20**/09/06(土)コンクール
◆20**年9月6日 (土曜日)
会場の明かりが一旦落ちる。
暗くなると同時に静寂の色まで濃くなったように感じられる、宇都宮市文化会館のホールの様子に、否が応にも緊張感が高まってくる。
「さあ、いきますよ。私たちの出番です」
ステージ袖に立ち、声を張った小園先生に向かって、全部員が力強く頷いた。
先生の後に続いて広瀬部長と男子部員が、女子部員が、そして……あたしと律が、続々と舞台に進み出る。
それぞれが自分の楽器を抱え、いつもと同じ配置に着く。
大丈夫。何時も通りやればいける。
自分を鼓舞しながら薄暗いステージ上に視線を巡らせていくと、あたしと同じように、緊張した面持ちでトランペットを抱える律と目が合った。
「頑張ろう」という意思を籠めて頷くと、「おう」と言わんばかりに律が親指を立てた。
やがて舞台の照明があがると、一瞬だけ目が眩む。
起立して軽く視線を走らせるだけでも、会場を埋め尽くす人の数に圧倒されそうになった。
小園先生が会場に向かって一礼すると、こちらに向き直って全員を着席させた。
サクソフォンを両手で抱え、視界一杯に広がる観覧席を見渡した。ステージに集中する視線。たくさんの人が居るはずなのに、物音一つ聞こえない張り詰めた緊張感。雰囲気に飲まれそうになってる自分を、深呼吸する事で宥める。
先生の顔が、コンサートミストレスであるあたしの方に向いた。
先生のタクトが構えられ、一拍の後に下ろされた。
静寂していた空間を一変させるように、あたしたちの演奏が、始まる――
栃木県吹奏楽コンクールを金賞で突破した照葉学園吹奏楽部は、本日、東関東吹奏楽コンクールへと挑んでいた。
全国吹奏楽コンクールの舞台へ出場できる枠は三つ。
この僅か三つの席を、じつに二十四の団体・学校で争うことになるのだ。
それでも――、「負けると思って戦いに臨む者に、勝利の女神は微笑まない」小園先生にも言われた言葉を胸に、あたし達は舞台に上がった。「どんな結果になろうとも、あたしはベストを尽くすよ」と、晃君や悠里にも誓ったのだから。
課題曲は、ルイ・ブージョワーの讃歌による変奏曲。
全体での冒頭のファンファーレ部分が終わると、そこに広がる美しいコラール。オーボエのソロパートから、メロディーを引き継ぐように、木管楽器が柔らかく、包み込むように音を並べていく。
ゆっくりとした曲調から始まった課題曲の演奏は、やがて速いテンポに移り替わっていき、ここから私達金管楽器の見せ場が続く。部員全員が指揮のタクトと譜面とを、無心で追いかけていた。
独奏曲、協奏曲の多くは、サクソフォンのために書かれている。また、サクソフォンがセクションリーダーを務め、主旋律を奏でることも一般的に見られる光景だ。
高校から吹奏楽を始めたあたしは、譜面を読むのが遅く肺活量も多くはない。おそらくサクソフォンは不向きなパート。でも、これに拘り志願した。
ロングトーンの練習も、おろそかにせず毎日続けた。苦手な高音域がどうやったら伸びやかに出せるのか、必死に試行錯誤を繰り返した。他の部員よりスタートで遅れている分、人一倍努力した。
その努力の甲斐あって、先生からコンサートミストレスに指名されるまでになったんだ。
コンサートミストレスと言うのは、演奏者の取り纏めをし、全ての演奏の起点となる人のこと。吹奏楽においては1stクラリネットが担当する事が多い。それでもなお、あたしを指名してくれたのだから、皆の期待に応えなくちゃ。
すべてはこの日のために、頑張ってきたのだから……。
晃君に、あたしの音を届けたいから――!
二曲目となる自由曲は、アルメニアン・ダンス・パート2。
作曲から四十年以上経った今でも、自由曲として取り上げる学校や団体も多い有名な曲。
金管楽器によるファンファーレと、木管楽器による走句によって演奏は始まる。
そして中盤、パーカッションがリズムを刻む中、サクソフォンのソロパートが入る。ここから暫く、あたしの独壇場。
スッと立ち上がると視点が三十センチ上がっただけなのに、先程よりも会場が広く大きく感じられた。緊張で掌に汗が滲む。
観覧席で見守る、晃君と玲の姿が見えた。
――見てて、あたしのこと!
肺一杯に空気を溜めると……強く、息を吹き出した。
──お腹の力を抜かないように、息を下に入れるように。
三年間先生に指導され続けてきたことを、愚直に表現していった。元々不器用なあたしに、難しい技術なんて端から無いから。ただただ、基礎に忠実に。
届け届け、あたしの想い。
届け……!!
――彼のところまで…………!!
演奏が終わった瞬間、静寂の後に巻き起こった大きな拍手が、あたし達の奏でた音楽が確かに人の心を打ったことを物語る。
額に滲む汗を意識しながら、視線を巡らしていくと、紅潮した顔の律と目が合った。無言で頷き合う。やりきったという高揚感が、全身を包み込んでいた。
全員で一礼し、舞台を後にする。
たぶん、自分のミスはなかった。終わったという安堵する気持ちと、これで最後かもしれないという寂しい気持ち。相反する二つの思いを抱えながら、あたしは一度だけ振り返る。
ステージ袖から再び照明の落ちた舞台に向けて深く一礼した後、皆の背中を追いかけた。
* * *
参加校全ての演奏が終わり結果発表も終わった後に、あたしたちは二階廊下の一角に集合した。
小園先生から報告された、照葉学園の結果は――金賞。
でも、みんなが泣いていた。
金賞を獲得した団体は、参加24校のうち8団体。照葉学園の評価がその内の何番目なのかは知る由も無いが、全国吹奏楽コンクールへの出場権を獲得するには至らなかった。いわゆる、ダメ金。
隣で泣いている律を慰めながらも、なぜだろう――涙は出なかった。もう触ることはないのだろうサクソフォンに視線を落としながら、心の中に、空虚な感情が満たされていくのを意識していた。
部員全員で楽器を片付け、会場のロビーに足を運んだとき、晃君がやって来た。
「惜しかったな……なんて言っても慰めにならないだろうけど。でも、もっと号泣してるのかと思ってたけど、意外と冷静なんだな」
「うん、みんな泣いてたんだけどね。なんでだろう、あたしだけ泣けなかった。残念だったけど、全力を出し切った上での結果だから、かな?」
へへへ……と薄く愛想笑いを浮かべながら、後頭部を掻いた。ロビーを見渡すと、ソファに座り項垂れている広瀬君の姿が見えた。傍らに美也が寄り添って、彼の背中を擦っている。上手くやってんじゃん、美也。でも、普段快活な律でさえ、今日ばかりは美也を茶化す余裕もなく、視線を床に落とし続けている。
泣いてない自分を後ろめたく感じ始めたころ、『彼女』の姿が見えないことに気が付いた。
「そういえば、玲は?」
「あれ?」と言いながら晃君も、今気づいたようにきょろきょろと視線を走らせた。「さっきまで一緒だったのにな。何処行ったんだ、アイツ」
「そっか……」
そういえば、悠里も見にきてたはずなのに、気が付けばいなくなっている。彼女にしろ玲にしろ、みんなが泣いてる姿を見て声を掛け辛くなったのかもしれない。
不意に抱えていたサクソフォンが重たく感じられると、ロビーの絨毯の上に下ろした。瞬間、肩の荷が降りたような気がした。
いや、錯覚ではない。実際に降りたんだ。
もう、楽器を抱えて登下校する必要もないし、音楽室に通い詰める必要もなくなった。これからは、遅れていた受験勉強に専念しよう。
新しい目標を思い描き、口元に薄く笑みを浮かべた。
思えば最初は、音を出すことが出来なかった。
マウスピースの咥え方、通称、アンプシュアが良くないと当時の三年生に言われた。基礎から全然ダメだと咎められた。
……初心者なんだからしょうがないじゃん、と思ってた。
それから間もなくして音は出せるようになったが、今度は安定しない音階の壁にぶち当たる。
譜面を読むのも指の動きも遅く、パート練習でも度々演奏を止めた。当時のパートリーダーには、「真面目にやる気あるの?」と幾度となく説教された。
──やる気はあります。もう少しだけ時間をください。
相変わらずのど元を通らない台詞を脳内で反芻しながら、ただ無言で頷き、惰性のように部活動に取り組んだ。
一年生の夏頃だったろうか。上達しない自分に嫌気が差したあたしは、鞄の中にそっと……退部届けを忍ばせていた。これを出せば楽になれる。もう逃げ出してもいい頃合だと考え始めていた。
でも、その日は結局出せないままなんとなく部活をサボると、野球部の練習風景を見学していた。いつもと同じように、晃君の姿だけを追いかけて。
彼は何度も、何度も、ボールを落としては叫ばれていた。高く上がった飛球への判断が悪く、一歩目が遅れてしまうようだった。
ゴロの打球に対してもバックホームにばかり気持ちが向いて、時々後逸していた。
それでも、決して彼は諦めなかった。
ユニフォームを泥だらけにしながら、何度でも立ち上がった。何度転んでも叫ばれても、必死にボールを追い続けた。
彼の姿と頑張りを目の当たりにしたあたしは、その日の晩、退部届けをくずかごに放り投げた。
そこからはもう、我武者羅だった。下手でもいい。ついていけなくても良い。今まで以上に必死に、基礎練習だけを繰り返した。
もちろん上手になるまで相当の時間を要したけれど、努力をした結果、ソロパートを与えられるまでになれたんだ。
思えば全部、晃君のおかげ、なのかもしれない。
そう、あたしは全部やり切ったんだ。そうだよ、全然後悔なんて無いんだもん。
──だから、泣く理由なんてない。
思い出を断ち切り顔を上げた瞬間、涙が頬を伝うのがわかった。
……あれ、おかしいな? 慌てて左手で拭う。
ところがすぐに、別の涙が頬を伝った。
最初の涙が零れてしまうと、あとはもう……止め処がなくなった。
笑っていたはずの口元は歪み、代わりに嗚咽が漏れ始める。
「あれ……おかしいな……全然悔いはないのに。自分の力を出し切ったから、悔しくなんて、ないはずなのに……」
泣き始めたあたしを見て、晃君がそっとハンカチを出してくれた。「ごめん」ハンカチを受け取ると、彼の好意に甘えて目元を拭う。
「……泣くと弱いって思うかもしれないけど、俺はそうは思わない。悲しいときはさ、思いっきり泣けばいいじゃん。その悲しみとか辛さを乗り越えられた時、恭子は絶対強くなれるから」
そう言って、優しく肩を抱いてくれた。
「それに……恭子、かっこよかったよ」
そうか……あたしは悔しいんじゃなくて、悲しいのか。涙の意味が、ようやくわかったような気がした。
ようやく痛みを受け入れたあたしの心に、彼の体温が心地良く染み渡っていった。




