【三日目】海
三日目の朝、部屋のドアをトントン叩く音で目を覚ます。
セットしたアラームはまだ鳴っていない。目の前には沙耶の寝顔、枕の横には昨日買ったジンベエザメのぬいぐるみ。
非日常の風景を視界に、私はゆっくりと体をお越し、トントンと音のするドアのほうへ近付いていく。
(こんな時間に誰だろう……)
時計を見ると朝の5時。いきなりドアを開けるのは危険かもしれない。変質者の可能性だって……。
ゴクリと息を飲んで、ドアスコープを覗き込むと、やはりと言うべきか、予想通りというべきか、変質者が立っている。
「何してるの、双海さん」
ドアを開けて目の前の変質者に問う。
ショートパンツにキャミソールという際どい格好で、顔には化粧用のシートパック。
「ウフ」
「ウフ、じゃなくて……。そんな格好で出歩いたらダメだよ。女の子なんだから」
「こんな時間に起きてる人なんていないから大丈夫だって」
「起きてる人がいない時間に私を起こしたのは何故」
昨日は早めに寝たし、別に早起きが苦ではなかったけど、さすがに5時に人が訪ねてくるとは思わなかった。
「ミドリをおめかししようと思う」
「おめかし?」
「そう! 化粧とか、衣装とか! ヘアスタイルとか!!」
「顔のソレ何?」
「ちょいとばかし化粧の勉強をば」
双海さんはシートパックに覆われた真っ白な顔の前で親指を立てグッとポーズを取る。
今日は自由行動だから何をしてもいいわけだけど、化粧は許されるのだろうか。
旅のしおりにはそんなこと書いてなかったし、少し考え込んでいると私達の声をアラーム代わりに沙耶が身を起こす。
「うう~ん……何事……?」
ぼさぼさの髪に、気だるそうな顔、寝間着が少し乱れてなんともセクシーな雰囲気を醸し出している。
「おはよう、沙耶」
「おはよ、マリ」
「おはよう、姫」
「おはよ…ん? なんで双海ちゃんが?」
乱れた衣装を正して、髪を手櫛でとかし、とりあえず沙耶はその場凌ぎで身だしなみを整える。
「姫って、ひとつひとつの仕草が優雅だよね」
「わかる!」
私は双海さんの言葉に即答した。
寝起きなんて、普通はだらしないイメージが付きまとうけど、寝起きの沙耶に感じた印象はそれとは違ったから。
「そんな姫にお願いがあります」
「お願い?」
「ミドリを姫と同レベルの美人に着飾ってほしいの」
双海さんは、下げた頭の前で両手を合わせ、お願いしますと懇願する。
緑川さんが自分に自信を持てるように、まずは見た目から着飾って自信を付けようと考えたらしい。
「姫くらい美人になったら、ミドリも自信が持てるかもしれないし」
「岡崎くんって双海ちゃんの事が好きなんでしょ? だったら双海ちゃんが緑川さんにアドバイスしたほうがいいんじゃない?」
沙耶にそう言われた双海さんは、「ふむ」と、手をアゴの下に置き、名探偵が推理するときのようなポーズを取る。
「しかし、私はメイクとか素人だし」
「その顔のシートパックはなんなのよ。それに、今日は海にいくから化粧なんてすぐに崩れるわよ」
「あ~!」
海にいくことなんて完全に忘れていました、と頭を抱えてうずくまる。顔に貼ってあったシートパックをゴミ箱に投げ捨て、ならば髪型と水着だ! と、次の作戦へ移行した。
◇
「なんで、みんな集まってるの?」
緑川さんが怪訝な表情で呟いた。
部屋に集まった人数は合計で5人。
双海さんに連れてこられた私と沙耶に加え、早朝から散歩をしていた会長を発見し拉致して緑川さんの部屋に乗り込んだ。
「今日は海にいくし、ミドリも着飾らないと」
「私はいいよ。そういうの苦手だし」
緑川さんの言葉に『わかる!』と心の中で呟いた。
私も沙耶を意識するまでは、なんだか気恥ずかしくてお洒落については無頓着だったし、私なんかが可愛い服を着たり、髪型を綺麗にセットしたら笑われるかも、なんて臆病になっていた。
そんな私が今はどうだ。髪型や服装はもちろん、下着にまで気を使うような人間になってしまった。
恋をすると綺麗になるって言うけど、あながち間違いじゃないかもしれない。少なくとも身だしなみに気を使うようになるのだ
「じゃあ、まずは髪型を変えてみよう」
そう言って、双海さんは緑川さんのセミロングで癖っ毛な髪をヘアブラシでとかし、手にスタイリング剤を適量とって、手から髪に馴染ませるようにつけていく。
「痒いところはないですか~」
「それは洗髪の時でしょ」
双海さんと緑川さんのやり取りに会長が思わず吹き出すも、二人は気にせずに作業を続けていく。
「会長、クルクル巻くやつ取って~」
「くるくる? なんですの」
クルクル巻くやつとは髪を巻いて止めるマジックカーラーのことだろうか。前髪などに少し形をつけたい時に私も使っている。
「はい、これ?」
「そうそう! サンキュー、神崎さん」
私は机の上にあったマジックカーラーを手に取って双海さんに手渡す。
このマジックカーラー、巻きつけて放置しているときの姿がマヌケすぎて、あまり他人に見られたくないんだよね。
それは緑川さんも同じようで、居心地が悪そうに顔を伏せている。
「最終的に可愛くなるから大丈夫だって」
「瞳子、なんでそこまでして私に協力してくれるの?」
緑川さんは髪をセットしてもらいながら、やたらと世話をやいてくれる友人に問いかけた。
「……二人が上手くいったら嬉しいじゃん。だから、応援したいのだよ」
「そう…」
緑川さんは、それ以上は何も聞かずにドライヤーの風だけが鳴り響いた。
私はなんとなく辺りを見回すと、緑川さんのベッドの上に緑色のジンベエザメがあることに気付く。
(昨日、水族館で双海さんが買ったぬいぐるみだよね……緑川さんにプレゼントしたのかな)
双海さんはヘアスプレーを取り出して緑川さんの髪に吹きかけると、ふんわりとやわらかなカールがかかったような髪に仕上がった。
「これが私……」
大人っぽい雰囲気になった双海さんは鏡の前で、いつもと少し違う自分を見つめている。
「ここから、更にアレンジしたりする?」
「え? う~ん」
ボサボサだった髪は綺麗に仕上がり、既に満足している感じの緑川さんだが、ここまできたらとことん生まれ変わりたいらしい。
「姫、どんな髪型がいいかな」
「え、私? 私は気合い入れる時はポニーテールかな」
「ふむ。ミドリ、どうする?」
緑川さんは「お願い」と、一言だけ言って双海さんに髪を結ってもらう。セミロングなので、そこまで長くはないが、可愛らしいふわふわの尻尾が頭の後ろで揺れていた。
「我ながら完璧な出来栄えだ。自分の内に秘められた女子力を解放してしまったか……」
ゲームに出てくるクールキャラのように「ふっ」とカッコつけて笑う双海さんの姿は女子力とは程遠いけど、実際、緑川さんの髪型はセットする前のペタリと暗い雰囲気から明るい少女のイメージに様変わりした。
「ミドリ、思いきってオカを誘ってみたら? 今日は自由行動だし、二人きりで過ごせるチャンスだよ」
「でも、もう予定あるかもしれないし」
「ミドリは普段、物分かり良すぎるくらいだし修学旅行の時くらい無理言ったって良いじゃない」
結局、双海さんの強引な提案で緑川さんは岡崎くんを誘うことになった。
しかしなんだ。私達は朝早くから起こされて拉致される必要があったのだろうか。メイクが素人なんて言っていた割にはテキパキとこなしていたし、結局のところ、双海さんが物事を全て転がしていってる。
◇
「じゃあ、ミドリ。私は遠くから見守っているから、頑張って」
時計を見ると6時30分。
みんな起床しはじめて、ホテルの通路にも我が校の生徒がちらほら出てきた。自販機に飲み物を買いに来る人や、散歩としてうろちょろする人。
通りかかる人は私達を見てギョっとする。
壁に隠れて緑川さんの様子を見守る4人組。学園の姫である姫宮沙耶。生徒会長である鈴川沙綾。無口な少女、神崎茉莉。
『コイツら何してんだ』なんて視線を一瞬向けるも、天真爛漫娘の双海瞳子を見た瞬間に、妙に納得したような表情になって何も言わずに通りすぎていく。
「おっ、ノックした。いよいよだ」
双海さんは身を乗り出して、岡崎くんの部屋をノックする緑川さんを見つめる。
「あの、見えないのですけど」
会長の視界は身を乗り出した双海さんにシャットアウトされ完全に塞がれている。
私は姿勢を低くして、しゃがみながら視界を確保し、しゃがんだ私の頭の上に沙耶が豊満な胸を乗せて体重をかけてくる。
「ちょ…ちょっと沙耶! 当たってるんだけど」
「ふふ、堪能していいよ」
嬉しい言葉だけど、昨日、十分堪能したから今は遠慮したい。
そもそもこういうのは二人きりの時に楽しみたいのであって人前でなんてそんな……。
「出てきた!オカだ」
ドアを開けて出てきたのは岡崎くん。
岡崎くんと同室の男子が出てきたら、おそらく緑川さんは固まってしまったと思う。緑川さんが岡崎くん以外の男子と喋っているのを見たことないから、同類の私はなんとなくわかる。
「聞こえぬ」
双海さんは聞き耳を立てているが、距離があるので声の小さい緑川さんの声を聞き取ることは出来ない。
顔を赤らめてモジモジしながら何かを伝えている。
対して岡崎くんの声は少しだけ聞き取れた。
「今日は雰囲気違うね」とか「アイツは来ないの?」とか。
最終的に緑川さんは笑顔になって、別れ際に岡崎くんに対して手を振って、ほっと胸をなでおろしてから小走りでこちらに戻ってきた。
「一緒に行動してくれるって」
帰ってきた双海さんは嬉しそうに、かつ控えめにそう言った。
「よかったね。大成功じゃん」
「うん…みんな、ありがとう」
緑川さんに祝福の言葉を投げかける双海さん。
その横顔を見ると、いつもの天真爛漫娘の笑顔ではなかった。
双海さんが言い出した恋のキューピット大作戦は順調に見えるのに、その双海さんの笑顔は心から笑ってはいない、無理をした悲しげな笑顔に映った。
◇
「沙耶、水着どうする? レンタルもあるらしいけど」
「レンタルかぁ…。私は学校指定の水着でいいかな」
双海さんのキューピット大作戦を見届けた私達は部屋に戻り、海水浴の準備をする。水着のレンタルはお気に召さないらしく、沙耶は自分の持ってきた水着を手に取った。
「沙耶のスタイルにスクール水着は犯罪だと思うけど……」
「いや、そこまでじゃないってば」
派手な水着を着たくないらしいけど、逆に注目を集めてしまうのでは、と不安になる。
「スタイルと言えば……マリ、最近胸大きくなった?」
「えっ!」
沙耶に言われて咄嗟に胸を手で隠す仕草をする。
確かに春頃より大きくなったのだが、他人に指摘されると物凄く恥ずかしいのは何故だろう。
「沙耶、セクハラ」
「マリが自分から話題振ったくせに」
「う……」
それを言われると反論出来ない。
むしろ最初にセクハラ発言をしたのは私か。
「沙耶が借りないなら私も借りないでいいや」
「いいの? 別に私に合わせなくもいいのに」
「私は合わせたいの」
結局、水着のレンタルは行わずに学校指定の水着を着ていくことにした。
◇
ホテルからすぐ近くにあるビーチでパラソルを立て、ビーチチェアを設置する。水着はレンタルしなかったが、バラソルやチェアは雰囲気を出すためにレンタルした。
双海さんはビーチチェアに寝そべりバカンスに来たお嬢様気分を満喫している。
「会長は結構大胆な水着なんですね」
会長と双海さんは上下別れているビキニタイプの水着。
意外と言っては失礼かもしれないけど、二人がビキニを着るイメージはなかった。
「あなた達はレンタルしなくてよろしかったんですの? もう女性として十分成長しているのですから、学校指定の水着は浮きますわよ」
全員が沙耶の水着姿に注目する。
「確かに姫の身体にスクール水着って……いや、逆にエロいか。神崎さんの趣味?」
「ちがっ…」
何故か私が変態キャラ扱いされている。由々しき事態だ。
誤解を解くために弁明したけど、結局私の趣味だという結果に落ち着いてしまった。
◇
「そういえば姫達は日焼け止め塗ってきた?」
「うん。マリに塗ってもらったよ」
私もホテルを出る前に部屋のベッドで塗ってもらったのだが、全身を撫でるように触られたため、なんだかおかしな気分になりそうだった。NWを作った夜の事を思い出す度に過ちを繰り返さないよう気をつけようと思っているのだが…………いや、むしろ今の私と沙耶の関係ならば、もう間違いを起こしてもいいのだろうか。いやいやでもでも……そもそも間違いってなんだ。私は何をしようとしているんだ。
「じゃあ、さっそく泳ぎにいきますか!」
バカな事を考えているうちに双海さんが駆け出す。
貴重品や着替えなどはロッカーに入れてきたので、荷物番などはしなくても大丈夫だ。思う存分遊べる。
双海さんを先頭に波打つ海へ駆けていき、恐る恐る足を水に浸ける。白い砂浜にコバルトブルーの海、太陽の光を反射して輝く素敵な景色だ。
「綺麗だね……うわっ!」
絵に描いたような絶景に感動する私に、勢いよく水しぶきが飛んできた。犯人は確認するまでもない。
「双海さん!」
「うふふ、勝負だ」
この絶景を目にして最初にやることがソレか。
どんな状況でも双海さんは双海さんだなって安心感すら覚える。
「むー、えい!」
やり返そうと水をすくって力いっぱい腕を振るが、私の弱々しい水しぶきは双海さんに届かない。
「神崎さんは乙女だなぁ」
「NWでなら簡単に出来るのに……」
やはり現実とNWでは勝手が違う。
結局私は沙耶が盾に入ってくれるまで、ひたすら水を浴び続けて髪までビショビショになってしまった。
沙耶がこちらの味方についたことで、今度は会長が双海さんサイドに加勢して激しい水のかけあいはしばらく続いた。
その後はビーチバレーをやったり、魚を観察したり、大きな浮き輪に乗っかって、静かな海を漂って海を満喫した。
「売店にいってきますけど、何か食べたいものはあります?」
「焼きそば! かき氷! トロピカルジュース!」
会長が聞くと双海さんは遠慮なしにメニューを口にする。
「私もいくよ。ひとりじゃ持ちきれないでしょ」
水着の上からパーカーを羽織って立ち上がった沙耶に続いて「私も!」と、ついていこうとしたが、双海さんのお目付け役として残ってと言われ、待機することになった。
◇
双海さんと二人で待機することになり、これはマシンガントークで蜂の巣にされるな。なんて思ったのだけど、その予想は見事に外れた。基本的にどんな行動をしても予想がつく双海さんに対して予想がハズレたのって初めてじゃないかな。
双海さんは借りてきた猫のようにある一点を見つめたまま大人しく座っていた。
視線の先に何があるのかと、私もその視線の先を追う。
(あ……)
そこに見えたのは男女二人で遊ぶ仲睦まじい様子のカップル。
男性がリードして女性の手を引いて、女性は結った髪を揺らしながら顔を赤らめて照れている。そのふわふわのポニーテールは、先程、双海さんがセットしたものに違いない。
私が双海さんに恋のキューピット作戦の話を持ちかけられたとき、もしも二人が結ばれたら双海さんは笑顔になるものだと思っていた。だが違った。どうやら私の想像とはまるで違う思想があったのだろう。だから今の双海さんの顔を見て思わず呟いた。
「いいの? 想いを告げなくて」
それまで静かに一点を見つめていた双海さんは私の言葉に反応してビクッと体を強張らせて、気まずそうな顔をこちらに向けた。
「告げるって…何を」
「好きなんでしょ?」
私の言葉を聞いて、何かを言い返そうとした双海さんは言葉を呑み込んだ。あのマシンガントークの双海さんがこの反応、私は確信して、その次の言葉を続けた。
「―――緑川さんのこと」
「……まぁね。なんで気付いたの?」
まず最初に、双海さんも恋をしているのでは? と感じたのは幼馴染み三人組の話をしているとき。「恋なんてちょっとしたことがきっかけなのだよ」と、まるで経験があるかのような話し方をしていたので、少し気になった。
二つ目の違和感は、私が恋をしていると知った時に、沙耶の名前を真っ先に挙げたこと。いくら沙耶と私の仲が良いからって、まさか同性の名前を一番に出すとは思ってなかった。
三つ目は「恋の色は何色か」との問いに答えた直後に緑色のぬいぐるみを手に取ったこと。緑色で連想するのは緑川麗奈。意識したかどうかはわからないが、双海さんはNWでのキャラの髪も緑色だった。
「さすがに色だけでこじつけるのは無理がないかい?」
「そうかもしれないけど、一つ一つ繋ぎ合わせていくと最終的に緑川さんに行き着くから」
そもそもこんな考察はなくとも、いつも元気な双海さんがアレだけショボくれて二人を見ていたら色々と察してしまう。
そんな悲しそうな顔するなら、何故キューピットなんてしたのだろう。だから私は想いを告げなくていいのか、と発言したのだ。
「……想いを告げる……か」
1分ほど沈黙が続いただろうか。
それまで曇っていた表情は、何かを決意した表情に変わり、立ち上がる。
「ミドリ!!」
叫んでいた。
大声で、遠くにいる想い人の名を。
緑川さんと岡崎くんが振り返ってコチラを見る。
双海さんは大きく息を吸い込んで、更に言葉を続けようとする。
私は双海さんの事をまったく理解していなかったのかもしれない、と思った。双海さんが発した言葉は私が予想していた言葉ではなかったからだ。
『幸せになってね』
双海さんは最後にそう叫んで、緑川さんに対する想いを断ち切った。




