17.5
彼は、いつも泣いてばかりいた。叩かれては泣き、怒られては泣き、転んでは泣いていた。
彼が泣くと、必ず誰かが慰めてくれた。特に彼の父は、彼が泣くと必ず飛んできて、彼の頭をなでてくれた。
彼はその大きな手が大好きだった。その手に撫でられると、父が自分を守ってくれているのだと、強く感じることができたからだ。あるいは、その手に撫でられるために泣いていたのかもしれない。
だがある日、優しかった彼の世界は唐突に牙をむいた。隣国との戦争が起こったのだ。
彼の住んでいた町は、悪い魔法使いたちによって簡単に占領された。
そして、父は魔法使いに殺された。家族を守って殺された。
そして、彼と彼の家族も殺されそうになった。
魔法使いがその手の炎をこちらに向けたその瞬間、彼らを救ったのは剣だった。
この国の兵隊が、彼らを救いに来たのだ。その剣の一振りで、悪い魔法使いは倒された。
彼はその姿を、ただ純粋にかっこいいと、そう思った。赤い血がしたたる剣を持ち、ピクリとも動かなくなってしまった悪い魔法使いを見下ろすその姿を、かっこいいと、そう思った。
彼を救ってくれた兵士とその仲間の手によって、町に平和が訪れた。ガレキの山の上に平和が訪れた。
彼は兵士に感謝の言葉を告げ、そうして尋ねた。どうしたらあなたみたいにかっこよくなれますか、と。
しかし、驚いたことに兵士は謝った。自分はかっこよくなんかない、と。
彼いわく、自分は父親を助けられなかった。それどころか、父親を囮にして、父親に魔法が放たれる隙を狙ったのだ。そんな自分はかっこよくなんかないし、君に感謝される資格もない。むしろ罵られて当然だ、と。
それを聞いた彼は、もう兵士のことをかっこいいとは思えなくなった。彼にとってのかっこいいとは、自分の命を含めてすべてを救う英雄だったからだ。兵士は英雄ではなかった。
しかし彼は、この人のように、あるいは父のようになりたいと思った。
英雄でなくとも、すべてを救うことはできなくとも、誰かに罵られようとも、誰かを守れる、そんな大人に。
彼は兵士に改めて感謝の言葉を紡ぐと、兵士の返事も待たずに走り出した。
急いで家に帰った彼は、兄の木刀を持ち出すと、それを振り回し始めた。
兄に怒られようと、母に心配されようと、嵐が来ようと、魔物が町に現れようと、毎日毎日、身の丈に合わない木刀を振り続けた。
そうして、ガレキが片付けられ、何度も戦火に襲われそうになり、木刀が短く感じ始めたころ、それでもまだ戦争は終わっていなかった。休戦と開戦を繰り返しながら、この国はずっと戦い続けていた。
ディノは、その戦いに参加する決心をした。
その決断に、母はいい顔をしなかったが、彼の意志が固いとみると諦めた。
そうして、彼の戦争は始まった。
とはいえ彼は未成年だ。志願兵でありそれなりに剣を扱えたためどうにか軍に入れたが、前線に行くことはできない。そんな彼の初任務。
とある古代遺跡で彼は――運命の出会いをした。
そこにあったのは、荘厳な装飾の施された一振りの剣。
彼がその剣に触れると、声が聞こえた。それは、幼げで可愛らしい女の子の声だった。
彼はその声に罵倒された。
なぜ、どうして。
なぜ封印を解いたのか、どうして再び目覚めさせたのか、と。
悲鳴のようにも聞こえるその罵声を、ただただ浴びせられ続けた。
――彼がその本当の意味を知るのは、もう少し先の話だ。
その剣は、生贄の剣と名乗った。他の名前はないらしい。モノを生贄として吸収し、それが彼にとって価値のあるモノであるほど、剣の力は増大する、そんな剣だ。
彼は魔道具に選ばれたことによって、前線に送られることとなった。
そしてそこで――地獄を見た。
彼はたくさんの金貨を持たされて、戦場に赴いた。その一枚一枚が、彼にとっては目が眩むほどの大金だった。
大量の金貨を持った子供が戦場をうろついているのだから、もちろん浮く。
しかし、それでも彼と仲良くなろうとする者はいた。たいていがそのお金目当てだったが、彼はそれには気づかずに喜んだ。
そして、仮設陣地で最初にできたトモダチは、意外なほどにあっけなく死んだ。
そして、周りの屈強な戦士たちが次々と吹き飛んで行った。
魔法使いの奇襲だった。
彼は金貨を生贄に捧げ、がむしゃらに剣を振るった。魔法を切り裂き、剣を振り続け、魔法使いもまたあっけなく死んだ。
初めて人を殺したという事実に震える間もなく、あの兵士もこんな気持ちだったのかという感傷に浸る間もなく、次の敵が来た。次から次へとやってきた。
そうして、彼は剣を赤く濡らせ続けた。
数か月ほど戦っていると、彼は剣の威力が弱まっていることに気づいた。
昨日までは切り裂けていた鎧に弾かれる、一度は弾いたはずの魔法で大けがを負う、そんなことが続いたからだ。
彼は生贄を金貨から変え、いろいろ試した。すると、医療器具や食料などの生きるために必要な物や、他人のものを生贄にすると剣の威力が上がることが分かった。
しかし、しばらくするとまた弱くなる。
なんのことはない、ただ彼の価値観が変わっただけだった。
昔は価値を感じていたものにも、何度も生贄にしているうちに、あるいは命のやり取りを経験しているうちに価値を感じられなくなってしまう。ただそれだけの、ことだった。
その頃になると、彼は疲れ切っていた。死んでいく仲間たちを見て、もう戦場になんて立ちたくないと、そう思うようになっていった。
休暇の申請は、意外なほどにあっさりと通った。軍上層部も、彼の剣の力が不安定なのを見て、もっと安定して力を出せるように考える時間が欲しかったからだ。
彼は、久しぶりに故郷に帰った。
そうして、おかえり、とにこやかに笑う母を見て、ああ、父が守りたかったものはこの笑顔何だったんだなと、そう思った。
その休暇はとても楽しかった。復興が進んだ町と、なつかしい幼馴染たち、兄の料理に舌鼓を打ち、母の笑顔に癒される。そんな、素晴らしい毎日だった。
だが、世界が彼に牙を向けるのはいつだって唐突だ。町に魔物が現れた。
彼の住む町は一見復興しているように見えるが、まだまだ爪痕は大きく、防衛体制は全く整ってなかった。
その魔物は、彼がこれまで見てきたどんな魔物よりも大きく、強靭だった。彼がどんな生贄を捧げようと、その魔物には通じなかった。
そして、彼が傷つき、倒れそうになったその時、立ち上がったのは彼の母だった。
母は言った。自分をその剣に使うことはできるか、と。
答えたのは剣だった。可能だ、と
母は、まるで剣の声が聞こえているかのように頷き、剣の切っ先を首筋へと持って行った。
彼の全くあずかり知らぬところで進んでいった話に、彼は困惑しながらも強く拒否した。
しかし、母は頑として譲らなかった。母は言った。
――後ろを見なさい。あなたがやらなければ、この町は、あなたの兄はどうなるの、と。
それでも躊躇う彼に、母は更に言う。
――あなたも大事な人を失う苦しみは知っているでしょう?私に、二度もそんな苦しみを味わわせないで、と。
彼は大きく息を吸って、言葉を紡いだ。生贄を作り出すための言葉を。
そうして彼は、彼の憧れた人が一番守りたかったものを生贄とした。
母は最後に、ありがとう、と言って光となった。
その剣の輝きは、魔物を周囲の建物ごと切り裂いた。
それが彼の、終戦への英雄譚の始まりの物語。
だが、彼にとってそれは決して英雄譚などではない。
大切な人を救えず、いや大切だからこそ生贄にせねばならないその力は、彼を幸福になど導いてくれなかった。
だから、だからこそ彼は――