奥方様の懊悩 2
夫の妻となったわたくしと、記憶を失う以前のわたくしは全くの別人である、という認識をわたくし自身の中で確たるものにするのに、わたくしにはそう時間が要らなかった。
けれど、夫にとっては違う。
夫が大金をはたいてわたくしを『購い』、子爵位を継いだのは当然、夫自身のお仕事の為だ。
夫は生まれも育ちも富裕階級とはいえ平民であり、幼少期から教育される貴族間の常識や、親類縁者や代々伝わる伝手など存在しない。夫がわたくしに、その働きを期待していたのは分かりきっている事実。
けれどわたくしは、貴族女性として果たせる社交の技術を、何も持っていない。記憶を失う以前のわたくしが、全て握ったまま消えてしまったのだから。
高い資金を投入したのに、夫が得たものは実質あって無いも同然の名ばかり爵位と、お荷物にしかならないのに、かといってその辺りに放り出す訳にもいかない妻。
そんな事がある訳が無いと疑い、やがて揺るがない事実だと知った夫が深く落胆するのも、扱いに困るのも当然だわ。あまりにも言動が消極的かつ、腫れ物に恐る恐る触るような夫の態度のせいで、『購われた』わたくしの方が高飛車な物言いでグイグイ主導しなくてはならないこの現状は、誤算なのだけれど。
今のわたくしに出来る事は、遠縁に当たる老婦人からマナーを大急ぎで学びつつ、代々繋いできたそれなりに歴史だけは長い方である一族の血を引くわたくしが、夫の跡継ぎを産む事ぐらいだ。
社交の方は……わたくしのマナーの先生たる遠縁の老婦人の伝手を辿り、幾度かお茶会に招かれ乗り切ってきたが、次回の夫人達のお茶会に招かれる日が、今から頭が痛い。わたくしの記憶喪失を知って、記憶を失う以前のわたくしの友人だというレディ達は、皆様方一様に『つまらなくなった』と言い捨てて離れていき、現在のわたくしは新しい交友関係を築こうと奮闘しているのだけれど。
わたくしをお茶会に招いて下さる方々は、もしかするとわたくしの夫や夫の商会に良い感情を抱いておらず、わたくしへ声を掛けるのはひょっとして嫌がらせ目的なのでは、と考えてしまうのだ。顔を合わせるたびに、いかにわたくしの夫が悪辣な商売人で、冷酷な人格で多くの人々に辛酸を舐めさせたか、笑顔で吹き込んで下さる。
いくらわたくしがもの知らずの記憶喪失であるからと言っても、商売とは清廉なだけでは成り立たず、競争相手を出し抜く強かさが求められるのは知っている。夫とて、仕事においてもプライベートの気弱な態度でいたならば、あっという間に破産に追い込まれていただろうから、ある程度は事実なのだろう。
けれど、いくらなんでもわたくしの夫。無能な従業員は、即座に物理的に切り捨てているだなんて有り得ない。(解雇を大袈裟に吹聴しているのだろう)
更には利益追求の為、対立しあう派閥へそれぞれ武器や情報を振り撒いて共倒れに導いただなんて、それこそ夫には逆立ちしてもそんな芸当出来そうに無い。(夫曰く、たまたま偶然、派閥代表へその時期直前に武器を一振り納入しただけ、だったそう)
無論、そんな話を吹き込んで『そんな夫に買われてお可哀想に』と、優越感に浸りたい夫人には、噂と異なり夫がいかに素晴らしい旦那様であるのか、笑顔で惚気ている。わたくしの夫を侮辱する者は、それが誰であろうと許しがたい。
……貴族階級の噂話は、本当に悪意と嫉妬と虚飾に満ち溢れていて、未熟なわたくしでは社交場を乗り切れるのか、いつもたいそう不安になる。
けれど、頑張らなくては。
夫の仕事に有利な人脈を持つ派閥に近付き、力と立場を不動のものとする。それがわたくしの望まれた役割なのだから。
だから本当に、お近づきになりたい人物が足を運んでいない平民富裕階級向けの劇場だなんて、夫婦で出掛けている場合じゃないのよ、あなた。
「お休みなさい、あなた」
眠る夫の瞼に軽く口付けを落とし、わたくしも夫の温もりに包まれていつしかウトウトと健やかな眠りの世界に旅立っていた。
翌朝目を覚ますと、わたくしは広いベッドを占領しており、既に夫は隣には居なかった。
わたくしはベッドサイドへと腕を伸ばし、チリンチリンと呼び鈴を鳴らし、わたくし付きのメイド達を呼ぶ。
「おはようございます、奥方様。お呼びでございますか」
お屋敷で働いてもらっているメイド達の内、わたくし付きのメイドは二人。おっとりとした金髪のメイドと、吊り目でクールな黒髪の彼女らは、どちらもどこへ出しても恥ずかしくない仕事人である。
朝であろうが指の先から足運びにまで動きに隙が無く、ドアを開いてキッチリと礼を取る流れまで、わたくしのメイド達には粗雑さの欠片も見当たらない。
「おはよう。旦那様はもうお仕事に向かわれたのかしら?」
対する、彼女らの主人であるわたくしはと言えば、寝起きの欠伸混じりに、ベッドの下にたくし込まれていたにも関わらず、盛大に捩れてズレたせいでシーツに皺が寄り、それを下敷きに熟睡していたせいでうっすらと跡さえ残る腕をのろのろと動かし、口元を覆った。あら、唇脇のこのカサついた感触……嫌だわ、わたくしったらまた涎を垂らして眠っていたのね。
「はい。『奥方は休ませておけ』と申し付けられ、朝早くにお出掛けになられました」
「もう……良いわ、明日も早朝からお出掛けになるようなら、旦那様がなんと言おうが遠慮なくわたくしを叩き起こしてちょうだい」
「かしこまりました」
今度こそ、お仕事に向かう夫のお見送りに間に合うよう起こしてくれると、明日の朝の約束を取り付けたメイド達に身仕度を命じ、わたくしは彼女らの手によって『お屋敷の奥方様』に相応しい装いに調えられていく。
記憶を失ったせいなのか、それとも生来のものなのか。
夫は決して何も口に出しては仰らないけれど、わたくしは寝起きが悪ければどうやら寝相も悪く、更にはよだれで唇の周りがべとべとになるほど、毎晩大口を開けて熟睡しているらしい。いくら何でも、目が覚めてからの毎朝のこのベッドの惨状を見れば嫌でも悟る。この上、いびきや歯軋りをしていたとしてもわたくしは驚かない。
こういうのも、子ども返りと言うのかしら。仮にも淑女として、大変相応しくない寝姿ではあるのだけれど、矯正する為には何をどうすれば良いのかしら。
結婚以来、毎晩共寝している夫がわたくしの寝相に音を上げる前に、何とかしなくてはならないのだけれど。
いいえ、ちょっと待ってちょうだい。もしかすると、昨夜の「君は自分の寝室で休んだらどうだい」発言は、夫なりの『もう君の寝相の悪さには我慢ならない』宣言だったのでは……?
「何てこと……!」
「奥方様? どうなさいました?」
よだれだらけの寝起きの顔の洗面を済ませ、わたくしに部屋着を着付けて鏡台の前に座らせ、髪の毛を丹念に梳いていた金髪のおっとりちゃんが、わたくしの呟きを聞きつけ尋ねてきた。
「わたくし……ついに、旦那様に疎んじられてしまったのかもしれないわ」
そもそも、社交に関わる貴婦人たる者、たとえ記憶を失っていようが弱みになりかねないそれは澄まし顔で隠し、わたくしには何の瑕疵もありませんと、堂々たる優雅さと余裕を貫き通して夫の手助けをしなくてはならない。
にも関わらず、結婚式から五日後に初めて招かれた席でわたくしは『隠さなくてはならない』という意識すら欠片も働かず、わたくしが記憶を失い性格が豹変したという噂は社交界に流れた。記憶喪失という異変に一部の夫人方からは同情を得られる結果となり、それでいて影響力などほぼ無い長く続いてきた一族の歴史に拘るだけの、知名度も限りなく低い弱小貧乏貴族だったのが幸いし、わたくしの事になど興味は薄いとばかりに社交界ではすぐに違う噂が席巻したのだけれど。
「喋ってしまったものは、もう取り返しもつかないから仕方がないね」とは、生まれながらにしてお金も方々への影響力も持つ夫の談である。こうなった以上、下手に隠し立てはしない方が良いと言われ、わたくしは屋敷でも表でも、知らないものは正直に『知らない』と答えるようにしている。結婚する以前のわたくしの知人などには、親しげに振る舞われても困惑するだけだという事実を正直に相手に伝え、そうして疎遠になってしまう人々……
ただでさえ友人と呼べる人はいないというのに、結婚以前の友人達どころか夫からも今のわたくしを否定され、時折挫けてしまいそうになる。
「まあ……旦那様が奥方様を疎まれたのでしたら、早々に別宅での暮らしにお戻りになられるのでは?」
金髪のおっとりメイドちゃんは、鏡の向こうで不思議そうに瞬きながら首を傾げた。
「失礼ながら奥方様。旦那様の言外のご意向を、無為に悪意に満ちた方向に捉えてお考えになるのは、大変よろしくない傾向かと存じます」
黒髪クールメイドちゃんは、眉一つ動かさず静かに諫めてくる。
そんな彼女らの、わたくしを飾り立てていく手は話しながらでもまったく止まらない。
「……では、旦那様はどういったおつもりなのかしら」
「奥方様は学ぶべき物事が多くございますし、旦那様は爵位を継がれたばかりでご多忙ですもの。
今、お子を授かっても満足に育児にお時間が割けない事を懸念されていらっしゃるのでは?」
「……奥方様は、まずは旦那様との会話の時間を増やされるべきかと」
わたくし付きのメイド達は、いつもわたくしの事を第一に考えて相談に乗ってくれる。わたくしが夫と上手く会話を弾ませられなくて、せめて子どもがいれば……と、心のどこかで逃げている事を見抜いているよう。
「どうしたら、旦那様と楽しくお話が出来るかしら」
「旦那様が連れ出されるお出掛け先は、奥方様のお好みではないのですよね?」
「ええ」
黒髪クールちゃんの、念を押すような確認に、わたくしはきっぱりと頷いて肯定する。
夫が連れ出すのは、婚前のわたくしが好んでいたような遊び場や社交場。……そういった場に今のわたくしが触れる事で、少なくとも現在のわたくしよりは社交的で、無能とまではいかない貴族令嬢だった婚前のわたくしが再び現れる事を期待しているかのように。
「でしたら、今日は旦那様とお二人で、お庭で雪遊びなどいかがです?」
「……え?」
良い事を思い付きましたわぁ、と言わんばかりに、金髪おっとりちゃんは瞳をキラキラと輝かせて、ヘアブラシを持ったままポムと両手を軽く叩いた。
貴族の夫人として相応しくあれ……と、毎日を厳しく節制していたわたくしは、まったくもって夫人の優雅さとは程遠い遊戯の提案に、気の抜けた疑問符を返していた。
「昨夜から今朝まで吹雪いておりましたが、今日の昼間は晴れておりますわ」
雪って、冷たくて寒くて、その上無駄に積もって通行を阻害する、不便で嫌な物ではなかったかしら?