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バレンタイン・デイ(ズ)  作者: 木立 花音
第二章:楠恭子の日記 サイドB
13/23

20**/09/06(土)コンクール

◆20**年9月6日 (土曜日)


 会場の明かりが一旦落ちる。

 暗くなると同時に静寂の色まで濃くなったように感じられる、宇都宮市文化会館のホールの様子に、否が応にも緊張感が高まってくる。


「さあ、いきますよ。私たちの出番です」


 ステージ袖に立ち、声を張った小園先生に向かって、全部員が力強く頷いた。

 先生の後に続いて広瀬部長と男子部員が、女子部員が、そして……あたしと律が、続々と舞台に進み出る。

 それぞれが自分の楽器を抱え、いつもと同じ配置に着く。

 大丈夫。何時も通りやればいける。

 自分を鼓舞しながら薄暗いステージ上に視線を巡らせていくと、あたしと同じように、緊張した面持ちでトランペットを抱える律と目が合った。

「頑張ろう」という意思を籠めて頷くと、「おう」と言わんばかりに律が親指を立てた。

 やがて舞台の照明があがると、一瞬だけ目が眩む。

 起立して軽く視線を走らせるだけでも、会場を埋め尽くす人の数に圧倒されそうになった。

 小園先生が会場に向かって一礼すると、こちらに向き直って全員を着席させた。

 サクソフォンを両手で抱え、視界一杯に広がる観覧席を見渡した。ステージに集中する視線。たくさんの人が居るはずなのに、物音一つ聞こえない張り詰めた緊張感。雰囲気に飲まれそうになってる自分を、深呼吸する事で宥める。

 先生の顔が、コンサートミストレスであるあたしの方に向いた。

 先生のタクトが構えられ、一拍の後に下ろされた。

 静寂していた空間を一変させるように、あたしたちの演奏が、始まる――


 栃木県吹奏楽コンクールを金賞で突破した照葉学園吹奏楽部は、本日、東関東吹奏楽コンクールへと挑んでいた。

 全国吹奏楽コンクールの舞台へ出場できる枠は三つ。

 この僅か三つの席を、じつに二十四の団体・学校で争うことになるのだ。

 それでも――、「負けると思って戦いに臨む者に、勝利の女神は微笑まない」小園先生にも言われた言葉を胸に、あたし達は舞台に上がった。「どんな結果になろうとも、あたしはベストを尽くすよ」と、晃君や悠里にも誓ったのだから。


 課題曲は、ルイ・ブージョワーの讃歌による変奏曲。

 全体での冒頭のファンファーレ部分が終わると、そこに広がる美しいコラール。オーボエのソロパートから、メロディーを引き継ぐように、木管楽器が柔らかく、包み込むように音を並べていく。

 ゆっくりとした曲調から始まった課題曲の演奏は、やがて速いテンポに移り替わっていき、ここから私達金管楽器の見せ場が続く。部員全員が指揮のタクトと譜面とを、無心で追いかけていた。


 独奏曲、協奏曲の多くは、サクソフォンのために書かれている。また、サクソフォンがセクションリーダーを務め、主旋律を奏でることも一般的に見られる光景だ。

 高校から吹奏楽を始めたあたしは、譜面を読むのが遅く肺活量も多くはない。おそらくサクソフォンは不向きなパート。でも、これに拘り志願した。

 ロングトーンの練習も、おろそかにせず毎日続けた。苦手な高音域がどうやったら伸びやかに出せるのか、必死に試行錯誤を繰り返した。他の部員よりスタートで遅れている分、人一倍努力した。

 その努力の甲斐あって、先生からコンサートミストレスに指名されるまでになったんだ。

 コンサートミストレスと言うのは、演奏者の取り纏めをし、全ての演奏の起点となる人のこと。吹奏楽においては1stクラリネットが担当する事が多い。それでもなお、あたしを指名してくれたのだから、皆の期待に応えなくちゃ。

 すべてはこの日のために、頑張ってきたのだから……。

 晃君に、あたしの音を届けたいから――!


 二曲目となる自由曲は、アルメニアン・ダンス・パート2。

 作曲から四十年以上経った今でも、自由曲として取り上げる学校や団体も多い有名な曲。

 金管楽器によるファンファーレと、木管楽器による走句によって演奏は始まる。

 そして中盤、パーカッションがリズムを刻む中、サクソフォンのソロパートが入る。ここから暫く、あたしの独壇場。

 スッと立ち上がると視点が三十センチ上がっただけなのに、先程よりも会場が広く大きく感じられた。緊張で掌に汗が滲む。

 観覧席で見守る、晃君と玲の姿が見えた。


 ――見てて、あたしのこと!


 肺一杯に空気を溜めると……強く、息を吹き出した。


 ──お腹の力を抜かないように、息を下に入れるように。


 三年間先生に指導され続けてきたことを、愚直に表現していった。元々不器用なあたしに、難しい技術なんて(はな)から無いから。ただただ、基礎に忠実に。

 届け届け、あたしの想い。

 届け……!!

 ――彼のところまで…………!!


 演奏が終わった瞬間、静寂の後に巻き起こった大きな拍手が、あたし達の奏でた音楽が確かに人の心を打ったことを物語る。

 額に滲む汗を意識しながら、視線を巡らしていくと、紅潮した顔の律と目が合った。無言で頷き合う。やりきったという高揚感が、全身を包み込んでいた。

 全員で一礼し、舞台を後にする。

 たぶん、自分のミスはなかった。終わったという安堵する気持ちと、これで最後かもしれないという寂しい気持ち。相反する二つの思いを抱えながら、あたしは一度だけ振り返る。

 ステージ袖から再び照明の落ちた舞台に向けて深く一礼した後、皆の背中を追いかけた。


* * *


 参加校全ての演奏が終わり結果発表も終わった後に、あたしたちは二階廊下の一角に集合した。

 小園先生から報告された、照葉学園の結果は――金賞。

 でも、みんなが泣いていた。

 金賞を獲得した団体は、参加24校のうち8団体。照葉学園の評価がその内の何番目なのかは知る由も無いが、全国吹奏楽コンクールへの出場権を獲得するには至らなかった。いわゆる、ダメ金。

 隣で泣いている律を慰めながらも、なぜだろう――涙は出なかった。もう触ることはないのだろうサクソフォンに視線を落としながら、心の中に、空虚な感情が満たされていくのを意識していた。


 部員全員で楽器を片付け、会場のロビーに足を運んだとき、晃君がやって来た。


「惜しかったな……なんて言っても慰めにならないだろうけど。でも、もっと号泣してるのかと思ってたけど、意外と冷静なんだな」

「うん、みんな泣いてたんだけどね。なんでだろう、あたしだけ泣けなかった。残念だったけど、全力を出し切った上での結果だから、かな?」


 へへへ……と薄く愛想笑いを浮かべながら、後頭部を掻いた。ロビーを見渡すと、ソファに座り項垂れている広瀬君の姿が見えた。傍らに美也が寄り添って、彼の背中を擦っている。上手くやってんじゃん、美也。でも、普段快活な律でさえ、今日ばかりは美也を茶化す余裕もなく、視線を床に落とし続けている。

 泣いてない自分を後ろめたく感じ始めたころ、『彼女』の姿が見えないことに気が付いた。


「そういえば、玲は?」

「あれ?」と言いながら晃君も、今気づいたようにきょろきょろと視線を走らせた。「さっきまで一緒だったのにな。何処行ったんだ、アイツ」

「そっか……」


 そういえば、悠里も見にきてたはずなのに、気が付けばいなくなっている。彼女にしろ玲にしろ、みんなが泣いてる姿を見て声を掛け辛くなったのかもしれない。

 不意に抱えていたサクソフォンが重たく感じられると、ロビーの絨毯の上に下ろした。瞬間、肩の荷が降りたような気がした。

 いや、錯覚ではない。実際に降りたんだ。

 もう、楽器を抱えて登下校する必要もないし、音楽室に通い詰める必要もなくなった。これからは、遅れていた受験勉強に専念しよう。

 新しい目標を思い描き、口元に薄く笑みを浮かべた。


 思えば最初は、音を出すことが出来なかった。

 マウスピースの咥え方、通称、アンプシュアが良くないと当時の三年生に言われた。基礎から全然ダメだと咎められた。

 ……初心者なんだからしょうがないじゃん、と思ってた。

 それから間もなくして音は出せるようになったが、今度は安定しない音階の壁にぶち当たる。

 譜面を読むのも指の動きも遅く、パート練習でも度々演奏を止めた。当時のパートリーダーには、「真面目にやる気あるの?」と幾度となく説教された。


 ──やる気はあります。もう少しだけ時間をください。


 相変わらずのど元を通らない台詞を脳内で反芻しながら、ただ無言で頷き、惰性のように部活動に取り組んだ。

 一年生の夏頃だったろうか。上達しない自分に嫌気が差したあたしは、鞄の中にそっと……退部届けを忍ばせていた。これを出せば楽になれる。もう逃げ出してもいい頃合だと考え始めていた。

 でも、その日は結局出せないままなんとなく部活をサボると、野球部の練習風景を見学していた。いつもと同じように、晃君の姿だけを追いかけて。

 彼は何度も、何度も、ボールを落としては叫ばれていた。高く上がった飛球への判断が悪く、一歩目が遅れてしまうようだった。

 ゴロの打球に対してもバックホームにばかり気持ちが向いて、時々後逸していた。

 それでも、決して彼は諦めなかった。

 ユニフォームを泥だらけにしながら、何度でも立ち上がった。何度転んでも叫ばれても、必死にボールを追い続けた。

 彼の姿と頑張りを目の当たりにしたあたしは、その日の晩、退部届けをくずかごに放り投げた。


 そこからはもう、我武者羅(がむしゃら)だった。下手でもいい。ついていけなくても良い。今まで以上に必死に、基礎練習だけを繰り返した。

 もちろん上手になるまで相当の時間を要したけれど、努力をした結果、ソロパートを与えられるまでになれたんだ。

 思えば全部、晃君のおかげ、なのかもしれない。

 そう、あたしは全部やり切ったんだ。そうだよ、全然後悔なんて無いんだもん。


 ──だから、泣く理由なんてない。


 思い出を断ち切り顔を上げた瞬間、涙が頬を伝うのがわかった。

 ……あれ、おかしいな? 慌てて左手で拭う。

 ところがすぐに、別の涙が頬を伝った。

 最初の涙が零れてしまうと、あとはもう……止め処がなくなった。

 笑っていたはずの口元は歪み、代わりに嗚咽が漏れ始める。


「あれ……おかしいな……全然悔いはないのに。自分の力を出し切ったから、悔しくなんて、ないはずなのに……」


 泣き始めたあたしを見て、晃君がそっとハンカチを出してくれた。「ごめん」ハンカチを受け取ると、彼の好意に甘えて目元を拭う。


「……泣くと弱いって思うかもしれないけど、俺はそうは思わない。悲しいときはさ、思いっきり泣けばいいじゃん。その悲しみとか辛さを乗り越えられた時、恭子は絶対強くなれるから」


 そう言って、優しく肩を抱いてくれた。


「それに……恭子、かっこよかったよ」


 そうか……あたしは悔しいんじゃなくて、悲しいのか。涙の意味が、ようやくわかったような気がした。

 ようやく痛みを受け入れたあたしの心に、彼の体温が心地良く染み渡っていった。


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