘が大きくなったら村を出ようと思っていた。馬車を持っていたのも、もうすぐこの村を出ていくつもりだったからである。忙しく働いていたのも、お金を貯めるため。
彼女の両親はただ口下手だっただけで、彼女のことをしっかり考えてくれていたのだ。
彼女を、愛していたのだ。
彼女はそれに気づくことができずに、両親の愛を信じ切ることができずに、逃げ出してしまった。
しばらくの間、彼女は何も考えることができなかった。
次に気が付いた時、彼女は暗い部屋の中にいた。
その部屋には巫女様と呼ばれる老婆が一本の剣を持って立っており、そのほかには人はいない。どうやらその剣が神様の正体らしく、巫女様はその剣に向かって何事かをぶつぶつとつぶやいていた。
老婆は、彼女の首筋に剣を押し当てた。
本来であれば首から血が流れてくるはずなのに、彼女は血を見ることも痛みを感じることもなく、ただ剣の冷たさのみを感じていた。
それを見て彼女は、もしかしたらこの剣は武器ではないのかもしれない、と考えた。
丸腰の老婆が一人。その考えに至った途端、彼女は老婆にとびかかっていた。
無我夢中で取っ組み合い、そうして気がつけば、老婆に馬乗りになり、その首筋に手を当てていた。彼女は必死にその首を絞めた。
彼女は、自分がなぜそんなことをしているのかが分からなかった。いくら考えても理由は見当たらず、ただ明確な殺意だけがそこにあった。
いつの間にかその部屋には、彼女一人しかいなくなっていた。
しばらくの間、彼女は茫然としていた。
どれくらいの間、そうしていただろうか。彼女はふと、床に転がった剣に目を向けた。
その剣に手をかけた瞬間、どこかから声が流れてきた。
――まさか、前のを殺して新しい主になったのが、こんな小さな女の子とはね
彼女は始め、その声がどこから流れてきているのかが分からなかった。
――私はアルテナ。あなたが持つその剣の精神……いや、本体かしら
彼女はその剣が神様の正体であったことを思い出した。
――神様ではないわ。まあ、この村の人たちは勝手に私のことを神様扱いしているけどね
彼女はその剣が自分の両親を殺した元凶であると知った途端、その剣を床に叩きつけた。
――私に捧げられた生贄は、未だに私の一部になっている。だからその程度の衝撃じゃあ、私は壊せない
壊せないのならどうでもいいかと、彼女は諦めた。
――そう落ち込まないで。私を壊すこと以外で、何か望みはないの?
彼女は力なく首を横に振った。
――そう、あなたって本当に空っぽなのね
まさしくその通りだ、と彼女は自嘲気味に笑った。
――前までの持ち主なんて酷かったのよ。私を超える魔道具を作るんだって、手当たり次第にいろんなものを生贄に捧げて、年に一度とはいえ、人間まで捧げるんだもの。強欲すぎて笑っちゃうわよね
彼女は困惑した。生贄?魔道具?何の話だろうか?
――知らないの?もともとこの家は錬金術師の家系だったのよ?それが百五十年くらい前に私を手に入れて、それからは一族代々魔道具の研究をしていたのよ。年に一回は人体実験ができるって喜んでたわね
……彼女はアルテナに、望みについて聞いた。
――望みの叶え方?そうね……私に、あなたにとっての大事なものを捧げれば、私はあなたに力を貸す。けれど、空っぽのあなたに何か大切なものはあるのかしら?
確かに彼女は、両親を失って自分がどうしてあんなにも生に執着していたのかも分からなくなって、生きることも死ぬことも億劫で、何もない、空っぽだ。
そんな彼女でも、いや、そんな彼女だからこそ、最も大切なものがあった。
――……そう。それを捧げてしまったら、あなたには本当に何もなくなってしまうわよ。空っぽどころか、ただの虚無に戻ってしまうわよ。それでもいいの?
彼女は力強くうなずいた。
――それなら、自分に刃を押し当てて、この言葉を言いなさい
――我、力を欲するものなり。ここに、生贄を捧げん
その瞬間、彼女は自分の中から大事なモノが抜けていくのが分かった。
そして、彼女が消えるまでの一瞬、彼女は光輝く剣を振るった。
その一振りで、村は消滅した。
そして、彼女もまた消滅した。
彼女が生贄に捧げたモノ、それは彼女の命ではない。それは愛だ。
彼女が両親から受けたすべての愛。空っぽの彼女を形作るもの。
彼女はそれを失ったがゆえに、彼女の両親の愛の結晶――肉体――と、彼女の両親からの愛の贈り物――名前――を失った。
そして、魂だけとなった彼女はそのまま天へと昇る……はずだった。
――中々いいものを見たわ。まさか愛すらも手放すとはね。
そこにいたのは、不気味に笑うアルテナだった。彼女が魂だけの存在となったことで、同じ魂だけの存在であるアルテナを見れるようになったのだ。
――少しだけ、昔話でもしましょうか。私には、愛する人がいたの。私はその人のためにいろんなものを捨てて、ただがむしゃらに力だけを求めた。けれどその人は、私を選ばなかった。私は絶望したわ。愛のために他のすべてを捨てたのに、その愛すら手に入れられないなんて。だから私は、私の苦しみを”どこかの誰か”に味わわせるために、この剣を作ったの
アルテナが喜々として語った内容は、彼女にとっては至極どうでもいいことだった。
ふわふわとして、気持ちがよくて、このまますぐにでも寝てしまいたかった。
――けどね、愛のために愛を捨てたあなたを見て、ようやく気が晴れたの。だから、この剣はあなたにあげるわ
彼女は、アルテナの言葉が耳に入ってこなかった。
ただ何かひんやりとしたものに包まれたような気がした。
――さあ、もう一度だけ望みを言いなさい。この剣は、あなたの望みをかなえてくれるわ
望み、という言葉だけはやけにはっきりと彼女の心に入り込んできた。
愛を失った彼女が持っていたのは、ただどうしてあの時両親から離れてしまったのかという後悔。だから彼女はこう願った。
――もう二度と、愛する人と離れ離れになりたくない
そうして、願いは叶った。
*****
目覚めた彼女がまず初めに見たものは、黒い大地と灰色の空、そしてガレキの山だった。ここはどこだろうと身をくねらせるも、体の感覚がない。
そして思い出した。ああそうだ、自分は両親から受けた愛を失ったのだ、と。
彼女の中には、両親から愛されていたのだという記憶はあっても実感はない。両親の顔も思い出せなければ名前も思い出せない。そうして、自分自身の名前すら、思い出せなかった。
彼女はそのことに特にショックは受けなかった。どちらかと言えば、ショックを受けなかったことにこそショックを受けた。
彼女は記憶としてこういう時は悲しい気分になるものだと知ってはいたが、まったく実感が伴ってくれなかった。
それが、両親からもらった愛を捨てるということだった。
彼女の体は剣となっていた。あの老婆の持っていた禍々しくも神々しい剣だ。
体といっても、動かせるわけでもなければ感覚も全くない。彼女はただその場で周りの景色を見渡すことしかできなかった。
ただ動かないというのは暇なもので、彼女はいろいろなことを考えていた。
アルテナはどこに行ったんだろうとか、この村の惨状は自分の仕業なんだろうかとか、最後に聞かれた望みって何だろうとか、とにかくいろいろだ。
それから、しばらくの時間が過ぎると、ガレキだらけの村に一人の女性がやってきた。彼女は剣を発見し、そしてその手に取った。
その瞬間、彼女はその女性と何かがつながるのを感じた。
彼女が話しかけると、女性は恐怖を感じたのか剣を投げ捨てた。すると剣はクルリとターンし、女性のもとへと返ってきた。
女性は驚きすぎて気絶してしまったが、驚いたのは剣も同じだ。
なにせ、巫女の老婆が村にいた時、剣を持っていることはほとんどなかった。
もしも剣が今のように追いかける性質をもっているのならば、老婆はずっと剣を持っていなければならなかっただろう。つまり剣は老婆の手に会った時、今のように追いかけるような真似はしなかったのだろう。
そこまで考えて、彼女はふと思い出した。
アルテナの聞いた望み、自分の望みはもう離れ離れになりたくない、だった。もしかしたら、それの影響で剣は所有者を追いかけるようになったのかもしれないと、彼女は考えた。
そして、それは事実であった。
*****
その剣はある場所、ある時代においては知らぬ者がいない剣であった。
その剣は時と共に忘れ去られたが、数々の逸話を残した。
その剣は様々な場所で神聖視され、所有者に幸福と破滅を与えた。
その剣は神の剣、祝福された剣、争乱呼ぶ剣などと呼ばれることもあったが、当時一番有名だった名があった。
その剣は望みの剣。
その剣は所有者の望みを叶える。
――そしてその剣は百年以上の間、いや今もなおアルテナの望みを叶え続けている。
さらに彼女が剣にとりついたことで、彼女の願いも叶え始めた。
この時、望みの剣は後に生贄の剣と呼ばれる剣へと変質したのだった。
全ては、彼女らの望みをなすために。
*****
それから彼女は、様々な所有者の元へ渡った。
やがてその名は世間に広がっていき、多くの人がその剣を求めた。
彼女の周りには争乱と絶望が溢れていた。
――え?剣が喋ったああああぁぁぁ!
――大丈夫だよ。なんたって私には、スッゴイ剣がついてるんだからね
――私の命の全部をかければ、この子たち救えるかな?
自らの目的のため、夢のため、野望のため、そして愛する家族のために皆がその剣を求めた。
――よう、イケニエの。ワシの天下取り、お主も手伝え
――今世間は、魔物っちゅう厄災に怯えとる。じゃから儂ら為政者が、平和な国を作らなあかんのや
――ハハ、寝床に魔物が現れるとか、笑い話にもならんなあ
彼らはさらなる力を渇望し、あらゆるものを生贄に捧げた。
――あなたが生贄の剣ですか、ご噂はかねがね。さっそく分解してもいいですかねぇ
――この実験で世界が変わるってわけでもないんですがねぇ
――ダメでしたか。魂だけになれば、あなたと入れ替われるかとも思ったんですがねぇ。理由?ただの好奇心ですよ
あるものは四肢と五感を
――がっはっは!さあ見てろ、これがこの国の英雄だ!
――はっは!いいってことよ。この国のためなら、足の一本や二本どうってこともねえ
――ああ、剣よ。お前はいいよなあ。耳が聞こえなくなっても話せるんだからよ
あるものは記憶と知性を
――貴様が例の呪われた剣か。もう二度と地上の光を見ることは叶わんと思え
――ふざけるなよ!俺はなにがあろうとも貴様にだけは頼らん!
――うわっ!なんだ?いったいどこから声が
あるものは仲間と知性を
――僕は環境に恵まれてるんですよ。だから、反乱軍のリーダーなんて大それたことができてるんです
――どうして、どうして!みんなみんな消えていく……
――アアアッァア……。ッアアアアアァァァ!
それは、彼女に放たれた遺言。
数多の生贄を生み出し、多くの国を滅ぼし、すべての恨みを一身に受けた彼女への、憎しみと諦観で詰まった怨嗟の声。
絶望が歩み寄る前に、あるいは絶望がすべてを奪い去った後に、彼女は決まってこの言葉を聞いた。
「我、力を欲する者なり。ここに生贄を捧げん」
――果たしてその絶望は、生贄のものか、それとも彼女のものなのか……
*****
そうして、やがて彼女は封印された。
彼女にとっては喜ぶべきことだったが、もはや喜ぶ気力もないほどに疲れ切っていた。
それから、長い長い時が過ぎた。
やがて、その剣の名を知る者がいなくなった頃、その封印は解かれる。
彼女は彼と出会い、運命は動き始める。
世界は、再び彼女の名を知ることとなった。
彼女は生贄の剣。
生贄を喰らい、その力を糧とする。