第02話 温井“備中守”総貞
遊佐家は畠山家で代々重臣の一族で戦国時代に入ってからは守護代の家系であった。それは河内畠山家も能登畠山家でも同じで畠山家のNO2と言っても良い家柄であった。遊佐家の嫡流の家に生まれた遊佐続光もやがてはそうなるだろうと少年ながらに思っていた。が、現実はどうやら違うようであった。遊佐家宗家の家督を継いだ父総光は守護である畠山義総から疎んじられていたのだ。少年の続光には理由が分からない。何故守護様から遊佐宗家嫡流の父上が疎んじられるのか……。何か大きな失敗をしでかしたわけでもなし、小さな失敗すら皆無であるというのに。
「守護様は父上を嫌ろうておられるのじゃ」
子供の頃は兎角感情論になりやすいが、続光には続光なりの理由がある。父である遊佐総光は確かに政務の中枢から遠ざかっていたが遊佐家自体が疎んじられているわけではなく伯父の遊佐秀盛は守護である義総の重臣として活躍していたからである。まるで遊佐宗家嫡流のみが畠山家の中で除け者のような状態であったからだ。
まるで父だけ仲間外れにされた事に対し少年の考える答えは「嫌らわれている」以上の答えは出せなかった。薄っすらとした不安はある。父上だけなら良い……。だが、自分までこのような扱いを受けたならばどうすればよいのか……。
不安は一度抱いてしまえば大きくなる。いつしか続光は毎日のように遊佐宗家が何故守護様から疎んじられているのか考える様になった。ある日、思い切って父に聞いてみた。
「父上。お暇でございましょうか? 話がございます」
「うむ、なんじゃ?」
「……」
「なんじゃ? 申せ」
「あの、憚られる話ゆえ、奥座敷で話とうござる」
続光の言葉に総光はピンと来たのか、すんなりと奥座敷に入って行った。そして奥座敷の上座に座るなり総光は口を開いた。
「守護殿の事であろう? 何ゆえ遊佐宗家は畠山家から遠ざけられたのか…、と」
続光は目を丸くして驚いたが、すぐに呼吸を整え父に聞いた。
「その通りでございます、父上には御心当たりが御有りで?」
もしも父が自分の見えないところでヘマをして畠山家から遠ざけられたのであれば「遊佐総光」が遠ざけられたのであって「遊佐宗家」が遠ざけられたことにはならない。この父の反応の良さからもしや前者なのではと続光は思ったが……。
「そもそもワシは役をもらっておらんのでな、“ワシが何かをした”という心当たりはない……。じゃが違う心当たりならある」
(どういう事なのだろう?)
続光は父の斜め後ろにある奥座敷の襖のシミを凝視しながら少年の心で考えた。だが答えが出てこない、総光は続光の反応を待っているようであった。
「どういう事でございましょう?」
「続光、そなた少し己のおつむを使え」
「使い切ったからこそ父上に聞いております」
続光は気づいていないが、総光はこれを帝王学の時間と考えていた。やがて遊佐宗家を率いるであろう続光を導く為の時間と。総光はヒントを出す要領で話し出す。
「越中の乱の事は知っておるな?」
(越中!?)
続光は先ほどよりも更に目を丸くし何故越中がいきなり話に出てきたか考えた。
(我が家は能登にある……。越中にはひとかけらの領地もない、越中と我が家に何の関係がある?)
「そなた越中の乱の事は知っておるなと聞いておる」と父は言った。
「は、存じております。守護代の神保殿と椎名殿が畠山家に牙剥いた乱にございましょう?」
「うむ、そのとおりじゃ」
続光にはまだ父の意図がわからない。その様子を察すると総光は続きを喋り出した。
「何故守護代の神保殿が乱に及んだか……。いや、越中においていかに神保殿が力をつけたかと言い直してもよい。ワシが思うところその原因は2つある。1つは、越中には河内畠山家の当主が長年不在でその間越中を治めていたのは守護代の神保殿だったからじゃ。2つ目は、守護の代わりをする守護代を一つの家が世襲してきた事じゃ。力がつけば謀反は当主の心次第である。主家を超える力を持つ事こそが乱の火種となるのじゃ」
続光はだんだん父の言いたい事が分かってきた。父は続ける。
「鎌倉の御世もそうであったが、鎌倉幕府をお開きになった源頼朝公の下に北条家がおり北条家は鎌倉将軍をお助する“執権”を代々北条家で世襲した。ゆえに将軍様よりも執権殿の力が強まり鎌倉は北条家の傀儡になり果ておった……。我が遊佐も代々畠山家の守護代の家系、守護殿はこの遊佐を神保や北条のようにすまいとして我を遠ざけておるのよ」
続光は父の言葉を自分の頭の中で分かりやすいように組み立て直す
(つまり守護様はこのまま守護代職を遊佐家で独占するような事があれば神保と同じような事をすると思うておられるのか……。我等をあのような曲者と同じような者と見ておられるのか)
続光は空しくなった。いわば濡れ衣のようなものではないか、まだ起こしてもいない罪によって罰せられているようなものだ……。父はまだ言い足りないらしく更に言葉を続けた。
「ゆえに温井のようなものがとり立てられておるのじゃ」
温井……。
温井“備中守”総貞……。
「温井“備中守”総貞」とは守護である畠山義総により引き立てられた寵臣である。
総貞はことのほか和歌や音曲の才能に秀で義総はことあるごとに「総貞をこれに総貞をこれに」と、自分の側近として数多くの政務に関わらせた。もちろんそれなりの理由がある。理由の第一は遊佐総光の想像どおり畠山家の守護代の家系である遊佐家を牽制するためである。複数のNO2の家を作る事によってお互いを牽制させ、どこかの家が畠山にとって代わる事を防ぐためである。もう一つの理由は京から移住してきた公家達の存在にあった。
この時代の京は足利将軍、細川氏、河内畠山氏、西からは大内氏など政争に次ぐ政争で、荒れた都はなかなか復旧せず京に住む公家などの雅な人々は地方に散らばって行った。その公家たちから注目を集めたのは下剋上の機運なく様々な文化に理解を示す畠山義総であった。義総は逃れてきた人々を積極的に利用し能登が平穏な土地であることを喧伝した。彼らのネットワークを使う事により財産のある人々が能登に移住しやすくしたのだ。そんな彼等と付き合う上で欠かせないのが和歌や音曲なのである。彼等はこれを教養と捉えていた。つまり、とっさに気のきいた歌で返すなどの事が務まらなければ教養がないと舐められるのである。義総はこの点で温井総貞を買っていた。
総貞は京から能登に移住してきた公家や商人との窓口になり畠山と公家をつなぐパイプ役として活躍し七尾城下を小京都と呼ばれる雅な町にまで発展させ義総の声望を大いに高めた。
「畠山家中に温井総貞あり」
義総が引き立てた寵臣はいつしか能登畠山家の中で重要な存在を占めるまでになっていた。それと反比例するように遊佐家の存在は小さくなっていったのである。