旦那様の苦悩 2
没落し、金持ちな結婚相手を探していた子爵令嬢と、金回りの良い商人の男。
いかにも、我々の結婚は両者の利害が一致した末の選択肢に思える事だろう。事実、私の親族は私が彼女との結婚を決意したという報告に、「ついに我が一族も貴族爵位を……!」と、あくまでも利権を求めた上での政略的な結婚であると、そう受け取った者が大多数を占めていた。
だが、真相はいささか違う場所にある。
女は私に、些細な理由で呪いを掛けた。彼女曰く、それは簡単に解ける簡易なまじないであり、不運な事にその呪いが異様に効き過ぎてしまう体質を、私が持っていた、という現実。
魔法も魔女もお伽話の中にしか住まわないこの世に、呪いなんてものが実在しただなんて、ああ、いったい誰が信じるであろうか。彼女と出逢う前の私ならば、間違いなく鼻で笑い飛ばしている。
呪いの効果は実に単純明快。
彼女が視界に収まっていなくては、数秒と保たずに落ち着かなくなる。
彼女を見つめ続けていると、勝手に身体が無意識のうちに動いて、彼女に触れている。
彼女に触り出すと止まらなくなり、際限なく全身にくまなく触れて彼女に己を刻み込まねばならない衝動に突き動かされる。
これらを無理やり意志の力で抑えつけて踏みとどまると、苦痛に苛まれ思考力が落ち、暴力的な衝動を抱くようになり……理性すら見失ってしまう。
恥を忍び、プライドを投げ捨ててまで解いてくれと頼み込むと、呪いの症状を緩和する方法として、
『彼女の絵姿を持ち歩き、必要に応じて眺める』
『彼女を楽しませ笑わせる』
『接吻する(「ただし、わたしの唇は許しませんわ」と、跪いて手の甲に送る事のみ許された。これは淑女相手であるからして仕方がない)』
という諸々の対処療法は教えてくれても、解除まではしてくれなかった。そして解いて欲しければ、と、交換条件を突き付けてきたのだ。
それは、彼女の祖父を陥れ騙したとある派閥の筆頭を引きずり下ろす事。
それ自体は簡単に済んだ。もとよりあちこちで恨みを買っているような男、カードはいくらでも手に入った。
問題は、事を済ませて私が急ぎ足で約束を果たしてくれと頼みに彼女の下へ訪れると、「まだ解けてなかったの?」と、むしろ不思議そうに言われた事である。
……私に掛けられた呪いは、時間経過と共に自然に消え去る類いのものだったらしい……それを承知の上で私をけしかけ利用したなど、悪魔のような女だ。
約束が違う! と訴える私に、彼女は流石に困惑したように言った。
「わたしが知る呪い解除の手順は、結婚しないと解けないものだけれど、それはあなたの方が困るんじゃないの?」
と。
その言葉を聞いた私は、その足で彼女の祖父から結婚の許しをもぎ取り、教会へ婚姻許可証の申請をした。自分の身内へ結婚の旨を伝えたのは、全ての手続きが終わってからで、式は無しで許可証が交付され次第、籍を入れる。と報告したら主に女性陣から大顰蹙を買った。
私は呪いに苦しめられ、もはや限界寸前であるというのに……ウェディングドレスが云々、式の飾り付けや料理、招待状作成にスピーチ原稿……何もかもがどうでも良いから、早く結婚させてくれ! と唸る私に、婚約者となった彼女は哀れむような眼差しを寄越し、「あなた、本当にバカね」と溜め息を吐く。
結婚式の準備で忙しなく私の家と実家を行き来する彼女に、会うたびに呪いの症状緩和である口付けを行っていなければ、冗談ではなく私は式の前に死んでいたに違いない。
そんな婚約期間中に、彼女はこう呟いた。
「夫婦の営みを行ったら、呪いが強力になる可能性、高そうね」
冗談じゃない。早く解除してくれ。
そうして結婚式の準備に追われ、当日を迎えた私は、恐らく油断しきって浮かれていたのだ。
私が彼女の為、全力で引きずり下ろしたあの男の罠に、むざむざ引っ掛かってしまうなどと。
別人の名で、結婚祝いと称され贈られてきた彼女が好む飲み物に毒物が混入されていて、彼女は結婚式の間にそれまでの記憶を全て失っていた。その原因でさえ、最近になってようやく突き止めた事実で、飲み物と毒物が絶妙なバランスで混ざる事で偶然、世に知られていない特異な反応を経て記憶喪失を引き起こしていなければ、彼女は毒物によって命を落としていた可能性が高いと。
その報告を耳にした私が受けた衝撃は、天地がひっくり返るよりも恐ろしいものだった。私が浮かれていたまさにその時、彼女は生命の危機に瀕していたのだ。
愚か者へは徹底的な制裁を加え、二度と彼女に手を出せぬよう根回ししてあるが……私が彼女を守れなかった事実は動かない。
彼女の予言通り、むしろ結婚によって強化されるばかりの私の呪いを解く術は、浅ましい奸計によって喪われてしまったのだ。
昼食会談に備え、出掛ける準備をしていた私は、本宅からの言付けだと秘書の手からメモを託された。
私の仕事中、奥方から何らかのメッセージが届くなど、結婚前も含めて初めての事である。もしや、何か大変な事態が……!? と、嫌な予感に駆られながら慌てて折り畳まれたメモを開くと、そこには本宅の家令の筆跡で一言。
『本日は可能な限りお早くご帰宅なされませ。奥方様の一大事でございます』
素早く視線を走らせた私は、思わずグシャリとメモを握り潰した。
「会長~、今日の会食はオレのお勧め料理人が……」
「私は今すぐ家に帰る」
「ちょっ!?」
共に会食に出席予定である従兄弟がバタンと仕事部屋のドアを勢い良く開き、浮かれて料理への期待をペラペラとまくし立て始めた言を遮り、彼を押し退けて退社しようとした私の服の襟を、従兄弟は驚いたようにひっ掴んできた。
私は従兄弟の胸元に、全力でメモを叩き付けてやる。
「は? 何コレ?
……ちょっ、だから待て待て!」
従兄弟が私の襟首から手を離してメモに目を通し始めた隙に、私がさっさとドアをくぐり抜けると、彼は慌てて追いすがり、廊下のど真ん中で立ち塞がった。
「そこを退け。私は家に帰らなくてはならん」
「いやいや、知らせによると嫁さんが倒れたとかじゃないし。会長、夜まで予定詰まってるよな?」
「貴様が代行しろ。私は奥方の下へ行かねばならんのだ!」
彼女が泣いていたら、苦しんでいたならどうする? 私は今すぐにでも駆け付け、守らねばならぬ。
「秘書君!」
「はい」
「会長の今日の予定を全てキャンセル出来る?」
「……これから始まる会食後の予定は、後日に回せそうです」
「よし、会長、そういう訳で昼の会食だけは出てもらうから」
「私は今すぐ家に……」
私の肩を両手で抑えつけて押し留め、流れるように人の秘書とサクサクと予定調整を行った従兄弟は、私に向かって上から目線で言い放った。
私自身は、好きで代表として表に立っているのではないし、正直この会食も交渉役の従兄弟が出席すれば最低限の面子は立つ。私が尚も、抵抗の意を示すと、彼はフン、と鼻で笑った。
「こなさなきゃならねー仕事放棄した、とか嫁さんが知ったら、会長、嫁さんから軽蔑されるだろうなー」
「すぐに会食を終わらせるぞ」
本宅へは会食の後に帰宅する旨を知らせに人を走らせておき、私は従兄弟と共に昼食会談へと臨んだ。
婉曲に引き伸ばしを画策する輩へ真っ向から押し切って話を纏め、頭を抱える従兄弟を後目に会場から直接本宅へと向かい、馬車を操る御者に「もっと速く馬を走らせないか!」と叱責を飛ばしつつ都を横断して到着した頃には、既に太陽は大きく傾き始めていたのだった。
「お帰りなさいませ、あなた」
本宅に到着するなり、馬車を飛び降りた私が目にしたモノは、平素と変わらぬ様子の妻の出迎えであった。
……いや、普段とは随分着ている服装の雰囲気が異なるな。瑞々しい樹木のようにスラリとして背が高く気品溢れる彼女には、もっと美しい布地や、細やかながらも複雑かつ優美な刺繍、長いドレープが付いた裾や袖のドレスを着るべき人であるというというのに、何故飾り気の欠片も無い乗馬用のズボンにブーツを履いているのだ。私は仕立てさせた覚えが無い。
「もしかしてわたくし、旦那様はお仕事をなさりたいのにワガママを申して、とんでもない穴を開けてしまいましたか?」
「あ、いや。
近頃根を詰めていたからね。周囲からも、良い機会だから早めに帰宅しろと急かされるぐらいで。仕事そのものは一区切りついているよ」
私があまりにもまじまじと妻の姿を眺めていたせいか、心配そうに俯く彼女に、私は当たり障りの無い言葉を返しておく。
職場へ連絡を寄越すとは、いったい何があったのか、との問い掛けに、妻は悪戯を思い付いたようなワクワクとした表情を浮かべた。いけない、呪いが一息に噴き出しそうだ。
「あなた、今日は晴れておりますし、わたくしと一緒に雪遊びを致しましょう?」
「え?」
私の耳は、妻が口にするものとしてはおよそ想定外の言葉を運んできた。