タイムリミット
イーターである人面虫を相手に敗走した私達はひとまずログアウトして、今後のことを考えることになった。頭に装着していたNW専用VRを取り外した私は、朝日を浴びようと部屋のカーテンを開ける。
しかしカーテンを開けても光は差し込まない。変わりに目に飛び込んできた光景は異様な物だった。
空は曇り、ポツポツと水の滴る音。ここまでは普通の雨と変わらない。問題はその雨の色だ。
「なにこれ……血の雨?」
その色は赤黒い。まるで血が降っているようだ。
窓には血の雨が飛び散り紅く染まっていて視界が悪い。窓を開けて確かめるか? いや、この血の雨の正体がわからない以上、迂闊に行動出来ない。人体に影響のあるものだったらどうする。
時刻はもう朝の6時過ぎ。
お母さんも雪ちゃんも起きている頃だ。私はひとまず自室を出て一回のリビングに向かう。
「おはよう。お母さん、雪ちゃん」
「呑気におはようなんて言ってる場合じゃないよお姉ちゃん! ニュース見た!?」
「いや、まだ見てないけど」
「赤乱雲で大変なんだよ。赤乱雲!」
「積乱雲? 上昇気流の影響でビルみたいに長い雲になるアレ?」
「違う! 赤い雲が空いっぱいになって赤い雨が降っている現象! 二時間くらい前から発生して世界中が混乱してるよ」
赤乱雲? なんだそれは、と思いTVに視線を移すと、TVには赤い雨に打たれながらリポートをするリポーターが映っている。
正気か? と思ったが、体が吹き飛ばされそうなくらい強い台風の中でも野外でリポートさせる世界だ。これくらいはやっても不思議はないか。
大量の血の雨はもちろん、空にかかる雲もまた赤く染まっていて不気味だ。先程イヴさんが言っていたことが確かならば、世界の終焉に関係ある事象なのか。リポーターはレインコートを身にまとっているが、吹きつける赤い雨に打たれて、まるで返り血を浴びたかのような状態になっていて、正直気分の良い物じゃない。
というか、世界中が赤乱雲に覆われているのだろうか?
雨季や乾季なんてお構いなしに? ならば、間違いなくイーターが仕掛けてきたと見ていいだろう。
「お母さん、空のペットボトルってあったっけ?」
「ええ、確かまだ潰していないのがキッチンにあるけど」
地球にどんな影響があるかわからないが、とにかく危機的状況なのはわかる。
私は水道の蛇口をひねってみる。水道からはいつも通りに清らかな水が出てきた。私は空のペットボトルにその水を貯めていく。
「茉莉ちゃん、なにしてるの?」
「飲水の確保しておこうと思って。もしかしたら、そのうち赤い水しか出なくなるかもしれないから」
このまま血の雨が降り続けたら綺麗な水はなくなり、植物も育たなくなり食料や飲水も供給が止まる。餓死する人もいれば、少ない食料を巡って争いをする人も出てくるかもしれない。
イーターはどんな方法で世界に終焉をもたらすのかと思っていたが、どうやらバイオテロで人類を壊滅させる方法を選んだらしい。
「茉莉ちゃん、暗い顔しているけど、どうしたの? 悩み事?」
「……うん。悩みっていうか、お母さん、雪ちゃん。この雨が世界の終焉の合図かもしれないって言ったら、信じる?」
確証なんてない。いたずらに動揺させるだけかもしれない。不安を煽るだけなのかもしれない。だけど私にはこの二人を追い込まないといけない理由がある。
NWに移住するための条件は、NW専用VRを保持し、登録を済ませてNWにキャラクターを作っておく事。この2つは予め私の指示でお母さんにも雪ちゃんにもやらせてある。つまり第一条件はクリアだ。
この混乱で急いで専用VRを注文して出遅れる最悪の事態は防げたと言える。
だが、これだけでは魂の新しい乗り物を用意しただけだ。問題は魂の乗り換えをする意思があるかどうか。
NWに完全移住するにはNWで生きたいという強い意志がないと成立しない。
例え口ではNWに移住すると言っても、心がそれを拒否した場合は、魂はNWへの転送を拒絶して失敗となる。その場合は記憶だけがNWに転送され、魂だけがリアルの肉体に還ってくるので、記憶を失った状態になってしまうのだ。
つまり私はお母さんと雪ちゃんを世界の終焉から救うには二人に『NWで生きたい』と思わせなければならない。
さぁ、二人はどう出る?
「信じられるわけないでしょ。そもそも空から何か降ってくるのなんてよくある事だし。ちょっと珍しい事が起きてるだけだよ」
う、雪ちゃんは全面否定か。手強いなコレは。
NWのキャラはすんなりと作ってくれたが、いざ移住となるとそう簡単にはいかない。まぁ、誰だってそうだろう。NWに限りなく近い私ですら世界の終焉を疑っていたのだから、雪ちゃんが否定的な反応をしてもおかしくはない。さてどうしたものかと悩む私に助け舟を出したのはお母さんだった。
「お母さんは信じるわ」
「え……信じてくれるの?」
「家族だもの。顔を見れば本気かどうかくらいわかるわ」
「お母さん……ありがとう!」
私の予想では雪ちゃんよりもお母さんの方が手強いと思っていたのだが、実際は逆だった。お母さんは誰よりも私を信じて、信頼してくれている。私が選択を間違えなければ確実に救える命だ。
「ちょっとママ! それじゃ私が家族じゃないみたいじゃん!」
「えぇ? 違うのよ。そう意味で言ったんじゃなくて、え〜と、そのぉ〜……」
雪ちゃんからの圧でしどろもどろになってしまうお母さん。
先程見せた母の威厳はどこへ。仕方ない、今度は私が助け舟を出す。
「雪ちゃん、私はNWに移住するよ。そして雪ちゃんとも一緒に行きたい」
「でも……信じられるわけないじゃん! 世界の終わりとか! 魂の転送とか……そんなの!」
「私も最初は半信半疑だったよ。けど、NWで色々な物に触れて気付いたんだ。この世界は生きてるんだって」
右も左もわからない私に手を差し伸べてくれた沙耶。
ずっと夢見てきた世界に飛び込む会長。
散りゆく命を繋ぎ止めたヒビキ。
友の歩む道に寄り添うハヅキさん。
ありのままの自分を受け入れてくれる世界を求めた双海さん。
そして、その世界で新しく生まれた命のハナビちゃん。
NWで起こった事、経験した事をありったけ雪ちゃんに話した。執行者の事も人面虫の事も、怖かった事も全部だ。
人面虫の件はNWへ恐怖心を煽る事になるかもしれないが、それを話す事により現実で起きている事を把握してくれる可能性の方が高い。
「お姉ちゃん、そんな危険な事してるの!? NWって避難所なんでしょ? なのにお姉ちゃんがそんな危険な思いしてるなんておかしいよ!」
「うん…うん。でも私はNWでとっても大切な物をいっぱいもらった。だからあの世界を守りたい」
「……お姉ちゃん、強くなったね。あのお姉ちゃんが自分から進んで道を選んで、先頭に立つなんて、昔のお姉ちゃんを知ってたら信じられないよ。でも私はやっぱり怖いよ。いけない……いけないけど……こっちに残るのも怖いよ。どうしたらいいの」
雪ちゃんは目にうっすらと涙を浮かべる。それを見た私は、何をやっているんだろうか、と後悔した。不安を煽ってでも連れていくなんて、間違いだったのかもしれない。私が雪ちゃんにすべきことは安心をあげる事。きっと、それが導く者としての強さなんだ。
「雪ちゃん、私がNWの不安を取り除くよ。だから待ってて」
正直、どちらの道にも正解なんてないのかもしれない。けど、必ずどちらかを選択する時が迫ってきている。どちらの世界にも不安を抱えているのならば、その不安を少しでも払拭してあげればいい。
残念ながら私に地球を救う力はない。だが、NWを救う力なら、ほんの少し持っていると思う。
だから、私が倒してみせる。人面虫を。




