【決戦は、Valentine Days】
翌朝、朝陽が昇るよりも早い時間に、自然と目蓋が開いた。
ベッドを抜け出し窓際に移動すると、カーテンを開いて、外の景色に視線を向ける。
いまだ世界は、真っ暗な闇に支配されていた。やがて東の空にほんのりと光の帯が射し始めると、闇に閉ざされていた世界を光の粒子が照らしていく。暗くて形しかわからなかった樹木の影や建物の輪郭線が、次第に浮き彫りとなっていった。
自室の壁に、正月から貼られていたカレンダーに目を向ける。二月十四日に○印がされているのを確認して頬を叩くと、怯えそうになる心を叱咤した。
一旦自室を出て洗面所に向かうと、冷水のままで顔を洗った。水が凍えてしまうほどに冷たくて、全身を支配していた眠気から一度に解放される。自分の部屋に舞い戻ると、鏡台の前に座って化粧道具を取り出した。
ファンデーションを塗り、オレンジ色のチークを軽く頬に乗せる。あたしの顔は、瞳が小さく沈んだ表情に見えがちなので、アイラインを目じりから丁寧に引き、縁取りは少し濃いめに彩った。口紅は、ピンク色の物を控えめに差す。
時間を掛けた化粧とは対照的に、髪型はシンプルに仕上げた。毛先だけをふんわりとさせるように心掛けて、サイドの髪をアップにして、後ろで纏めた。
ボトムはドット柄のショートパンツを履き、トップスはハイネックの白いセーター。その上からオレンジ色のファーパーカーを羽織って、鏡台の前に立ってみる。
「うん、大丈夫」
意図的に声に出して気合を入れると、窓の外に視線を向ける。
明るさが戻り始めた空は、鉛のような色を湛えた曇天だ。毎日見慣れている風景も、こうして陰影を変えていく様子を見届けると、得も言われぬ感慨深さがある。
まるで夢の中のように朧気な光景を脳裏に焼き付け、今日は絶対に忘れられない一日にしようと覚悟を胸に刻み、あたしは部屋を後にした。
「おはよう、ママ」
「おはよう、きょう……こ」
キッチンの中を忙しなく動き回る母親に声を掛けると、彼女は目を丸くして困惑気味に応えた。休日なのに早起きをして、おまけに化粧までして現れた娘の姿に驚いたのだろう。
だが、今日が何日か思い出したのか、その後は何も言わなかった。テレビから流れる天気予報の声は、関東でも降雪がある可能性を伝え、注意を促していた。
電車、予定通りに動くかな。そんな不安を感じながら朝食を食べ終えると、再び二階に駆け上がる。
見るからに寒そうな色の空を思い出して赤いマフラーを首に巻くと、チョコの入った袋を脇に抱える。もう一度、窓の外を覗き見ると、いつのまにか雪が舞い降りてきていた。
手元の袋に視線を落とす。一目で本命なんだと伝わるように、ラッピングは昨日の晩に時間を掛けて丁寧に行った。お気に入りのブーツを履いて家から出たのは、八時を少し回った時間になった。
先程から降り続いていた雪は歩道の上を真っ白に染めあげており、振り返ると足跡が刻まれていた。近年は、北関東でもよく雪が降る。悴んだ手に息を吐きかけ、ポケットから一枚の紙片を取り出した。
【さくら市○○丁目25番3号】
白い紙の中央に書かれているのは、晃君の家の住所。彼の家に行った事はおろか住所すら知らなかったあたしの為に、律がこっそり調べてくれたものだ。心中で、親友への感謝を口にした。
駅までは、徒歩でおよそ十五分。そこから電車に揺られて隣街のさくら市まで二十分。アポイントメントもなしに訪ねて行ったら、彼は驚くだろうか。実際に連絡を入れるのは、家の近くまで行ってからでも良いだろう。
次第に積もる雪を踏みしめ歩き続けていると、宇都宮総合病院の前に差し掛かる。ふと、玲が入院している556号室の窓が目にはいる。部屋はまだ、カーテンが引かれたままだ。
――玲。あたし、頑張るからね。
いまだ入院している親友を出し抜くようで、後ろめたい気持ちも正直あった。けど、玲も「遠慮はするな」と言ってくれたんだから、頑張らなくちゃ、と小さく声にだす。
決意も新たに顔を正面に戻したとき、病院入口付近の歩道に、コートを羽織って佇む少年の姿が見えた。短く刈り揃えた頭髪。中背の背中。それは見間違えるはずもない、愛しい人の姿。
――晃君、どうしてここに居るの!?
隠れなくちゃと左右に彷徨い、なんで隠れなくちゃいけないのと自嘲する。どうせこれから会う予定だったのに。それが少し早くなっただけのこと。
冷たい朝の空気をすう、と吸い込み、声を出した。
「晃君!」
「恭子……」
「こんな早朝から会うなんて、珍しいね」
笑ってみせる。なるべく自然に見えるように。
「おはよう、恭子。いや、玲の病室にさ、忘れ物があったから」
晃君は驚いた表情を浮かべ、訊いてもいない答えを呟く。やがて薄く笑みを湛えると、すっと視線を逸らした。
予定よりもずっと早い彼との出会いに、思考が正常に回らなくなる。……どうしよう、といつもの怯えた感情が顔を覗かせる。でも、ここで立ち止まってたら何も変われないから。気を取り直すように、一度大きく深呼吸をした。
「少しだけ話したい事があるの、近くの公園まで、良いかな?」
彼の目を真っすぐに見つめた。晃君は逸らしていた視線を戻して、再び外してから静かに肯いた。その瞳が少しだけ潤んで見えるのは、あたしの気のせいだろうか。
* * *
あたし達がやって来たのは、病院から徒歩で数分の場所にある手狭な公園。
新雪が敷き詰められた真四角の空間には、幾つかの遊具が雪に埋もれているだけで、他に誰の姿もなかった。朝早い時間帯なので、足跡も二人分しか刻まれていない。
公園の中央まで進み出ると、あたしは足を止めて振り返る。彼も足並みを揃える様に立ち止まった。
胸中で渦巻く不安を掻き立てるかのように、雪は先程よりも激しく降っていた。立ち止まっていると、頭や肩の上にも積もってしまうほど。
肩の雪を一度払い除けた後に、覚悟を決めて口を開いた。
「急に、こんな場所に連れてきてごめんね」
「それはいいよ。で、話って?」
今日がバレンタインなのを失念しているんじゃなかろうか。相変わらずの朴念仁ぶりに、思わず笑いそうなる。
落ち着け、落ち着け、と呪文のように繰り返しながら、次の言葉を導き出す。
「あたしは、料理もお菓子作りも殆どやらないので、美味しいかどうか保証できないけれど、それでも一生懸命作りました。良かったら、受け取ってください」
脇に抱えていた袋を両手でしっかりと握り直す。そして顔の前まで掲げると、真っ直ぐ彼に差し出した。
──あたしに、勇気を下さい。
今、この瞬間だけで良いので神様、あたしに勇気を下さい!
一度喉元でつかえた言葉を咀嚼した後に、恥ずかしいので顔を伏せたままで告げた。
「晃君。ずっと前から、好きでした。あたしと、付き合ってください」
やっと……言えた。
春のクラス替えで、こちらを向いて笑った彼の顔。野球の試合が終わった後、涙を堪えていた彼の姿。花火の光に照らし出された彼の横顔。雷雨の中、一つの傘を共有して歩いた帰り道。
今年一年の楽しかった彼との思い出が、走馬灯のように去来した。まだ返事も受け取ってないのに、充足感で満たされてる自分がバカみたい。
茶色から純白に塗り替えられた地面を見つめ、彼の返答を待ち続けた。
それは、おそらく時間にして約十数秒。けれど、あたしにはそれ以上に長く感じられていた。長い、長い沈黙を破り、彼が静かな口調で話し始める。
「ありがとう。今になって思えば、俺はもっと早くから、自分の気持ちをハッキリさせるべきだったんだろうな」
なにそれ、どういう意味? イエスなのか、ノーなのか、困惑しているあたしを他所に、彼は次の言葉を紡いだ。
「初めて見たとき、恭子のことを可愛い女の子だと思った。なんだか小さくて、華奢で。あんまり上手く言えないけれど、女の子らしい女の子だなって思った。それから間も無く、吹奏楽部に所属してるんだって気付いて、恭子と最初に目が合ったとき、もしかしたら俺のこと好きなのかなって自惚れた」
結構前から、あたしの視線に気付いてたんだ。驚きから顔を上げたその時、彼が両手で大事そうに抱えてる白い包みが見えた。
「その袋は?」
「ああ、これは……玲に貰ったんだ」
彼の言葉で、瞬時に合点がいった。
「玲からも、告白されたんだね?」
「ああ、そうなんだよ。……でもさ、勇気を出して直接伝えてくれた恭子と違って、アイツ、Lineで告白してきたんだぜ? ムードもなんもない。笑っちまうよな」
そう言って、彼は寂しそうに笑った。そうなんだ、と一緒になって笑おうと思ったけれど、とてもじゃないけど無理。告白で、先を越されていたこと。玲が送った包みを、彼が大事そうに抱えていること。突きつけられた二つの現実が、あたしの心をナイフのように抉っていく。
「どうも深夜に送信してたらしくて、朝、目が覚めたら、玲からメッセージが入ってたんだ。内容は簡潔に一文。『晃のことが好きでした。明日渡したいものがあるので、病室まで来てください』こんだけだぜ? そんで今朝病室に行ってみたら、ベッドサイドにこの包みが置いてあった」
「うん」
あたしの返答、自分でも驚くほどに擦れてた。
「そっか。あたしの負け、なんだね」
諦めから、凪いでいる心とは裏腹に自虐的な言い方になった。しかし、彼は特に否定しない。その事実に、彼の反応に、お腹の奥底に溜め込んでいた暗い感情が、じわりじわりと這い上がってくる。
「あーあ、なんだか一人で舞い上がっちゃって馬鹿みたいだ。ゴメンね……なんか、晃君と玲のこと、邪魔したみたいになっちゃったね」
「……違うんだ、そうじゃない」
「違わないじゃん」
自分でも、ちょっと驚いてしまうほどの低い声かつ即答。ああ、まただ。また酷いことを口走ろうとしてる。どうしてこうなってしまうんだろう。
「違わないじゃん。あたしが差し出したチョコは受け取ってくれなくて、でも、玲が送ったものは大事そうに抱えてる。どう考えても……あたしの負けじゃん」
本当に、どうしてこんな時だけすんなり言えてしまうのか。滲み始めた視界の中、差し出したままの両手は行き場を失い、力なく下ろされた。
「違う、そうじゃないんだ聞いてくれ。恭子が勇気を出して気持ちを伝えてくれたことは、凄く嬉しいんだ。嘘じゃない、本当なんだ」
「じゃあ……」
どういうことなの、と困惑して彼の顔を見る。僅かに見え始めた希望の光に縋ろうとしたあたしの心を、彼が放った次の言葉が打ち砕いた。
「でも、気持ちは嬉しいけれど、やっぱりごめん……。それは、受け取れないんだ」
最後に告げられた言葉に、一瞬で視界が暗転した。なんとなく上手くいく、そう思っていた昨日までの弾んだ心も。もしかしたら彼もあたしの事が好き、縋ろうとした最後の希望も、この瞬間に音を立てて崩れ去る。全ては過去の思い出となり、『敗北』の二文字が現実のものとなって、眼前に突きつけられた。
なんなのよ。受け取ってくれなくちゃ、なんの意味もないじゃん。嬉しいと言ってくれるのは有りがたいけど、チョコレートの行き場が無いんじゃ、気休めにもならないよ。口から出かかった不満を飲み込んで、あたしは思う。
それでも今は、玲のことを称えてあげなくちゃ。頬を伝い始めた涙を拭うと、必死に声を絞り出した。
「ううん、良いよ。しょうがないもんね。玲にはあたしからも『おめでとう』と伝えて、ついでに謝っておくね」
「違うんだ、それは無理なんだよ。玲はもう、いないんだ」
どういうこと? 再び困惑を深めたあたしの疑問は、嗚咽混じりの彼の言葉で、全て払拭された。
「早朝になって突然容体が変わったらしくて、二時間ほど前に玲は亡くなったんだ。たぶん、自分が長くないって分かったから、二月十四日が終わるまで生きられないって分かったから、夜中にメッセージ送ったのかもしれない。だからさ、玲に謝るなんて、絶対に無理なんだよ……!」
彼は目元を拭い絞り出すようにそれだけを告げると、背中を向けて駆けだした。もう二度と、振り返ることも、立ち止まることもなかった。遠ざかって行く彼の背中を、あたしはただ、呆然と見送っていた。
──玲が死んだ。
彼が放った言葉の意味を一拍遅れて理解した瞬間、大事に両手で抱えていた袋が指先から滑り落ちた。ドサッと雪の中に埋もれる音が、嫌味なほどに鼓膜を叩く。
いまだに降り止むことのない雪は、渡せなかったチョコレートの包みをゆっくりと覆い隠していった。
「……ごめんなさい」
膝から崩れ落ちるように脱力すると、積もった雪の上に座り込んだ。ショートパンツとストッキングしか履いてない下半身が雪の中に埋もれると、氷のような冷たさが、お尻や太腿を濡らしながら浸透してくる。
でも、そんなことは最早どうでも良かった。玲に申し訳ないと思う気持ちと、彼女がこの世界にいなくなったという事実と、自分の恋が完全に終ったという悲しみと。纏めて押し寄せてくる負の感情を、抱えきれなくなっていた。
突然胸の辺りに強い痛みを感じると、たまらず両手で掻きむしる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
どんなに掻き毟っても胸の痛みが消えないことに気がつくと、両手を地面につけて顔を伏せた。
もはや自分が誰に謝ってるのか、何が悲しくて泣いてるのか、気持ちの整理が全然つかない。それでも今は、何も出来ない自分の無力さと、結局泣いてしまう自分の弱さが、ただただ許せなかった。もう絶対に届くことのない謝罪の言葉を呟きながら、まるで幼子のように泣きじゃくっていた。
そして、二月十三日を最後に、あたしの日記は──完全に途切れた。




