第2話3節 満ちる寒気
商売は大成功、お金に余裕もできたタケシ。
秋も深まり街路樹も紅くなる今日この頃、この街の秋は俺の知る秋よりも数段冷えるのだった。
俺は、凡人では一生かかっても買えないような豪邸を買った。
リオンにも見せたあのカタログ「あなたのブルジョワジーにジャストフィット! 豪邸大特集 ~開放的な豪邸を、青天井なお値段で~」から選んだ豪邸である。一人では広すぎる豪邸にリオンと二人で住んでいるが、それでも広すぎる。広すぎて管理が行き届かないところが出てくるようになったくらいだ。だから一人メイドを雇ったのだが、この広さが自分の器量の大きさだと考えると気分がいい。
風呂上がりの俺は白いバスローブに身を包み、セラーから取り出したワインをグラスへと注ぐ。大きな窓からは、星が見える。芳醇な香りに、満天の星。最高にいい気分だ。
「ご主人さま」
背後から、メイドが声をかけてくる。
「ワインにチーズなどいかがッスか?」
「気が利くね。いただくよ」
「自分、デキるメイドッスから!」
はきはきした声と、人に好かれそうな笑顔で彼女が差し出してくるのは、やはり最高級のチーズだ。香りもいいし、口に含んだ時の香りもワインとよく合う。
「リオンは何してる?」
「ご主人さまと入れ替わりでお風呂に入ったッス」
「泡の方?」
「そうッス」
俺が主に使っているのは、温泉の大浴場をイメージしたものだ。そしてそのすぐ横にリオンのたっての希望で、一人用の湯舟が据え付けられている。ゆったりと寝姿勢で浸かることができる大きさがあり、聞くところによると泡やバラの花びらを浮かべて入浴しているという。
「お湯に浮かべた花びらを少し持ち上げては落とすという動作を、ひたすらに繰り返しているみたいッス」
「なぜそんなことを?」
「優雅だからじゃないッスか? それを言ったらご主人さまも、お風呂に入るたびに『生き返る~』とか『いい湯だ~』とかずっと言ってるじゃないッスか」
「え、そんなに言ってる?」
「言ってるッス。一回の入浴で七セットは言ってますね」
マジでか。そんなに言っていたか。自覚がなかった。自分の中のオヤジ臭い一面を受け入れつつ、俺はふと思い出したことを訊いてみた。
「ベッドの用意はできてる?」
「メイドを性的な目で見ないでほしいッス!」
「そういう意味じゃない! ほら、頼んでおいたヤツだよ」
「ああ、あれのことでしたか。準備できてるッスよ」
「よしよし」
「まったくどうしてベッドにあんなものを。ご主人さまは変態ッスね」
「そういうことを目の前で言うな」
彼女の名前はラースタチュカ。クリーム色で癖っ毛の頭をした少女だ。よく整った顔をしていて、見た目のポテンシャルはかなり高い。そんな彼女のことを俺は愛称で「ラスタ」と呼ぶ。
「あ、ご主人さまが眠るなら、自分、お風呂に入ってもいいッスか!?」
「ああ、いいぞ」
「それでは遠慮なく入らせていただくッス!」
ラスタはうちの風呂が気に入っているらしい。別に勝手に入ってくれてもいいのだが、彼女は「それはメイドとしてはイケナイことッス!」と言って、必ず俺の了解を得る。得られないと入らない。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさいッス、ご主人さま」
寝室は二階にある。間接照明を利用して、ムーディで落ち着いた部屋に仕上がっている。ベッドは職人がひとつひとつ手作りしたこだわりの逸品だ。その寝心地はまるで、雲の上に寝ているかのよう。
今日はそんなベッドのわきに、小さな金庫を用意した。これは特注の品で、薄く、軽量なのが特徴だ。で、それを何に使うかというと。
「うーん、このひんやり感」
抱き枕である。いつしか俺に生まれていた「お金を抱いて寝たいという」欲求を叶えるために用意したのが、これ。中身もぎっちり詰まっていて、機能的には本物の金庫である。
柔らかなベッドに、固めの枕。そして大好きなお金の詰まった抱き枕。俺の安らかな眠りを誘導する。
メイドに起こしてもらうなんて経験をできる人種というのは、どこの世界でも限られていることだろう。俺は見事その稀有な方の人種になれたのである。
「ご主人さま、起きてくださいッス! 朝が来たッスよ! 気持ちのいい朝ッス!」
たとえそのメイドが、メイドというより運動部の後輩みたいな性格をしているとしても。
「ラスタ。もっとこう、メイドっぽく清楚な感じで起こしてはくれないか?」
「? メイドっぽくも何も、うちがメイドそのものじゃないッスか」
「そうだよな。ごめん、変なこと言った」
「もう。いつまでも寝ぼけてないで、早く顔を洗ってきてくださいッス」
顔を洗ってからダイニングへ行くと、朝食が用意されていた。別に高級感などない、だがラスタが作ってくれた朝食だ。ブレッドにジャム。そしてミルク。
先に食卓に就いてたリオンは、俺を見るなり話しかけてきた。
「タケシ、今日はいよいよだね?」
「いよいよ?」
今日はなんの日だったか。休みの日には違いないが。
もう昔のように身を粉にして働かなくても、経営は安定している。優秀な人材も手に入れたので、俺は余暇を満喫できるようになった。ゆっくり過ごすのもいいし、アクティビティに興じるのもいい。最初の露店販売からまだ一年も経っていないが、思えば上り詰めたものだ。
なんて感慨に耽っていると、リオンが思うところを口にした。
「何言ってるのさ。今日はお買い物に連れてってくれるって言ってたじゃない」
「お買い物……」
「あとミツボシシェフのお店も。予約するって言ってたけど、とれたの?」
ミツボシシェフ。本名はジャン=ピエール=ミツボシ。彼の店のキャパシティはたった一組。一般家庭なら三ヶ月は暮らせるような金額を要求してくるが、彼はどんな相手も幸せにする料理を作るという。それには俺も興味があった。
「それから、これが一番大事なんだけど……」
しかし、だ。
「ごめん、今日は予定があるんだ」
「え? なんで?」
さぞや驚いたような顔をするリオンに、俺はなにかできることはないかと考える。そして俺は財布から一〇〇〇〇ハンスほどを抜き出して、こう言った。
「今日はこれで遊んで来なさい」
「…………うん」
反応はイマイチだった。だけど今日の俺には予定がある。他の社長仲間たちと一緒にゴルフをするという予定が。リオンとしたという約束については、不思議と全く覚えていないが。
「ラスタ。ポロシャツとゴルフバッグを用意しておいてくれ」
「かしこまりッス」
社長の嗜みだからと思って始めることにしたのだが、はてさて。ラスタが用意してくれたバッグの中には、ピカピカした新品のクラブが収められている。
「じゃあいいよ。私はひとりでまた旧市街にでも遊びに行ってくるから」
「悪い、買い物はまた今度な」
俺はそして、意気揚々と家を出たのであった。
その翌朝、起き上がった俺のコンディションは近年で最低だった。
「あ……ぅ……」
頭が痛い。がんがんする。気持ちが悪いが、どうやらちゃんと自宅に帰ってくることはできたらしい。リビングのソファで目が覚めた。
意味もなく部屋をうろつきながら、昨夜のことを思い出す。まず、ゴルフだ。初めこそ下手くそだったものの、半分もホールを回るころには脱ルーキーと言ってもいいくらいには上達した。きっちりボールの芯を捕らえたショットのあの爽快感は、日ごろの鬱憤もまとめてかっとんでいく感じがする。
その後、シャワーを浴びたら夜の繁華街へ。
最近になって始めたキャバクラ通いだが、昨日のはたいがい派手だった。他の社長連中も見栄なのかなんなのか、高いお酒を入れるものだから、俺も負けじと張った。両脇にキャバ嬢を抱え、浴びるようにお酒を飲んだ。
ポケットの中から、お店の領収書が出てきた。すごい金額だったが、たぶん小切手を切って払ったのだろう。覚えていないが。それよりも今は、体の不調をどうにかせねば。無駄に動いたせいか、二日酔いが悪化した気がする。
「み、みず……みず」
ラスタでも呼ぼうかと思ったら、テーブルの上にポーションが置かれている。状態異常を回復するタイプのものだ。それを誰が用意したかなんて、俺は考えなかった。ありがたくポーションを戴いて二日酔いを回復した。
それからシャワーを浴びてリビングに戻ると、ラスタが俺を呼び止めた。
「ご主人さま、お客様が来られているッス」
「誰なんだ?」
「シーマイナー=アルペジオって言ってたッス。小さな女の子でしたけど、知ってるッスか?」
「……シーマイナー?」
ボロ屋に住んでいる頃に会った白い髪の少女。あの子が確かシーマイナー=アルペジオとかいったか。ということは、借金の催促だろうか。
彼女の姿を思い浮かべてから、俺はラスタに指示を出した。
「なるほどな。いいだろう。ラスタ、ここに呼んでくれ」
「え? 客間でなくていいッスか?」
「ここで構わないよ」
そしてしばらくして現れたのは、あの時のように黒い服を着た白い髪の少女がやってきた。俺はソファに座ったまま彼女に声をかけた。
「やあ、シーマイナー。何しに来たんだ?」
「用件なんてひとつしかないですよ」
「まあ、座れよ」
「急にあのボロ屋がなくなって、探すのには苦労したですよ。こんないい家に住んでるくらいだから、きっとお金はたくさん持ってるですよね?」
俺が座るように促しても、彼女は従おうとしない。ラスタがお茶を持ってきてテーブルに置いてくれたが、ちらりと目をくれてやるだけで手を伸ばそうとする気配もない。そんな妙な雰囲気の来客に、ラスタは俺を心配してか部屋に残っていた。
「ラスタ、部屋を出ていてくれ。込み入った話をするから」
「そうッスか。なにかあったら呼んでくださいッス」
彼女が出たのを見届けてから、俺は話の続きに切り込んだ。
「ちゃんと確認したことなかったけど、リオンの借金ってのはいくらなんだ?」
俺の質問には答えず、彼女は近づいてきた。座るのだろうかと思ったが、そうではなかった。
「ざっとこのくらいです」
彼女は懐に忍ばせていた紙を俺に提示した。そこには、なるほど、とてもリオンでは返せないような金額が載っていた。でも今の俺なら返せる。
「おいくら返せるですか?」
「とりあえず座ったらどうだ?」
「それよりおいくら返せるですか?」
「強情なこった」
俺は小切手に金額を書いて見せた。
「…………少し多いですよ?」
「端数まで書くのはめんどくさい。手間賃だと思って持っていけ」
「ずいぶんと羽振りがいいですね。それより早くそれを渡すです」
「領収書と交換だ」
今度はソファに座り、テーブル上で領収書を書いている彼女を見て俺は思った。
「シーマイナーって、けっこう可愛いな」
「…………」
一瞬だけ顔を上げた彼女だが、すぐに手元に視線を戻した。
「ちょっと待っててくれ」
俺は隣室へ行き、あるものを持って戻って来た。金額の記入された領収書が彼女の前に置かれていた。逆さに見えるその数字を確認すると、俺は話を切り出した。
「シーマイナー。君、うちで働かないか?」
「……なにを言い出すです?」
「君みたいに可愛い子なら、うちの新たなアイドル店員になれると思う。どうだ?」
「興味ないです」
俺の小切手をひったくり、約束どおり領収書を置いて立ち去ろうとする彼女の小さな背に、俺は声をかける。
「五パーセントくらいか?」
背を向けたまま立ち止まる彼女。俺の声は届いている。その意図するところも届いている。
「君の手元にやってくるのはおおかた、回収したうちの五パーセントくらいか? いや、もうちょっと渋いかな。誰も彼もが俺のように大口で返せるわけじゃないだろうから、けっこう生活は厳しいんじゃないか?」
「お金の問題じゃねぇです」
振り返った彼女はそう言った。
「寝る場所もない私を拾ってくれたのが、ウシミツの人たちです。確かにお金は、たくさんはもらえてないです。それでも私はこの仕事に誇りを持ってるです」
そう言い切る彼女の真ん前まで近づいて、俺は持っていた札束で彼女の頬を撫でた。
「はぅ……」
「でも、欲しいものがあるんじゃないか?」
「…………」
「お金、必要なんじゃないのか? ん?」
「…………」
何も言わず、彼女は視線を逸らした。
彼女から渡された領収書に書かれていた金額。それはリオンの借金の金額そのままだった。確かに俺は手間賃として持って行けと言ったが、もしも彼女が本当に忠誠心でウシミツファイナンスにいるのなら、受け取った金額をそのまま渡してもいいはずだ。
だが彼女はそうしていない。つまり口では心意気を語りつつ、心の中ではお金に困っているのだ。
「お、お金の問題じゃねぇです! ウシミツの人たちは、優しくて気のいい人たちで、私の仲間です!」
「でもお給料はあんまりくれない」
「私はこの仕事に誇りを持っているです!」
「お金が要るんだろ? 正直になれよ。別にお金が必要なのは恥じることじゃない」
「お金の問題じゃねぇですって、何度言えばわかるですか!」
「だまらっしゃい!」
「はうぅ!?」
俺は札束で彼女の頬を強く叩いた。叩かれた彼女はよほどショックだったのか、膝をついて「あ……え……?」と忘我の様子だ。
そんな彼女の顎を札束でくいと持ち上げ、俺はその目を見て言った。
「そんな綺麗ごとが聞きたいんじゃない。俺が訊いているのは、お金が要るかどうかだ」
「おかね……」
「お金、要るんだろ?」
「おかね、いるです……」
「お金、欲しいんだろ?」
「おかね、ほしいです……」
「ならこの契約書にサインしろ」
「さいん、するです……」
俺がそのサインを確認して、しばらくすると彼女はようやく自我を取り戻した。
「あれ、私、何を……え? はっ!? この契約書は!? えっ!?」
契約書の内容は、うちのお店で働くことを約束するものだった。さらに副業を禁じる内容や、契約違反のあった場合の違約金の他、自己都合による退職をする場合にも違約金が発生することなども書かれている。この国には労基法など存在しない。お金に余裕のない彼女はもう、俺に逆らうことはできない。
「それじゃ、シーマイナーのお仕事は来月からだから。よろしくね」
「私もしかして、とんでもないことを……!?」
青くなっている彼女に、俺はさっきから使っていた札束を押し付けた。
「ほら、持っていけよ」
その一万ハンスの札束と俺とを交互に見た彼女が、これはなんだろう? という顔をするから、俺は言葉にしてあげた。
「いいか? これはな」
「これは……?」
「シーマイナー、君が、自分と、仲間たちを売って作ったお金だ」
「!?」
彼女はその後、泣きながら部屋を出た。
肌寒さが一段と深まっていき、もう俺の感覚的には冬だった。だが、この国はまだ秋なのだとか。そんな温度の違いを感じながら、俺は自らの温度も感じていた。
「これたぶん、九度五分ある……」
風邪だった。
起き出てから身支度をしている間に、みるみる体が重くなっていった。ちゃんと服も着ているはずなのに、体の内側からゾワゾワとした震えを感じる。最近、平日は仕事、休日は社長連中との交流会と忙しくしていたから、疲れが出たのだろうか。
ふと昔のことを思い出した。俺が体調の悪いことを伝えると、そういえばお母さんは葛根湯と白湯を用意してくれたっけか。暖かくしなさいって言ってくれていたのに、俺は分かってるよと言って感謝すらもしなかった。
……あ、これはまずい。
「リオン」
俺はキッチンで見かけたリオンに声をかけた。
今日はラスタはお休みだから、朝食は質素なものだ。彼女は手に持ったコッペパンを離すことなく、俺を振り返った。
「あら、タケシじゃない」
「俺、今日はどうも体調が」
「ふーん」
あれ、反応が薄い?
「きっと疲れてるんだよ。私と遊ぶのは断るくせに、夜通し遊びに行くから」
「え、ああ、そうかもしれない」
事実だった。得意先との接待であることを言い訳に、俺はリオンの買い物に未だ付き合ってやれないでいた。
「テーブルの上にポーションを置いてあげても、どうやらタケシはいつも飲んでないみたいだしね。だって飲んでたらお礼のひとつくらい私に言ってくれるはずだもんね。そうでないにしても、少しは悪かったかなって思って、私を遊びに誘ってくれるはずだもんね」
これは……また別の意味でまずいことになっている。もしかしなくてもリオン、怒ってる。
「リオン、悪かった。今度ちゃんと買い物でもなんでも付き合うから」
「さてー、今日もお仕事行かないとなー」
「リオン……」
「ツーン」
今まで、こんなことはなかった。集中している時に話しかけても気が付かないことはあったが、こんなに明確にツーンとされたのは初めてだ。
そんなに行きたかったのだろうか。たかだか買い物に。
俺だって完全に遊びというわけではないのだ。俺が休日を使って取引先のオーナーや経営者と交流をすることで店の商品が充実していき、売り上げも伸びるのだから。そもそもが、リオンのお給料は誰が店に集めたものなのか、俺が客に提供する品を仕入れているからこそ、客がお金を落としてくれるのではないのか。それを、遊びに行きたいからってへそを曲げるなんて……わがまますぎる。
人間なんて誰も彼も自分勝手だ。
例えば今、俺がすべての金を失ったとしたらどうなるだろう。それでも俺の名前を呼んでくれる人間はいるだろうか。
「……くそ」
誰のおかげで飯が食えると思っている、なんてことを言うつもりはない。
こんな風邪がなんだ。少し栄養のあるものを食べれば治るだろう。リオンの激マズポーションに頼る必要なんてない。
家にいたころには、母さんがお粥を作ってくれて、栄養ドリンクも用立ててくれた。そして食べ終わると、急かすように早く寝ろと言ってくれた。
でもここは異世界だ。最近は少しばかり成功したから忘れかけていた。親の扶養に入って、学校では失敗しても怒られるだけで済んで、誰かに頭を下げて金を稼がなくても生きていけるような、そんな現代日本とは違う。生きようとしなければ、死ぬ。能のないやつも、怠惰なやつも、弱者はまとめて死ぬだけだ。
だが幸いに、俺を利用している者たちがいる。リオンを含めた店舗の従業員たちもそうだし、品を仕入れている卸もそうだ。最近では錬金アイテムは工場へ生産を委託しているから、その工場の連中もだ。役所の奴らだけは税金を搾取するばかりで、見返りらしい見返りを与えてはくれないが。
そうだ。
誰も彼もが自分勝手で、利用価値と利害でつながっているだけに過ぎないのだ。もしも俺の商売が傾けば、皆が手の平を反すように離れていくだろう。自覚を新たにする必要がありそうだ。リオンのためにこの世界に残ろうなんて、勢いでとんだ決断をしてしまった。
だが俺は俺はもう帰れない。歯が軋むような音を立てたのは、震えのせいか、それとも……。
ぼんやりしていく頭で、俺にはある情景が浮かんだ。
「次のお休みにさ、お買い物に付き合ってほしいんだけど」
「○○○、○○○○」
「やったー! 約束だからね!」
…………。
そうか、俺が忘れていたのか。ある晩、社長連中との夜の付き合いの後、家に帰った俺にリオンがそう言ったんだ。俺はそれを翌日にはすっかり忘れてしまっていたが、当然にリオンは覚えていたのか。
熱が引いたら、俺は行かねばならないところがある。
「甘えたことを言ってんな。こっちはビジネスでやってるんだ。遊びじゃない」
「分かってます。だから私も一生懸命に仕事してます。でも私は、ここの従業員であると同時に学生なんです」
最近は他人と衝突することが多くなった。ちなみに今回はイアがテスト勉強のために休みを余計に欲しいと言い出したことが発端である。
「以前は認めてくれたじゃないですか。どうして突然」
「来週から新人の教育に当たってほしいと思ってるんだ。休まれると困る」
「聞いてません。それならそうと早く言ってくれていればよかったのに」
「休まれるなんて思ってなかったからな」
「その言い方、まるで私のせいみたいに。でも私はテスト期間が近いんです。休ませていただきますから」
「はぁ。それじゃあ新人教育は延期だな。かわいそうに。研修が伸びると給料の発生時期も遅れるのに」
「知りません。かわいそうだと思うなら研修の期間にもお給料を支払えばいいじゃないですか」
「俺の故郷じゃそうやってるけどな。俺はやらない」
「そうですか」
誰かが割を食わねばならないのだとしたら、俺はそれが自分でないように立ち回るようになっていた。誰かが不幸になることに目を瞑れば、これが楽でよかった。
あとは、頼るあてもないこの世界で舐められないようにすることも目的の一つだった。
「まったく……」
その夜のこと。リオンが話しかけてきた。
「あのね、この間のことなんだけど、ごめんね」
「うん?」
この間のこと。どの間のどれ? 俺が考えていると、向こうから答えを明らかにしてきた。
「気づいてはいたんだ。タケシが具合悪そうだったの」
「ああ、あの時か」
「でも私もね、寂しかったんだ。だからちょっと冷たくしちゃったけど、イアにこのこと話したら、『タケシさんは、優しくしてほしかったんじゃないの?』って」
「別にそんなことは」
「私もちょっと自分勝手だった。だから、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。謝らなくていい」
「でも……」
「いいんだ。謝る必要はないよ。だって……」
だって今の俺は、それを謝るべきことと思っていない。それに謝られてしまったら、俺がかわいそうだ。
「むしろそれくらいのエゴがあってこそ、商売はうまくいくってもんだ。策略、計略、打算……いいじゃないか」
「そうだね。そのおかげで私はさんざん贅沢できた。毎週美味しいものを食べに行けた。最近話題だっていう魔法エステにも行けた。習い事なんかもしてたんだ。……タケシの稼いでくれたお金で」
「…………」
「高い服も買った。高いバッグも買った。高いコスメも買った。高級なお店の並んでる通りのほとんどのお店に詳しくなったよ……タケシのお金を使って、私がひとりで」
「……リオン?」
「最初はタケシに感謝してたのに、最近じゃ当たり前に感じてた」
彼女は申し訳なさそうにしている。その様子を見て俺に湧きあがった感情の名前を、俺は知らなかった。
「いいじゃないか。使える金があるなら、使えばいい。使ったらまた稼げばいい。みんなそうやって生きてる」
「それなんだけどさ」
彼女は続けた。さらに深いトーンで。俺は足を組みなおしてその続きを聞いていた。
「私やっぱり、お金なんかなくても平気だよ。でも、寂しいのは平気じゃない」
「どういう意味だ?」
「だって前までは素材集めもひとり、野営もひとり、錬金もひとり、全部ひとりでやってた。それで平気で、それが普通だった。全部ひとりで平気だったのに、今はひとりじゃ寂しいって思うようになってる。お買い物も、食事も、お金が降って湧いたような環境なのに、ひとりじゃなんか寂しいって思うんだ」
「リオン」
「こんなこと言い出すのもそうなんだろうけど、私が勝手すぎたんだよね? だからタケシは約束のこと忘れちゃったんでしょ? きっと私のこと大事じゃなくなったのかなって……思う」
「聞きたくない」
「え?」
「聞きたくないって言ったんだ。そんな言葉、聞きたくない。俺は、これでいい。俺のやり方を否定しないでくれ」
「でも、でも!」
「大方、昔みたいに気楽に暮らそうと言い出すんだろ。休みも少ないし、仕事自体もハードだ。昔が懐かしくなってきたんだろ? でも、これが金を稼ぐってことであり、これが生きるってことだ」
「…………タケシ、変わったよね」
「は?」
「みんな言ってるし、私もそう思う。昔のタケシは、いろんなことに気を配ってた。スタッフさんたちのこと、いつもちゃんと見てた。でも今は違う。かえって自分のことで頭がいっぱいって感じだよ。周りに配る目もないくらい」
「なん、だと?」
それを聞いて、怒りがわいた。
「言うに事を欠いて、俺が自分のことにかまけてるだと? 誰のおかげでみんな、飯が食えてると思ってるんだ。他所よりよほど高い給金を支払ってるってのに!」
「……私たちのがんばりは、タケシのそれと比べると劣るの?」
「がんばれば金を稼げる環境を用意しているのは俺だ」
「私、タケシに酷いことしてたのかもしれない。だけど今のタケシもあまり褒められた態度じゃないわ」
「それ以上は何も言うな。それ以上言うと、もう取り返しはつかないぞ」
「お願いだから昔のタケシに戻って。でないと、後悔する」
「善処する」
そう言うと、彼女は立ち去った。残された俺に残ったのは、怒りと、それから怒りとも悔恨ともつかない感情だった。彼女は何を言いたかったのだろう。俺はその意味に気づくことなく、冬を迎えるのだった。
翌週、店にシーマイナーがやってきた。今日から彼女もこの店の一員だ。本当ならイアに教育係を頼もうと思っていたのだが、仕方ない。
「みんな、こっちに注目してくれ。この子が新しくここで働くことになったシーマイナー……あれ? なんか少なくない?」
事務所の中に入ると、そこにはスタッフさんたちの姿が。ただ、いつもとすると人数が少ないような? シーマイナーを見つめてみても、彼女は僅かに首を傾げるだけで答えをくれたりはしない。
「まあいいや。いる者だけ聞いてくれ。この子はシーマイナー。今日からここで働く仲間だ」
ぱらぱらと「よろしくー」「どうもー」とか、やる気のない返事が聞こえるばかり。何かがおかしい。今まで新しいスタッフが入って来た時にはみんな拍手をして出迎えてくれて、新スタッフはまるで転校生よろしくみんなの中心になって質問攻めを受けていたはずなのに。
「……それで、私はどういうことをしたらいいですか?」
「あ、ああ。シーマイナーには売り子をしてもらおうと思ってるんだ。簡単に教えるから、後はリオンについて仕事のやり方を覚えてくれ。……リオンは? あれ、リオンはどこだ?」
事務所内にはいないようだ。おかしい。開店間際のこの時間にはいつも事務所の中にいるのに。トイレだろうか。
「それで、私は何をしたらいいですか?」
「うん。えっと……」
ひとまず言葉では教えておいた。後は実際に店に立って慣れながら覚えてくれればと思ったのだが、ついにリオンは姿を現さなかった。
「…………」
「…………?」
シーマイナーを見つめるが、彼女をひとりで店に立たせるのは無謀だ。
「ねぇ、みんな、リオンを見なかった!? 誰か、リオンを知らないか!?」
しかしスタッフからの返事はない。
というか、スタッフがまた減っている気がする。さっきまでは目で数えるくらいの人数だったのだが、今は数えるまでもないくらいの人数しかいない。
「どうしたことか、これは」
「タケシさん。聞いていた話だと、もうそろそろ開店の時間みたいですけど」
「う、ほんとだ」
仕方がないので、俺とシーマイナーで店に立った。
しかし当然ながら、うまくはいかなかった。まずリオンやイアを目当てにやって来た客は踵を返した。そして普通にアイテム目的の来客には、俺ひとりではどうにも対応できなかった。そして後ろにくっついていたシーマイナーは他の客に引っ張られていったが、そこではなにもできず、店を後にする客をただ見ていただけのようだった。
売り上げは全然なかった。
「くそーっ! リオンの奴め! ちょっと喧嘩したからって無断欠勤かよ! 許すまじ!」
「タケシさんも変わり者なら、お店のしきたりも変わっているですね。みんな帰る時には置き手紙をするですか」
「は?」
シーマイナーの見つめる先のデスクには、置き手紙。
『捜さないでください』
『もう来ません』
『ついていけません』
などなど、短い文章が綴られていた。
「帰る時にはいつも置き手紙、ですか」
「これはもしやさてはとてもかなりまずいのでは?」
青ざめる俺の隣で、シーマイナーが「今日はもう終わりですか?」と訊いてきたので、俺は「そうだな」と言った。今日「で」もう終わりにならないことを祈りながら。