最初のころ
最近の出来事を語るときには、欠かせないひとつの話が病院である。
私はいつも病院に通っているのだけれど、そこではいろんなひとたちに出会う。
病院に、と言っても、私の場合は、こころの悩みをかかえたひとたちが集う病院だ。
いまからずっと前、ちまたではバブル景気がさかんなころ。
私は、「うつ」という心の病をうったえて、優しい先生が対応してくれるというバスで一時間以上もかかる個人病院へと通いだした。
そこは一階はオーディオ製品を取り扱う、いわば音楽にうるさいひとたち向けの商品、それも相当な高額なものをあつかっているお店であった。
そのビルは階段をあがり二階に行くと私などが通っている病院がひっそりとあり、そのうえには居室があって、住人が行き来していた。たまに、通院しているだれかが勝手に車を自分の駐車場に止めていて迷惑しているというおばさんが院長先生に文句をいいに来ていた。
私がそこに通っていたのは、まだ十代でみぎもひだりも分からないような若者であったことを、いまになって心苦しくも、なつかしい日々であったなと思いだす。
病院でありながらも、当時は、私たちのような「ひきこもり」に進むコースの予兆が見えはじめている若いひとたちが何人もいて、せまい待合室では互いを意識することもあった。
はやくよくなりたいという考えではなくて、具合の悪さをどうにかしてほしいという微妙な願いであった。みずからがどういう状況にあるのかは、通っているとおのずと周囲の人たち自身がかもしだす独特の雰囲気から、分かるような気がした。
私の場合は、お医者さんは、元気でひとの良さそうな感じのおじさんで、まずは患者の生い立ちをじっくり聞いていきましょうというスタイルの診察だった。そんなふうに病院での診察を受けるということには違和感をおぼえず、カルテにつぎつぎに何かをかきとめている医師がときおり語る評価というものが、語られる言葉のどこかに救いを求めていた私にはありがたいものだったと記憶している。
「病気」というものがどういうものかと、医療用の辞書を読んでみたことがある。まずは、精神関連のものも読みはしたけれど、内面的な病についてさまざまな言葉を使ってよくこれだけ表現しているなと思う。辞書を書いて表現しているひとから見れば、すべてのひとがなにかの「病気」ということになるらしい。
私は心の病の病気なので、ながらく勘違いしていたことがある。
それは、病気というものがいつまでもつきまとうものであって、もはや離れないものだと思っていたことだ。悪いものが体のどこかにできてしまったので、それを切り離せば治るというのなら、心の病は切り離せないのだから、治らない部類になる。いやだとも、苦しいとも思い、「うつ」がこのままもしかしたら、ずっとつづくのかと私は若いときに本気で思っていた。それほど、いまとはべつの人生観を私は持っていた。そんな時期が長くつづき、学校生活とも離れてゆくことになって、私は天気の良い日は治療も兼ねて太陽の光のあたるところにカメラを持ってでかけることにした。足元にあって、葉の緑いろのふちどりが、自動車の通る車道の舗装路の黒と対比されていて良いと思い撮った写真。今まで覚えているのは、その写真のことくらいで、あとは高いところから何枚か撮っていた写真がどこかにまだあるかもしれないという程度だ。本格的なひとは、写真を撮りためていて、自分で個人出版するくらいの趣味の奥深さがあるらしい。私は本屋でそういうふうに自分の家族の写真ばかり撮り集めている写真集をみたことがある。有名なひとなのかは、分からずじまいだけれど、費用さえかければできるものなのかもしれない。図書館にも通うことになり、印象的な写真集は、廃屋写真というちょっとさびれた街のすみの家の写真を撮ったものとかだった。一番危ない写真は、銭湯の煙突の頂上に立ち、写真家が自分を空の視点から地面の方向に自分を撮ったという写真。はるか下の街並みと煙突の最上部の円の部分も写り、画期的ともいえる一枚だった。危険なことをするひとがいるなと思った。当時の世相は、「あぶなっかしいことをするひと」が、もてはやされる点があったことを裏付ける作品だ。バランスを崩して足をすべらせたら、一巻の終わりというところが精神的な面で不安定な私の記憶に強く残った。
病院へとつづくせまい階段をのぼり、月に何度か通院していたように思う。ある日、お昼ごはんを先生がみんなの分もお金をあずかって弁当屋で買って来てくれることになった。数人の男子がお昼すぎまで待合室に残っていて、お互いの身の上話などをしていた。私は「かつとじ丼」という種類の弁当が気に入っていたので、それを欲しいと言った。すると思わぬことに、私と話していた同年代の若者が、「金持ちやね」と私の顔をまっすぐに見て言った。私が少し高めの弁当代も支払うのも見ていたその子は、なぜそんなことを言ったのだろう。ある意味、外見的には私よりもずっと着飾ってきているように見えるその男子が、パパの視点で私を見ていて自分の思ったことをそのまま発言した言葉がそれだったのだろうか? なぞの発言だったため、いつまでもどうどうめぐりで発言の意図はなんだったのかと私は悩んでいる。頭が切れる男子だったのか、とも思う。わたしが「かつとじ丼」を頼んだことで、なぜ彼が私を金持ちと呼んだのか。私と比べて少し小柄だったその少年は、いまごろどうしているのだろう。私のことなど、すっかり忘れているのだろうか。私は弁当の件で、忘れられない謎があるからとその少年のことを先生に尋ねてみても良いだろうか。そのなぞのひとことが、私に人生観を変えさせるほどの強烈な言葉だったことを、伝えたいとも。自分の行動が他人の目線でどう見られているかなど、直接会話していて聞かされなければ、何も私は考えていなかった。それをパパの視点で彼は教えてくれた。彼は頭が良い切れ者で、よく細かなことにすぐに気づくという病気だから、その場に来ることになったのだろうか。ひとことの発言で私の金持ちへの見方を変えた。そんなふうに分かりやすい言葉をだれかれかまわずに、まっすぐに相手を見て、思ったらすぐにそのまま伝えるなら、どうなるのかを教えてくれる存在の少年。彼もまた自分の居場所を追い出されて、病院という場所に集うことになったひとりなのだろう。それとも、私とは別世界の住人で、なにかの異常を感じ取ってしまってとか、精神世界を自分のなかで追求しすぎてとか、私が思うよりももっと遠い世界から来ていたのだろうか。冗談めかして、貧乏だねと言うのも問題だけれど。そう言われていれば、他人にそんなこと言われて黙っていないよという喧嘩にでもなっていたかもしれない。すくなくとも、気まずい空気が沈黙の中で流れていたかもしれない。お弁当注文の場面なんて、それをありのままに見ていて、高そうと感じたとしても私なら何も言わないのではないだろうか。私はこだわりすぎだろうか。それというのも、私は心に深く切り込んだこの発言がいまだに忘れられないでいるから。私と心の構造が似た男子でもなければ、その状況でここまで深く切り込む発言はしないだろう。嫌な感じでもなければ、後味の悪い言い方でもなかった。なんで、そんな言い方をさらりと出来る若者がいるのだろうか。私は、結構な田舎者で小学生時代に住んでいたのは、目の前が田んぼと山と川という田舎だという情景が目に見えるような説明がうそではない場所だった。にわとりや十姉妹という小鳥を飼うのが毎日の楽しみだという男子小学生だったのだから、いなかで育った子供といえると思う。そんなふうな私が都会のかたすみにある専門病院に通うのだから、都会の真っただ中に住んでいたような少年期をずっと過ごしていた若者と出会い、発言に軽いカルチャーショックを受けたというところだろう。くちが達者な都会の住人である少年が、すきだらけの私にちょっと言ってやった言葉がそれだったという感じだ。受け流してしまうようなものにはどうしても思えないようなまじめな顔をしていた彼。彼は私とは逆に、もっと都会から移り住んで来ていたのかもしれないと勝手に推察をしてみる。