魔の湿原
湿地の草原。
足元にはわずかに伸びたコケのようなものと少しゆるい土で成り立ち草原よりは歩きにくい印象を受けるが、何よりも霧が濃く少し先ですら見えづらくなっている。
「ここが魔者の巣窟……。
こんな霧じゃいつ遭遇してもおかしくないな」
夕闇の迫る中、この深い霧の中を行くとなると危険なのは魔者だけではなく、自分達の位置すら見失いかねない。
「これ、ただの霧じゃないにゃ。
この霧には魔力も混ざってるにゃ」
魔力の混ざり合う霧なんて聞いたことがなく、オレもジェスタもいまいち把握できず首を傾げる。
それは誰かの仕業か、何かがあるということなのか。
「魔力があるってことは、魔者は生きるのに困らないってことにゃ。
この霧が食料みたいなものであって、薬みたいなものにゃ。
だから、魔者はここから外に出なかったんだにゃ」
魔者達は街が近くにあっても湿原の外に出る理由がなかったのか。
分かりやすい説明に謎も一つ解けたが、ジェスタは浮かない顔をしている。
「するってぇと、仮に魔者と遭遇して傷を負わせたらどうなる?
傷口はすぐ閉じちまうのか?
そんで、オレ達への影響は何かないのか?」
「人間には特に影響しないと思うにゃ。
するとしたら、魔法をいくらでも使えるようになるくらいかにゃ。
それと、確かに薬とは言ったけど、一瞬で治るほどじゃなくて自然回復が普通より早いだけだから、そんなに心配は要らないかにゃ――相手によるけど」
要するに、魔力とは魔者の源ともいうべきなのだろう。
しかし、何故この場所に魔力が満ちているのか、単に魔者がいるからなのだろうか。
「亜人界は神秘力が満ちているのか?
ここみたいにさ」
「全体的には普通、人間界と変わらないにゃ。
まぁ、神秘力が満ちてる場所もあるってだけで、覆われているわけではないにゃ」
この謎はオレには解けそうもない気がする。
魔力や神秘力、亜人界や魔界の知識を増やさなければ到底無理そうだった。
そう思っているのはどうやらオレだけではないらしいが。
「よく分かんねぇが、さっさと行こうぜ。
ここで話してたって何も変わらねぇ。
湿原の横断自体は、そんなにかからねぇハズだからよ」
先を行こうとするジェスタの意見は最もだった。
「ちょっと待てジェスタ。
いい物がある」
この状況を明かりもなしで行くには少し無謀な気がした。
「なんだ?
松明でも持ってんのか?」
爺さんから貰った物の中に、魔具で灯りを作りだす物があったはずだと袋を探る。
「これだこれ。
魔光器って灯りの魔法が組み込まれてる機械らしい。
これでどうだ」
持ち手の部分にある突起を押すと魔光器の先端から直線上に灯りが発せられ、道標かのように行く先を照らし出した。
魔法と機械を掛け合わせた物は沢山あると聞いているが、高価な物であり、実際に手にしたり見たりするのは魔法銃しか経験していないので、オレも少し感動している。
「にゃぁ~、スゴイにゃっ!
秘術でもこんなに光が伸びるのは知らないにゃ」
オレもそうだが、ミィもジェスタも魔光器をまじまじ見ていることから感動しているに違いなかった。
「おいおい、こんな便利なものがあんのかよ。
恐れ入ったぜ、魔法の道具ってやつはよ。
それ、オレに持たせてくんねぇか?」
もちろんだと魔光器を預け、その背中にぴったりと後ろに付き従う。
そもそも貧民しかいない腐街にこんな高価な物を持っている者などいるはずもなく、ジェスタにとっても始めての魔具なのだろう、手前だけではなく空へ向けたりと楽しそうにしているのがよく分かる。
「なぁ、こんなの他にも持ってんのか?」
歩みを止めることなく首だけ後ろへ回し、魔具への興味をオレへ示している。
「いや、これと魔法銃だけだな。
いかに爺ちゃんだって、そんなに沢山の魔具は持ってないんだろ。
オレだってこんなのがあった事に驚いてるんだからさ」
納得したのか、何度も軽く頷きながら、そうだよなと残念そうに呟き魔光器をクルクルと回している。
そんなジェスタと違い、隣にいるをミィは文字通り目を光らせ何やら周りを忙しそうに見ていると、急に立ち止まった。
「どうした?
何かいたのか?」
一気に不穏な空気に変わり緊張が走る。
「聞こえなかったかにゃ?
何か――唸り声のような、獣の声」
ジェスタと顔を見合わせるが、どうやらオレ達人間には聞こえないらしい。
「それは確かか?
オレ達には聞こえてないが」
「そうか、聴覚の良さも猫に渡ったんだにゃ。
人猫は人犬よりも耳がいいから、人間だとわたしたちより三倍は遠くのものが聴こえないのかもにゃ。
って、ほら、また」
だから、オレ達には聴こえないって言ったばかりなんだが。
「猫娘、それってヤバそうな感じか?
どのくらい離れてる?」
「一つだけじゃないにゃ――三つの鳴き声。
向こうから……近づいてきてるにゃ!」
少なくても三匹の獣がオレ達の右手後方から迫っているらしいが、逃げ切れるか。
「あまり足音を立てないように速く行こう!
ジェスタ、魔光器も消すんだ」
言いたい事が伝わったのか言い終わる前には灯りを消し、急かすように手招きしながら既に歩き始めていた。
が、ジェスタに追いつくとミィがオレ達の袖を引っ張る。
「ダメにゃ、走って!
追いつかれるにゃ!」
引っ張られつつ走り出すオレにも、獣の咆哮と足音が徐々に近づいているのが聞こえてきている。
この速度だと追いつかれるのは時間の問題だと高をくくった直後、オレ達の息と走る音しか聞こえていないことに気がついた。
「ちょっと待て!
何も来ないぞ!」
一斉に立ち止まると不気味な静寂が辺りを包み込む。
「おい、さっきのはどこに行った!?
撒いたのか?」
聞き耳を立てているミィを中心に、オレとジェスタが左右に別れると周りに神経を研ぎ澄まし、武器を構える。
霧が濃く、気配で感じるしか身を守る術はない。
「違う、いるにゃ。
喉を鳴らして――飛んでる!
上にゃ!!」
見上げると、霧を切り裂くかの如く何かが急下降してきている。
それはオレ達の目の前に降り立つと大きな咆哮を一つ上げ、牙をむき出しにいつ飛びかかろうか見計らっている様子だった。
銃を構えつつ警戒しよくよく見ると、一体の魔獣に三つの頭が胴体か伸びているのが分かった。
「獅翼獣にゃ!
なんで!?
こんな――勝てる相手じゃないにゃっ!」
えらく動揺している様子から、とんでもない魔獣と出会ってしまったらしい。
四つ足の体は鱗を纏って背中には翼、尻尾が蛇で仔竜と獅子の頭が前にある。
これだけでも危険な雰囲気を醸し出しているのに、この魔獣を知っているミィが勝てる相手じゃないと言っている以上、オレの想像を遥かに超えているのだろう。
「こりゃぁ湿原に入って帰って来れるワケねぇわな。
何か手はねぇのか?
猫娘」
軽く首を振るミィのこめかみからは一筋の汗が流れている。
「はは、まいったね。
レイヴよぉ、得意の頭脳で何か思いつかねぇか?」
普通の動物ならいざ知らず、こんな魔獣相手に何かと言われても。
「ないな。魔獣相手に何が効果的かなんて知らないから」
言っている途中で気がついた、魔獣と言えど獣なんだと。
「上手くいけば、もしかしたら一瞬の隙くらいは出来るかもな。
同じ獣なら」
「思い浮かんだんだな。
さぁ、どうすればいい?
オレは何を――ぅおっ!」
獅翼獣と呼ばれた魔獣の口から火球が吐かれジェスタは間一髪避けることができたが、牽制だと言うかのようにまたも周りを回り始めた。
「おいおい、火まで吐くのかよ!
冗談じゃねぇぜ、全く。
レイヴ、早いとこ実行に移すべきだろうぜ」
言われるまでもなく考えを手短に話す。
魔獣の瞬発力を考えると、少しのミス、タイミングのズレも許されないだろう。
一人遅れただけで命を落としかねない危険と、不安から早く行動を起こし兼ねない恐怖心との闘いになるだろうが、それでもやるしかない。
「いいぜ、それでいこう!
頼んだぜ、猫娘」
「任せるにゃ!
二人にもかかってるんだからにゃ」
生唾を飲み込み、息を吸い込む。
「それじゃあ……いくぞ!」
合図と共にミィが秘術を唱え始め、ジェスタは魔光器を構えると獅翼獣の足元を照らし出す。
それに反応し飛び退いた瞬間、光を右へ動かすと獅子の頭は光を追った。
「今だ、走れ!」
オレの叫びにジェスタは光を獅子の顔に当て、一緒に走り出す。
光に気を取られオレ達への反応はやはり遅れていたが、それでも動く獲物を逃がす気配はなく動かなかったミィのことは全くの無視で、獅子と仔竜が咆哮を上げるとオレ達に向かい走り出した。
が、両手に光る球体を持ったミィが間に割って入り、前のめりになっている二つの顔の前で球体同士をぶつけ合った。
「にゃっっ!」
小さな悲鳴と爆発的な光が獅翼獣の前で起こると、ミィがすぐ隣に追いつく。
それを確認し、最後に振り返りながら獅翼獣の前方を囲むように【火爆】を数発打ち込むと、湿原に生えているわずかな草を糧に小さな炎の壁が出来上がった。
「よし!
急げ、今のうちだ!」
これで少しは逃げられる。
あとは見失ってくれるかが問題だが。
「レイヴ、さすがだぜ」
「獣は獣だったわけだ」
一言喋るのがやっとなほど必死だった。
とにかく距離を取らなければと、全速力で休んでなどいられない。
「つっ、翼の音が聞こえるにゃ!」
やはりあの程度では、ここまでが限界だったらしい。
それでも、立ち止まることは諦めると同意な気がして少しでもと走り続けたが、急にジェスタが別の方向へ行きだした。
「ジェスタ!
どこへ!?」
「猫娘は任せたぜ、レイヴ!」
「ジェスタぁぁぁ!!」
叫びも空しく、夜霧の中へと姿が消えていった。
まさか一人逃げ出すつもりなのかと考えたが、あいつはそんな奴ではないと心を否定し、走り続けた。