第4話3節 晩餐会
一歩を踏み出し、さらに強く二歩目が体を浮かす。床と平行に宙を滑る体。左手を前に翳し、右手は頭上へ。
届け!
そんな願いを込めた放物線。いま、俺の時間は限りなくスローになっていて、無限にも思える午後四時七分四十二秒だった。乱雑に散らかった調合室は光に包まれていた。俺の右手が調合台を、その上に置かれた布切れを撃つ。強烈な光を放ち、僅かに宙に浮いていた布切れは、俺の手刀を受けて台の上に墜ちた。
「リオン……」
「ごめん! でも、気づかなかったんだって!」
俺は今しがた叩きつけた赤い布、リオンがどこからか拾ってきたスカーフを見やる。どうやら解れていたスカーフを直そうとしていたらしいが、どうもこれはロステクであったらしく、いつものように爆発へのカウントダウンが始まったということだ。俺がたまたま調合室のリオンの声が聞こえる距離にいたからよかったものの、せっかく再建した店がまた吹き飛ぶところだった。
「これもロステクってことは、何か機能があるってことか?」
手に取ってみるも、それはやはりただの布だ。強いていえば少し硬い気がするが、ボタンやスイッチの類は見られない。そういえばロステクの「定義」とは何だろうか。古代の超絶テクノロジーがロステクなわけだが、一定の時間以上前に作られたものが全てそうなのか、それとも一定の技術力を以ってなのか。テレビや転送装置は、今のこの世界の技術力と比べてもおそらく高いが、この布はどうだろう。この世界でも布くらい織れるわけだが、何か特殊な技術を使って織られているとか?
……考えても分からない。
「今日は礼服にワンポイント加えてみようと思って」
「それでこのスカーフを?」
パールホワイトのブラウスに、黒いスカート、そしてチャコールグレーのコルセットもしている。彼女は赤いスカーフをシュシュの代わりとして、髪をポニーテールに結んだ。その端がリボンのようになっていて、可愛い……かも。
「うん。いい感じじゃない? どう?」
「いいと思うぜ」
もしかして、リオンの錬金術を使うと服を洗濯できるのでは?
このところ気温が赤い日が続いていた。今の空は曇っているが、夜には雨が降ることだろう。バルア市街地でも主だった通り以外は舗装されていないから、雨が降れば踏み固められた地面でもぬかるむ。ならば副業で洗濯屋をやるのも悪くないかもしれない。
「ねぇ、もしかして外って雨降りそう?」
「今夜は降るだろうって」
「雨具がいるよね……」
そう言ってリオンは奥に引っ込んでいった。
「リオンは片付けられない女だもんなー」
しばらく時間がかかりそうだ。
事前に届いていた招待状は、わりかし畏まったものだった。はじめに「おかえりソロヴィパーティ」と聞いた時には、アメリカでよくあるホームパーティ的なものを想像していたのだが、もしかしてダ・ヴィンチの「最後の晩餐」みたいなパーティなのだろうかと思った。
そこで俺は堅くなりすぎず、それでいてだらしなく映らない程度の礼服で出席することにした。うっすらとストライプの入った黒いジャケットはボタンを閉じず、ワイシャツにはネクタイを通していない。パンツの方はジャケットと色を合わせたシンプルなもの。
カジュアルとフォーマル、これが俺が予想する今日のベストなバランスだ。とはいえポケットにタイを忍ばせてはいる。完璧だ。
後は傘があった方がよいが、店頭に並んでいるものから拝借するとしよう。店の方に出ると、ナタリーさんはカウンターで本を読んでいた。お客さんからは見えないのだが、カウンターの裏は彼女の手でとても快適な空間へと改造されている。クッションがあり、飲み物やおやつが置かれている。今のように人のいない時間のためだろう、彼女なりに楽な姿勢をとれるように物の配置も変わっている。
「あれ? タケシくん、今日はどうしたの? デート?」
「友達の家で晩餐会があるんです」
「ふーん。いいなぁ。お酒も出るなら私も行こうかな」
「来ないでください」
「この上なく直接的な拒否……」
実は休憩室にお酒が置かれているのだが、あれは彼女が持ち込んだものだろう。いつ飲んでいるのか。仕事中に飲んだりはしてないかと心配になる。
「タケシくんさ、怒らないよね」
「はい?」
「それに甘えてる私が言うのもおかしいけど、だいたいの場合『雇い主』って人種は他人をあれこれ怒るでしょ? タケシくん、そうじゃないなぁって」
「でも仕事自体はちゃんとしてるんでしょう?」
「うん、それはがんばってる」
「なら俺は満足です。それ以上のことをしてくれるって言うなら、またいろいろ考えますけど」
前みたいにバルア市街地のど真ん中でお店を開いているのなら話は別だ。商品はもちろん、サービスも一流でなければ戦えない。だが今は個人商店規模のお店でしかなく、そこまでかちっとしたサービスを提供しなくてもいいかという気持ちでいる。
例を挙げるなら、駄菓子屋に入った時に、スーツを着た店員が「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用命でしょうか」なんて話しかけてきても、却って困惑するだろう。まあ、悪い気はしないと思うが、それがないからといってお店の評価の減点対象にはならないはずだ。
だから今は店番として最低限の働きさえしてくれればそれでいい。もちろん、彼女の持っている何らかの能力をお店のために使ってくれるというならば、それを職務内容と賃金に反映させるようにはする。例えば王宮騎士団だったコネを使って、彼らの武器や防具の修復なりの依頼を取り付けてくれるとか。もしくは武器をいつも頼んでいた職人へ材料を卸すチャネルを開拓してくれるとか。
このあたりもそのうち頼んでみようとは思っているが、まだ彼女はこの店に来たばかりだから、その時期を図っているところだ。
というようなことを考えての「それ以上のこと」だったのだが、彼女の捉え方は違っていた。
「それ以上のこと……枕?」
「は?」
「あれ、なんか、タケシくんの目が美味しい肉を前にした獣のそれに見えてきたような……」
「違いますよ? そういう意味じゃないですからね?」
「やっぱりどの業界でもそういうのあるのね」
「王宮騎士団にもあったんですか!?」
違うとは言いつつ、ナタリーさんは確かに魅力的な女性だと思う。今はラフな服装をしているが、モデルをやってたって違和感はないだろう容姿を持っている。
「ナタリーさん、確かにあなたは魅力的だと思います」
「…………」
「ですが俺は枕を持ち掛けませんから。安心してください」
「タケシくんのことは信頼してるよ? けど、その言葉、何ら根拠がないね」
「もしもナタリーさんが従業員としてダメそうだったり、もしくはこれからダメになった時には容赦なく解雇するつもりですから」
「冷たいな!」
他人との関係は一人につき一種類が望ましいと俺は思う。例えば部下であり愛人あありでもあるとか、嫁であり上司でもあるとか、あとは友達であり経営のパートナーだとか、そういうのは俺は嫌だ。どちらか片方の関係に生じた軋轢やらストレスを、それはそれとお互いが割り切れればいいのだが、人間そううまくはできていない。つながりが深すぎると、関係は自重で壊れる。
それを考えると、リオンと俺の関係とはどのようなものだろう。友達? 仕事の仲間? それとも生きる上でのパートナー?
売り場の傘を手に取り店頭を後にしようとすると、ナタリーさんが話しかけてきた。
「そっか、タケシくんってあれだね」
「わかってくれましたか」
「男性の方が好きなんだね」
「違いますけど!?」
この人、すぐそういう方向に考える……。
「お店、ちゃんと閉めておいてくださいね」
「わかった」
休憩室に戻ると、リオンが雨具を手に入れていた。ポンチョ、長靴、そして傘。いい年した女の子がまるで幼女みたいに。
「雨対策はこれで完璧だね」
「うん? なんか背中が膨らんでないか?」
「ああ、荷物があるからね。ソロヴィへのお土産だよ」
「そういうの用意しているのか。偉いぞ」
時計を見る。準備ができたところで、そろそろ出発するとしよう。表に出ると、雨が降り出していた。
今日はイアとクエストボード広場で待ち合わせをしている。
市街地に入るころには、すっかり雨天となっていた。いつもは人の通りの多いはずの大通りだが、今は俺とリオンだけだ。雨雲が夕陽を隠してしまっていることも相まって、まるで一足早い夜がやってきたようだった。
何気なく道路脇の店舗を見やると、中は仄明るく、窓際に誰かが座っていた。ピクリとも動かないその人は、男性なのか、女性なのか。寛いでいるというよりも、力尽き果てたような座り方だ。
「タケシ? どうしたの?」
「うん? いや、なんでも」
リオンの声で視線を正面に戻すと、広場にぽつねんと誰かが立っていた。暗い色の傘を差しているようだ。ちらりと、また店舗の中に目をやるのだが、先ほどの人物は消えていた。
「リオンに、タケシさん。こんばんは」
深い緑色の傘がくるりと回ると、そこからイアが顔を見せた。
「なんだか今日のイアは色っぽいね」
髪を編んでシニヨンにして結っているし、メイクもしている。丈の長い外套を羽織っているが、内側には何かしらの正装を着ているのだろう。
「リオンの方こそ……なんというか、あなたらしいわ」
「ありがと」
褒めているのか、それは。
「それじゃあ行こう! 楽しい晩餐!」
ソロヴィの家はそこから近かった。一軒家の立ち並ぶ街区に入り、ほどなく。区画を割られた中に建てられた一軒がそうだった。都市の住宅というのは過密になりがちだが、ここも例に漏れない。
リオンはドアノッカーを使い、三度ドアを叩く。出てきたのはソロヴィ本人だった。
「よく来たね、リオン。イアさんも」
ソロヴィは真紅のカシュクールを身に着けていた。
髪が結い上げられていて、頬から首、そして肩までのシルエットがスマートだ。小さな首飾りをつけているが、そのまま、視線が胸元に寄せられる。最初に会った時は少女という印象を受けたが、今は大人の女性だと思わせる。
「タケシさんも。さあ、入ってください」
彼女の金色の髪も、蒼い瞳も、まるで夜の中で淡く灯りを点したようだった。
晩餐の席についていたのは、俺を除けば七人だった。
「さあ、みんな揃ったかな?」
ソロヴィの父親、イリィチさんだ。名のある建築家であるらしく、バルア市合同庁舎や、バルア郊外にあるジャドリーオアシス刑務所などを担当したことがあるらしい。髪を刈り上げており、眼光も鋭い。さらにスーツ越しでも分かるような筋骨隆々の肉体をしている。
「それでは、食事前の祈りを捧げましょう」
こちらはソロヴィの母親のキャロラインさん。ソロヴィと同じ色の髪をしている。なるほど、ソロヴィの実の母親だけあって、とても美人だ。きっとソロヴィもあと二十年ほどすると、こうなるのだろうと思う。
彼女の音頭で、他の皆が静かになる。祈りを捧げないのは俺とリオンくらいか。
「さ! みんな食べて! お母さんの自慢の料理なの」
「感謝していただきますわ」
彼女はクラリス=コレット。ソロヴィと同じく錬金学部の生徒だ。所作や言動から見て、良家のお嬢様のようだが、そもそもバルア魔法学院自体がお金持ち率が高いから、きっとそうなのだろう。
「素晴らしい料理ですね。だけど、ちょっと変わった味付けのような?」
真面目そうな男子だ。背が高く、端整な顔立ちをしている。彼はメルヴィン=エヴァンスといい、錬金学部の生徒だという。実家は鍛冶屋で、鋼を打つ金属を自分で作れるようにと入学することを決め、最終的には家業を継ぐ意思があるらしい。
「実はそれね、デアモントの郷土料理風に作ってもらったんだよ」
赤いドレスは、誰が今日の主役なのかを雄弁に語っていた。
「美味しい……。どんどん食べられます」
外套を脱いだイアは、水色のイブニングドレス姿だった。スタイルの良さがよく映えるドレスが華奢な体を包んでいるわけだが、そんな彼女のお皿は他の誰よりも空いていた。
大人数での食事だが、リオンに関心を持っているのは、ソロヴィの母親だった。
「あなたはウォーレンさんのところのお弟子さんだったのよね?」
「そうだよ!」
「仲良くしてあげてね。あの子、錬金術が好きなあまり、人間に興味がないところあるから」
「その気持ちよく分かるよ。私も誰が誰に惚れてるかとかどうでもいいもん」
昔から知っているが、リオンは基本的に敬語というものを使わない。知らないわけではなく、命乞いする時などには敬語になるのだが、基本的に普段の生活においてはいつもの口調だ。
「タケシくん、だったか。君はソロヴィとはどういう関係なんだ?」
「リオンの雇い主なんです。商人なもので」
「君はその年で自立して、金を稼いでいるというのか。出身は?」
聞かれるたびに言い淀む質問。俺はそれにこう答えることにしている。
「ニホン……大陸の東の方にかつてあった国です」
今でも列島は同じ場所にあるらしいが、そこにあるのは別の名前の国。このセブンスの人たちからは「変な国」、「変わり者国家」、「鎖国国家」などと思われている国だ。
「そうか、遠くから遥々……何か困ったことがあったら言ってくれ。力になれることがあるかもしれない」
「ありがとうございます」
その時、窓の外から強烈なから閃光が差し込んだかと思えば、轟音が落ちてきた。わずかに室内も揺れたと思う。ふたりの女の子が「きゃ」と可愛い悲鳴をあげた。
「今の、近かったみたいですね」
気が付けば雨は、雷を伴う激しいものになっていた。
「今日、帰れるかな……」
「激しい雨ほどすぐにあがるさ。少し様子を見よう」
イリィチさんはそう言うと、もう一度窓の外を見遣った。その奥には暗い空があった。
キャロラインさんがお茶を淹れ直しに立った。そしてクラリスもそれについていった。俺は何となく、窓に寄り外を見た。イリィチさんの言ったとおりに雨はすっかり弱まっている。
隣にそっとソロヴィが寄ってくる。
「あがりましたね」
「そうだな。……?」
彼女はさらに半歩俺に近づき、上目遣いで俺を見てくる。そして、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。
「二階の奥、突き当りを左の部屋」
「え?」
「五分したら来てください」
彼女はそのまま、部屋を出た。
「なんだ?」
俺は席に戻り、五分後に再び席を立った。
「二階の奥……」
誰かに見られやしないかとドキドキしながら階段を上がる。灯りのない空間だったが、どこからかわずかに光が漏れていた。その光源は、廊下の奥、突き当りの左にある部屋だった。
階下の談笑が遠く聞こえる。雨は止んだが、風が建物の間を通り抜ける音がする。この廊下には何も置かれていない。殺風景だ。壁に手をつきながら、物音を立てないように進む。
ドアの前に立ち、手をかけようとして、一瞬の迷いが生まれる。手のひらを拳にしたところで、声がした。
「どうぞ。入って」
ノブに手をかけ、開く。部屋の奥と手前にひとつずつ置かれた間接照明が置かれている。ベッドの端に座るソロヴィは、髪を解いていた。
「ここはソロヴィの部屋か? 俺に何の用だ?」
「…………」
何も言わず、隣を叩いて示す。微かな抵抗を内心に感じつつ、俺は彼女の隣に座った。ベッドが沈み込む。彼女の方を向くと甘い匂いがした気がした。風などないはずなのに、一瞬だけ、そして消えた。
「タケシくんは、旧人類なんだって?」
「ああ、そうだな」
「それなら魔法は使えないんだよね」
ほんの少し俺に擦り寄り、彼女の手が俺の手をとった。しばらく俺の手を押したり、撫でたりしていた。されるがままの俺は、情けないことに、彼女の肩や胸に視線を彷徨わせていた。
「私、けっこう自分は理性的な方だと思うんだ」
「へぇ」
「だけどそれでもダメなの。その気になっちゃうと、もう我慢が効かなくなる」
「そう、なんだ」
相槌を打とうにも、俺はそれを肯定すべきなのか、否定すべきなのか。それがわからなかった。彼女が俺の手を握る力が少し強まる。
「ねぇ、タケシくん」
「なんだ?」
彼女は俺の右手を、自分の胸元に抱き寄せた。柔らかい感触がした。
暗がりにあって、もしかすると俺の姿は、落ち着いて平然として見えているのかもしれない。だが内心はその真逆で、落ち着かず興奮している。平然としてみせようと思っても、この場合の平然とは何かがわからない。
「…………」
俺の方から何か声をかけようとして、彼女の息が微かに熱っぽいことに気づく。彼女もまた、内心は興奮しているのだろうか。俺の手を抱きしめる力が強まる。それでも、痛くもない程度だが。
「私、我慢できない。欲しい」
なにが欲しい? なにをして欲しい? 訊いていいなら言葉にして欲しいところだが、そういう空気ではない。察するに、つまるところ、彼女が欲しいのは……俺の男性?
「タケシくん、嫌かな?」
「えっ? や、そんなことは、なんというか……」
俺がしどろもどろなことを言っていると、彼女はこんなことを言った。
「私どうしても欲しいの。この右手」
「…………へ?」
聞き間違いか、あるいは何かの比喩なのか。俺の右手?
「魔法は使えないから、魔力ではない。でも見たところ普通の手だし、いったい何がリオンの錬金術を完成させるのかしら」
「ソロヴィ?」
「錬金術の知識もなく、何かの技能があるわけでもない。となるとこの右手に何か、魔法とも科学ともつかない未知の力があるのかしら……やっぱり欲しいなぁ。解明したい」
「あの、右手が欲しいってのは、どういう?」
あれか。自分の研究の被験者になれということだろうか。正直それも嫌だが、彼女の答えはその斜め上だった。
「できれば右手だけ切断してほしいかな」
「嫌だが!?」
咄嗟に手を引き戻した。ソロヴィは名残惜しそうな顔をしたが、あのまま好きにさせているのは気持ちが悪い。
「もちろんタダでとは言わないわ。私にあげられるものなら、なんでもあげる。お金でもいいし、カラダでもいいよ?なんでも言うこと聞いてあげる。だから、ちょうだい?」
「ダメ!」
「痛くないようにするから!」
「ダメだ!」
「私も右手を落として、交換ならどうかしら?」
「意味がわからない!」
可愛い顔してなんてことを言うのか、この子は。
「でもよく考えてみて?リオネードを使えば右手はまた生えてくるわ。つまり、実質プラマイゼロ。なにも失わないのに私からのお礼は貰えるのよ?こんなにいいことずくめの話ってなくないかしら?」
「うっ、いや、それは、そうだけど」
だんだんと退路を断たれていってる気がする。感情を抜きにして考えれば、もう断る理由が思いつかないくらいだ。
「変に意地張らないで、私に身を任せていいのよ? あなたはただ受け入れればいいの」
「だけど……」
俺の脳裏を過るのは、リオンの顔だった。なぜだろう。俺とリオンはなにも恋仲じゃない。
「でも……」
恋仲ではないが、それ以上でもそれ以下でもあるような。
「…………」
彼女は待つつもりのようだ。俺がちゃんと答えるまで。
もしかして右手をあげるくらい大したことじゃないのかもしれない。俺の時代でも臓器や血液を他人に差し出すことくらい、あったじゃないか。失った右手もリオネードで治せるなら、なにも失うことはない。
「欲しいなら、私自身をあげてもいいよ? 男の人って、私みたいな女の子好きでしょ?」
綺麗な髪に綺麗な肌、整った顔立ち。やや小ぶりながらも膨らんだ胸。抱きしめた時に、心が安らぐだろう、厚さ三ミリほどの肉付き。
表向きは清楚で品があるも、二人きりの時は積極的。なるほど確かに可愛いじゃないか。俺も彼女が魅惑的に思える。思えるのだが。
「ソロヴィ、そういうことは軽々しく言うな」
「私、他人なんてどれも同じに見えてるの。だけどタケシくん、あなたは別。ちょっと興味ある……かも」
「欲しいのは右手なんだろ?」
「右手も欲しい。だけどそれだけじゃない。あなたのロステクの知識の源泉も、謎に包まれた故郷のことも。あなたの故郷のニホンってとこ、ただの名もなき小国ではないよね?」
「どうかな」
この子にニホンのことを話したら、どんな顔をするだろうか。そんなことが頭に浮かぶほど俺の感覚が狂いつつあるところで、ドアを叩く音がした。
それもかなり激しく。
「なにかしら?」
ドアを叩く音は次第に激しさを増す。最後には体当たりのような。
「誰なの? 答えて」
待てども、それに応える声はない。
ソロヴィは立ち上がり、ドアの方へ向かおうとする。
「待て、ソロヴィ。誰だ? 心当たりはあるのか?」
彼女は首を振る。例えば家族の中に誰か、粗暴な者がいるのならば、それが心当たりになるはずだ。兄は、いつもドアを強く叩く、とか。もしくは飼っている大きな犬が、ドアに体当たりする癖がある、とか。だが、そういうわけではないらしい。
「なら……俺が行く」
不規則なドアの音は止まない。ドアを叩く音は廊下側から。明らかに異様な状況。これが家族の仕業でないとすれば、考えられるのは……外部から何者かが侵入してきていること、だろうか。それは何者なのか。下にいたみんなはどうなったのか。
ドアの一枚を隔てた向こうにはもう、日常はないのか。
右手を握り拳にして、そっとノブに左手をかける。ドアは内開き。ノブを回せば、叩きつける勢いでドアが開かれることだろう。
俺は、そのノブを回した。