奥方様の懊悩 3
そう言えばわたくし、遊びらしい遊びだなんて、やってみた事がないわ。何故ならばわたくしは夫の妻で、当然大人の貴婦人として過ごさねばならなくて……
「奥方様は記憶を無くされ、言うなればまだ物心ついたばかりのようなものではありませんか。
きっと、新鮮な気持ちで雪遊びを楽しめますわ」
「そう……かしらね?」
「……本日の旦那様の帰宅予定時刻を確認して参ります」
金髪おっとりちゃんに笑顔で勧められ、わたくしが興味を示している事を察した黒髪クールちゃんは、素早く立ち上がった。
そう、そうよね。いくらわたくしが雪遊びに挑戦してみたいと思っても、夫と一緒でなければ嫌よ。夫のお仕事の都合を確認しなくてはね。もしかしたらお仕事とお天気の兼ね合いで、数日空いてしまうかもしれないわ。夫婦のお出掛け計画を夫任せにしていないで、もっと早くにわたくしもプランを練るべきだったかしら。
「さあさ、そうと決まれば朝食の後にでも雪遊び用のご衣装を見繕いませんと」
「外出用の外套だけで十分なのではなくて?」
「いけませんわ、奥方様。
外の寒さに晒されるだけではなく、自分から雪にまみれるのですもの。上から下まで防寒を徹底すべきです。
それだけでなく、終わった後にはスムーズに暖が取れるよう、暖炉とお風呂のお支度と、旦那様にお出しする温かい飲み物を決めて……」
「まあ……雪遊びって、事前準備が大変なのね」
その大半の準備を整えてくれるのは、お屋敷で働いてくれている使用人の皆だけれど。
メインダイニングに赴き朝食を済ませ、わたくしは動きやすさと暖かさを重視して自分と夫の防寒具をじっくりと選び、身体の芯から温まるというスープや飲み物を試作してみる。
全てメイドや料理人に任せておけば良いのだろうけれど、これはわたくしの遊びの為の準備。お勉強そっちのけにしてワガママを言い出したのだ。自分の出来る範囲では自分で動いてみたい。
記憶を無くしたわたくしの為、ご好意でマナーを教えて下さっているわたくしの遠縁に当たる老婦人は、「今日の奥方様はいきいきしておりますね。根の詰め過ぎもよくありませんから」と、本日の授業はお休みすると告げた。
今日は夫と雪遊びをしてみたいと、お屋敷に仕えている人々に告げると。
「さようでございますか。入り用の品があればお申し付け下さい」
「旦那様のお仕事の都合なら、きっとつきますとも」
「今日のお夕食はお風呂の後に、温まる献立に致しましょうね」
「今日の空には晴れ間が見えておりますから、きっと存分に楽しめますわ」
「雪遊びの後は、ココアをお出しするのはいかがでしょう?」
「いや、それは夕食後にして、野菜ポタージュをお出ししよう」
「奥方様と旦那様、共に暖炉で暖まりながら……」
「そう、毛布にくるまれて……」
「ほぅ……」
「お前ら、それよりもまず肝心の、雪遊び場所選定が先だろ」
「広い前庭が良いのでは?」
「いや、雪に埋もれて見えにくいが、花壇の段差があって危険だ」
「裏手のお庭でしたら、まだ誰も踏み行っておりませんよ」
「人目にもつきにくいですし、誰も手をつけていない裏庭は好きなだけ雪遊びが出来ますね」
「奥方様、旦那様の社屋に走らせていた使いが戻って参りましたぞ。今日は昼過ぎに帰宅されるとの事です」
皆、口々にそれは良い案だと笑顔で頷いて、気を回して準備を手伝ってくれる。
ねえ、あなた。あなたがお仕事のし過ぎでわたくしだけでなく皆に心配を掛けているように、もしかしたらわたくし自身も、『完璧な貴婦人』たらんとして焦りすぎていた事を、皆に……そしてあなたにも、心配させてしまっていたのかしら?
雲の合間から差し込む、冬の和らいだ雰囲気を纏う太陽が天頂から少しばかり傾いた、午後。
今日も早朝から早起きしてお仕事に向かわれた、毎日多忙を極めているはずの夫は、馬車に乗って普段よりもだいぶ早い刻限にお屋敷へとご帰宅された。
「お帰りなさいませ、あなた」
「あ、ああ。ただいま」
御者がドアを開けるのを待たず、内側からバタン! と勢い良く開いてステップも踏まず、ハットが吹き飛んでいかないのが不思議なほど、もどかしげに飛び降りるようにして馬車から出てきた夫は、玄関先のポーチにて出迎えに現れた笑顔のわたくしに、やや戸惑ったように帰宅の挨拶をする。
どうしたのかしら、とわたくしが首を傾げると、旦那様は事情をよく把握していらっしゃらないご様子。お屋敷からの帰宅を請う連絡がいって、一緒に働いている仕事仲間の皆様から、寄ってたかって帰宅するよう促されたのだとか。
恐らく、このお屋敷で働く人々と同じように、商会の方々にも働き過ぎだと思われていたのではなくて? あなた。ふふっ、わたくし達、存外似た者夫婦だったのね。
「お忙しい中、お呼び立てしてしまいましたか?」
「いや、大きな商談も入っていないし、調整は幾らでも利くけれど……」
帰宅するよう職場へ連絡するだなんて、いったい何事? もしや何か、重大な問題が!? と、夫の顔が訴えてきている。
「あなた、今日は晴れておりますし、わたくしと一緒に雪遊びを致しましょう?」
「……え?」
まあ。鳩が豆鉄砲を食らったお顔とは、夫が仕事をさぼって遊びに誘われたお顔と同義だったのね。
それから、夫に用意していた防寒具を着せて、わたくし達は揃って裏庭にやって来た。
誰も足跡を付けていない純白の雪原は、かすかな木洩れ日をキラキラと反射して宝石よりも美しく輝いている。
わたくしのみならず、夫もこれまで雪遊びをした事が無いという事で、まずはそれぞれ大きな雪玉を作り、二つ重ねて作るスノーマンの製作に打ち込んでみる。
暖かな手袋に包まれた手でフワフワの新雪を取り上げ、丸めて玉を作り、雪の上を転がしていったのだけれど。
「不思議だわ。どうしてあなたの雪玉はまん丸なのに、わたくしの雪玉は不格好な楕円形になるのかしら?」
スノーマンの設置予定場所、と定めた寝室の窓から見える位置に夫がゴロゴロと転がしていった大きな雪玉は、こうして真正面に立つとわたくしの太腿に達するほどの高さがあるにも関わらず、ほぼ完璧な球体を誇っていた。
「……多分、君は同じ角度から一直線に雪玉を転がしていたから、同じ部分にばかり雪が重なっていったんじゃないかな?」
「まあ。雪玉作成のコツをよくご存知ね、あなた」
なるほど、一方向からただ押していけば良いものではなくて、転換や別方向からのアプローチも視野に入れるべきだったのね。雪玉作成……奥が深いわ。
「君が『あなたよりも大きい雪玉を作ってみせますわ!』って、張り切ってゴロゴロ転がしている姿を見れば、なんとなく分かるよ」
スルリと垂れてきたマフラーの端を背中側に払い、夫はわたくしが作った楕円形の雪玉を「よっ」と持ち上げ、ご自分が製作した雪玉の上に乗せた。転がり落ちないよう、上からグイグイと押し付ける。
「……形はいびつかもしれないけれど、全体的な総面積で言えば、あなたの作った雪玉よりも、わたくしの雪玉の方が大きいもの」
「ははは、そうだね。持ち上げるにはちょっと重かったよ」
重ねられ、わたくしの胸の高さにまで届く大きさとなったスノーマンを眺め、わたくしは首を傾げた。
「あなた、雪玉が二つ重なっているだけで、どうしてこれはスノーマンと呼ばれていますの?」
「えーっと、確か……これに更に手や顔を作って人間を模しているから……だったと思う」
「まあ、どうやって手や顔を作るのかしら。彫り込み?」
「手は枯れ枝を両脇に挿してみよう。林に落ちてるだろうから、一緒に探しに行こう」
「ええ」
裏庭の林へ散策に誘って下さる夫の差し出してくる手に自分の手を重ね、すっかり葉が落ちて雪が高く積もる林の中を歩く。一歩踏み出すごとに、ズボッと雪にはまり込む足を持ち上げ、進み、夫に手を引かれ。
まあ、ほんの少し林に入っただけだというのに、こんなに足が沈んでしまうのね。これでは確かに、事前にブーツとズボンに着替えていなくては危険だわ。
「こちらは思ったより雪が深いね。大丈夫かい? 私が歩いた後を辿れば、少しは歩きやすいと思う」
「ええ、ありがとう、あなた」
こちらを気遣ってくれる夫の表情が、いつになく優しい。
わたくし達はスノーマンを飾り付けるのに使えそうだと感じた林の落とし物を思い思いに拾って、裏庭に戻った。
長い枯れ枝をスノーマンの胴体にえいやっ! とひと思いに突き刺す。
「……な、なにもそんな、真っ正面から全力でお腹に突き入れなくても……」
「あら、中途半端に挿して、後から落ちたらそちらの方が可哀想じゃない」
「君は思い切りが良いね」
そう言って、夫が右手側に短い枝をブスッと挿したので、実は横向きスノーマンではなく、片手を前に差し出したポーズのスノーマンとなった。
雪を払って拾ってきた黒い小石を上に並んで二つ、少し離した下に長細い形の石を斜めに一つ嵌め込んで目と口を象り、奇跡的にうろの中に残っていた茶色い木の実を真ん中に挿すと、確かにこれはもう顔のようにみえてくる。
「後は……そうだわ、この帽子を被せてみましょう」
「では、私はこのマフラーを巻いて……」
わたくしが仕上げに頭に被っていた帽子をスノーマンに乗せてみると、夫は首から外したマフラーをスノーマンの継ぎ目に巻き付けた。
「ふふっ、完成ね!」
「……つまりこういうポーズかな」
スノーマン完成に両手を叩くわたくしに向かって、夫は右手を差し出しつつ、唇の片方を器用に持ち上げて笑う。
「まあ、そっくり! 記念すべき、夫婦の初の共同作品ね」
「そうだね。初作業にしては、なかなか堂に入った作品だと思う」
「あなた、次は雪玉の投げ合いをしましょう。絶対にわたくしが勝つわ!」
「いくら奥さんといえど、私は勝負事には妥協しないよ?」
わたくしは差し出されている夫の手を両手で掴んでせがみ、黒髪クールちゃんから教わった、投擲用雪玉を大量に作ってぶつけたら怒られた。
まあ、黒髪クールちゃんから教わった、中に石を入れる雪玉は反則技だったのね。「集団戦の際には無類の威力を発揮します」という言葉と共に、指導者を正直に夫に伝えたら、頭を抱えてしまわれたわ。
空が曇ってきたのを機に、わたくしと夫は雪遊びを終了してお屋敷に戻り、着替えて共にスープを頂く。
楽しくてちっとも気にならなかったけれど、わたくし、少し身体が冷えていたみたい。手がかじかんでいて、温かいスープの器を両手に持つと、じんわりとほぐれていく。
「今日は急な思い付きで呼び出してすみません。でもわたくし、とても楽しかったわ、あなた」
「妻のおねだりを叶えるのも、夫の甲斐性だよ。流石に毎日は困るけれど、ね」
寝室の暖炉の前に敷かれたフカフカなラグの上に並んで座り、毛布を被ってスープで暖をとるわたくしの頭に手を置き、夫は小さく微笑む。
「私も……子どもの頃はこんな風に遊ぶ事は無かったから、今日はとても楽しかった」
「来年も、冬になったら雪遊びをいたしましょう」
「ああ、約束しよう」
来年の雪遊びには、夫とわたくしの分のマフラーや手袋を、自分で編んでみようか。夫は喜んでくれるだろうか?
ふーっと吹き冷ましたスープをひと息に飲み干し、わたくしはカップを傍らにやって、隣に腰を下ろしている夫の膝に頭を乗せた。大きな窓の向こうはまたチラホラと雪が降ってきていて、暖炉の灯りで辛うじて頭だけ見えるスノーマンは、変わらぬ笑顔で純白の祝福を喜んでいるに違いない。
来年も、再来年も、その先の一生涯、わたくし達は夫婦なのだから。
心地良い温もりに包まれて、いつしかわたくしは微睡んでいた。