旦那様の苦悩 1
脳裏に、決して忘れる事が出来ない女の声が木霊する。
――本当に残念な男。
――もう、あなたは呪いに掛かっている。解くことが出来るのは、わたしだけ。
――解いて欲しいのなら、わたしの細やかなお願いを叶えてちょうだい。
――嫌なら良いのよ? だってわたしにとっては、そのままの方が手間が無いのだもの!
ああ、忌々しい!
クワッ! と、苛立ちと共に閉じられていた瞼を開くと、寝たふりをしていたはずが、いつの間にやらうとうとと微睡んでいた脳裏に滑り込んできた夢の残滓が、嘘のようにかき消えていく。
次いで、ぼやけた視界は急速に焦点を合わせて行き、私の腕の中ですやすやと寝入る、夢の中に現れた忌々しい女と寸分違わず同じ顔をした女の寝顔を映し出す。
ドクン、ドクンと、私の意志に反して勝手に激しく脈打ちだす鼓動。苛まれる、耐え難い飢えにも似た衝動と痛みすらもたらす渇き。
「クソッ……!」
己の意志に反して、彼女へと勝手に伸ばされそうになる手。暴力的なまでの情動を無理やり抑え込もうと、目を閉じ両手でシーツを強く掴んで耐え続けていけば、ようやく強烈な嵐の如き感覚が和らいでいく。
いっそ、このまま幻のように消え去ってくれやしないかと毎日のように願い続けても、それは常に身体の深奥で燠火のように燻り続け、些細な出来事で劫火と化す。
私は荒い呼吸を吐きながら彼女の寝顔を慎重に観察し、深く眠っている事を確認すると……そっと唇を重ね合わせた。途端に背筋を電流が走り抜け、歓喜が全身を満たす。
うっすらと開かれている唇に舌を這わせ、柔らかな唇をはむ。身体中に活力が漲って、耐え難い渇きが紛れるまで。
……今日も、私に掛けられた呪いは解ける気配が無い。
大店の商会の後継者として生まれ育った私が、忌々しい女に呪いを掛けられたのは、本当に些細な出来事が原因だった。
付き合いで渋々出席した夜会で、不注意で衝突してしまい、私の手にしていたワイングラスの中身が女の着ていた服にかかった。
軽く謝罪し、弁償を申し出た私に、女は酷く怒り狂い、「呪いを掛けてあげるわ」と宣言したのである。
こうして改めて思い出してみても、まるで現実味のない話だ。
もちろん、その場では女の言い草を私はまったく相手にしなかった。
……だがその日から、呪いは確実に私の身を蝕んでいった。
まず、冒されたのは集中力だった。何をやってもとにかく落ち着かず、ふと気が付くとあの女の事を考えている。職場でボンヤリとし、この場に居る訳が無いと分かりきっているというのに、それでも視線をさまよわせ彼女の姿を探し始める。
次に狂い始めたのは食欲と睡眠だった。もとより不規則な生活を送っていたが、好物さえたびたび喉を通らないだとか、なかなか寝付けない上にようやく寝入ってもあの女の夢を見て飛び起きる。
身体中が飢えと渇きに苛まれ、病気でもないのに熱を持つ。訳もなく不快になり、焦燥感に駆られ。
呪ってやる宣言から数日も経つ頃には、私はもう頭がおかしくなりそうだった。
……ドレスを台無しにした代償にしては、この呪いは重すぎるだろう。
呪いを解いてもらうべく、名すら知らない女の姿を求め、それからしばらくはあちこちの社交場を出入りする日々が続いた。
探し始めてから一週間ほど掛かって、ようやく女の素性を突き止め、会いに行った。
彼女は零落した子爵家の相続人で、条件の良い結婚相手を探して社交場に出入りしていたらしい。
彼女の姿を目にしただけで、全身に纏わりついていた諸々の不具合が一切合切消え失せ、代わりにそれまでの反動からか身体が異様に軽やかになった。
呪いを解いてくれ、と詰め寄る私に女は眉をひそめ、交換条件を出してきたのである。
「……ん……」
唇をはんでいた女が、喉の奥で小さく唸った。このままではまずい。彼女が目を覚ましてしまう。
私はそろりそろりとベッドを抜け出し、大急ぎで着替えてメインダイニングに下りていった。
「おはようございます、旦那様。今日もお早いお目覚めでございますな」
「ああ」
主人の起床をどこからともなく察知し、ダイニングで待ち構えている家令にぞんざいに頷き、私は朝食を運ばせる。グラスの中の水をひと息に呷っても、再び忍び寄ってきた渇きが癒される気配すら無い。
窓の外を確認すれば、昨夜の雪は止み、太陽が顔を出し始めていた。
「昨日にも、奥方様より旦那様と朝食を共にしたいと申し出がございましたが、お起こしして参りましょうかな?」
一人黙々と食事をとる私に、給仕していた家令が毎度の提言を出してくるので、私は手を止めずに「寝かせておけ」と答えた。
「奥方は私よりも多量の睡眠が必要な人だ。彼女の休みたいだけ休ませておけ」
「さようでございますか」
何かを含んだような眼差しと表情で、家令が頷く。……父が当主の頃からこの屋敷を取り仕切っている、私の幼少時よりよく知る人物だが、本当に食えない爺だ。
せっかく、一人静かに心落ち着けるほぼ唯一の時間が朝食だというのに、またしても呪いでこの細やかな安らぎの一時すら奪われてたまるか!
……ああ。家令が奥方の話題など出すから、またぞろ呪いが騒ぎ始めた。
「仕事に向かう。馬車を回せ」
「かしこまりました」
少し朝食を残してしまったが、呪いで心臓が騒いで心落ち着かなくなり、食欲が失せてしまった。私は席を立ち、玄関に向かう。
待機していた馬車に無言で乗り込むと、ドアが閉まるなり私は懐に手を入れ、大きめのロケットを取り出す。私の結婚式の際に都随一と評判の画家を呼び、描かせた一枚である。本物とそっくり同じに描け! と入念に厳命しただけあって、花嫁姿でこちらに微笑みかけてくる絵姿の彼女は、瓜二つだ。
馬車が社屋に到着するまで、私は食い入るようにロケットの絵姿を見つめていた。
「よー、今日も早いな会長さん!」
「そう言う貴様は毎度の重役出勤か。恥を知れ」
社屋の最奥部に存在する仕事部屋にて、黙々と上がってくる書類に目を通していた私は、昼近くになってようやく出勤してきた共同経営者に胡乱な眼差しを向けた。
私の従兄弟にあたるひょうきんなこの男は、我らの祖父から受け継いだ商会の商売だけではない、様々な根回しや交渉を主に担っている。表向きは私が代表だが、実際は一族にはかって運営を回し、私個人では実権らしい実権は持ち合わせていない。……本宅の居住権ぐらいか?
「昨日は隣街を往復してさあ、眠いのなんの……っと、それより会長ー、昨日の嫁さんとのデートはどうだったのよ?
盛り上がった? 感動した? 嫁さん大喜び?」
「……」
自分の仕事に取り掛かるでもなく、机にズイッと身を乗り出し、昨夜の首尾を尋ねてくる従兄弟に、私は深々と溜め息を吐いた。
「あの演目は奥方のお気に召さなかったそうだ。
貴様の推薦であるからと、奥方の気に入る演目の上演を条件にせっかく出資してやったというのに、役者も脚本家も、どうやら金を懐に入れるだけ入れておいて、手を抜いていたようだな……」
昨夜の不愉快事項を思い出し、怒りから思わず書類を掴む指先に力が入る。
シナリオには一貫して筋が通っていたし、素人ながらに引き込まれた。だが、私自身、いや他の誰が善しとしようが、それは何の意味も持たないのだ。……妻が認めなければ。
彼女は微笑むどころか、ツンと顔を逸らして「早く帰りましょう」と、とてもつまらなさそうに言った。あの瞬間に私を襲った絶望感を、この従兄弟には理解する事が出来ないのだ。
「いやいやいや、あの人ら、そらもうめっちゃ真剣に稽古してましたから! 若い女性がうっとりする、素敵男性から唯一無二に愛されラブストーリー? とかいうシナリオ、頭ハゲるまで悩み抜いてたから!」
「まずは結果ありき、過程を言い訳にする輩は好かん」
とはいえ、あの劇団に契約不履行を突き付けわざわざ人をやって金を回収しに行かせるのも、時間の無駄だ。既に昨夜の奥方の反応が芳しくなかった事と、次回作へのプレッシャーは手紙に認め出しておいたので、今度こそ頭を捻った演目を用意するだろう。
「今の演目、巷では概ね評判良いのに……嫁さんの趣味はコメディか、アクションなのか?」
「さあな。奥方自身は、自分は出掛ける事自体を好まない、と言っている」
「ウソ臭っ。なあ、嫁さんって本当に記憶喪失な訳? 演技とかじゃなく」
「……あれが演技だとすれば、私は恐らく一生、人の嘘偽りは見抜けんな」
サッサと仕事しろ、と従兄弟を追い払い、私は再び書類に目を落とした。……集中力が削ぎ落とされている。
私は懐からもう一度ロケットを取り出し、パチリと蓋を開いて絵姿を注視する。ドクン、ドクンと心臓が不整脈となり騒ぎ出し、やがて落ち着くまで。
そんな私の姿に、従兄弟が立ち去り際ぼそりと呟いていく。
「……ホント、重傷だよなあ……」
そう思うのならば、貴様ももっと本腰を入れて呪い解除に協力しろ。