奥方様の懊悩 1
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
プリンセスに嘱望された騎士の人生を狂わせた、美しき運命の女、ファムファタルとの仲を引き裂こうと画策された陰謀は見事に失敗に終わり、騎士は美女を連れて姿を消す……
そんな結末を迎えた舞台は、ゆっくりと幕を下ろした。ホールには明かりが灯されていき、客席では一時の夢の時間から解き放たれ、ざわつきはじめる人々。
「ど、どうだった?」
わたくしの隣席にて舞台を鑑賞していた夫が、席から立ち上がりつつも、おどおどとした態度で、恐る恐る探るようにわたくしの顔色を窺ってくる。
「そうね、とても素敵な舞台装置や演出だったのではないかしら」
「そ、そうか。君に気に入ってもらえたなら、良かった……」
わたくしの感想を聞き、明らかにホッとしたように、相好を崩す夫。
わたくしは顎をツンと逸らした。
「あら、わたくしは『気に入った』だなんて、一言たりとも申してはおりませんわ」
「そ、そうか。すまない、評判の良い舞台だと聞いていたから、きっと君も楽しめると思って……」
俯き、いつまでも手を差し出してこない夫に見切りをつけ、わたくしは客席から立ち上がった。
「もう帰りましょう、あなた」
「あ、ああ」
立ち上がってしばらく待っても、腕を差し出してこない夫を見下ろし、わたくしは帰宅を促す。
指二本分ほどわたくしよりも背が低い夫は、こうして盛装しヒールの高い靴を履いたわたくしと並ぶと、握り拳一つ分は身長差が生じる。強引に夫の腕を取り、馬車へと向かう。
決して、自分からは腕を差し出してはこない夫は、わたくしと並んで歩くのが嫌なのだろう。決して低くはない夫の背丈が、無駄にのっぽなわたくしと並ぶと、無為に貧相に見えるかもしれないと疑心暗鬼に陥って。
わたくしが腕を引くようにして移動している今も、演劇を観覧していた紳士淑女の目を気にしている。
今夜の美女役と騎士役の俳優は、どことなくわたくしや夫の容姿と共通点があり、観覧中についつい現実と比較してしまって、夢から強制的に目覚めさせられたような心地になってしまった。
わたくしの夫は、とても卑屈で自己評価が低い。先ほどの舞台で「お互いが共にある事こそが最良の人生となる」と、朗々と美女への愛を語り想いを貫いた、自信に満ち溢れた騎士とは大違い。
劇場の周辺を回らせていた馬車に乗り込むと、人目が無くなった事でストレスが減ったのか、夫は張り詰めていた緊張を解くように大きく息を吐いた。
「今夜は今一つだったかもしれないけれど、また演目が変わったら観に行ってみよう。
舞台装置や演出は良かったんだよね? きっと次は俳優達の演技にも磨きが掛かって、脚本家の腕も上がってると思う」
「そうね、あなた」
ふかふかとしたクッションが山ほど用意されている馬車の座席に、半ば埋もれて座っているわたくしの向かい側に腰掛け、夫は熱心に話し掛けてくる。
わたくしは馬車の窓の向こう、外灯に照らされる街路へチラホラと舞いだした、白い雪片をぼんやりと眺めながら投げやりに頷いた。
「……君は、観劇は、さほど好きじゃないのかい?」
「好きでも嫌いでも無いわ」
「じゃあ、サーカスは? それとも美術展や、コンサートなら楽しめるのかな」
畳み掛けるように、夫は次回のお出掛けの場所を選定しようと候補を上げてくる。わたくしは窓の方へ顔を向けたまま、横目の視線だけで夫を見据えた。
「強いて言うのなら、わたくしは出掛けるのが好きではないの」
だってあなた、外に出たらわたくしではなくて、他の人にばかり気を取られるじゃないの。つまらないわ。
「そうか……」
ショボンとうなだれる夫からぷいっと顔を逸らし、わたくしは語気を強めて言い捨てた。
「あなたのお仕事がお休みの日も、お屋敷でのんびりしていたいわ」
「わ、私は君を屋敷に閉じ込めているつもりは無い。日中ぐらい、好きに出掛けてくれて良いんだよ?」
「わたくし、内向的なの。どこかの夫は理解していないようだけれど」
「だけど結婚前の君は、毎日出歩いて……」
「あなた」
言い募ろうとした夫の言を呼び掛けるだけで遮ると、わたくしは夫の顔を真正面から見据えた。
「結婚前のわたくしと、今のわたくしは別人だわ。
わたくし本人が欠片も覚えてはいない事を、さもその事例が正しいと言わんばかりに持ち出さないでちょうだい」
「ああ、その……すまない」
しゅん、と縮こまってしまった夫が謝罪の言葉を口にすると同時に、馬車が止まった。屋敷に到着したらしい。
御者が恭しく扉を開くが、気落ちしている夫はすぐに降りようとしない。わたくしはバッグを片手に、御者が差し出す手を無視してサッサと馬車を下りた。わたくしが差し出して欲しい手は、壮年に差し掛かった御者の皺のよった手ではない。
「あなた、こんな所で立ち尽くしていたら、わたくしも御者も寒いわ。早く出て来てちょうだい」
「奥方様、そのような物言いは……」
「いや、すまない。今夜はありがとう。なるべく早く暖まってくれ」
玄関ポーチにてクルリと馬車へ向き直り、両手を腰に当ててわたくしが夫を促すと、仰天した御者が大慌てで諫めようとしてくるが、当の夫本人がわたくしの差し出口をフォローするように、御者を労い早めに仕事を切り上げるように言い含める。
淑女としてはとても相応しくない、妻の思い上がった口ぶりを正そうとするのではなく、むしろ迎合するような夫の態度に、御者は心底驚いたように目を剥き、次いでマジマジとこのお屋敷のご主人様たる雇い主を見つめた。
真顔で御者を見返す夫の腕を強引に引き、わたくしは出迎えてくれた家の者達に帰宅の挨拶を投げつつ、屋敷へと足を踏み入れた。
わたくしと夫は、つい最近結婚したばかりのいわゆる新婚という関係だ。
夫は急成長を遂げた豪商であり、わたくしは没落した子爵家の相続人。
夫は周囲の人材に恵まれ成功を収めた大金持ち、わたくしは我が家が代々受け継いできた唯一の財産とも言える荘園を手放したとしても到底首が回らない、借金塗れの火の車。
夫の祖父は小作人の小倅として生を受けるも商才を発揮した一角の人物で、わたくしの祖父は貴族の責務を理解せず家を傾けた人物。
ああ、本当に。
嫌気が差すほど、とてもとても分かり易い関係。
夫から贈られたのでなければ決して身に着けないであろう、心底から鬱陶しい靴と、防寒対策か身体を覆い尽くすデザインであまり好きになれないドレスを脱ぎ捨てて湯浴みを終え、寝間着の上から分厚いガウンを纏って夫の寝室に突撃を仕掛ける。
ソファーで寛ぎがてら本を広げていた夫が、声掛けやノックもせずに開かれたドアに、弾かれたように顔を上げた。
寝室のドアを閉じるなり、バサッと軽快にガウンを脱ぎ捨てるわたくしに、ポカンと口を開いた夫はわたくしの姿を頭の天辺から爪先まで幾度も往復して見やり、かなり時間を置いてから声を発した。
「そ、その寝間着は寒くはないのかい?」
「ここの寝室の暖炉には火を入れて貰ったもの。平気よ。
それに、メイド達が今夜はこれをお召し下さい、と差し出してきたのよ。わたくし、あなたの服飾センスよりも、あの子達のセンスを全てにおいて信用しているの」
「そ、そうか……」
分厚いモコモコガウンの下の寝間着は、透け透け半透明なベビードールだ。丸テーブルの傍らに立ち、ドヤァッ!? とばかりにポーズを決めるわたくしを無視し、手元の本に再び視線を戻す夫。
ああ、無情。
「あなた、わたくし早く休みたいの」
新婚初夜の時のように、夫の腕でベッドへ運んでもらうのは早々に諦め、夫のベッドに乗り上げ早く来てちょうだいと急かすわたくしに、ソファーに腰掛けたままの夫は、本から顔を上げて困ったようにわたくしを見た。
「この本は、今夜中に読み切ってしまいたいから。君が早く休みたいのなら、自分の部屋で……」
「あなた、わたくしに何度同じ言葉を言わせるおつもりなの?
わたくしは、早く、休みたい、の。早くこちらに来てちょうだい」
「……分かったよ」
一言一言、はっきりきっぱり区切って強調して繰り返すわたくしに、夫は渋々と本を閉じた。丸テーブルの上の燭台の火を消してソファーから立ち上がり、ベッドへ滑り込んでくる。わたくしは傍らに横たわる夫の身体に抱き付いた。
ようやく温まれる。真冬にこんな格好、寒いに決まっているじゃない。
ああまったく。ちっとも乗り気ではない夫を誘惑する事ほど、難しい試練は無いわ。
「お休み、奥さん」
だがしかし、ベッドに入ればつつがなく任務完了とはいかないのが、この夫の底知れぬ点なのだ。
しがみつくわたくしの頭を軽くポンポンと撫で、夫は両目を閉じるとやがて規則正しい寝息を立て始めた。
「……今夜もこんなにすぐに寝入ってしまうのだもの。よっぽど疲れていらしたのね、あなた」
滅多に休みも取れず、毎日毎日仕事に忙殺されているわたくしの夫は、わたくしの前では平気な振りをしていてもその実は疲労を蓄積していて、こうしてベッドに横になると途端にあっさり眠りに就く事が多い。
新婚だというのに、夫婦としての営みが殆ど無い事が不満ではあるが、夫の仕事を手伝う事すら出来ないわたくしが口にしてはいけない文句だ。
ああ、本当に。結婚式の翌日は休暇だという事実と、緊張し過ぎてかなり暴走していたらしい、初夜の激しい夫よカムバック。
わたくしには、夫との結婚式当日以前の記憶が無い。
気が付けば大きな扉の前に佇んでいて、信者席からの複数の視線を浴びつつ腕を取られて赤い絨毯の上を先導され、女神像の前で待っていた夫に引き渡された。
滞りなく流れていく状況に理解が追い付かず、頭の中が真っ白けだったわたくしは、神父様の問い掛けと誓いの言葉の確認によって、わたくしが何者であるのかを知った。
わたくしは夫の妻となる女。
わたくしが成すべき事は、夫の伴侶として生きる事。
不安でパニックに陥るよりも早く、確固とした目的と存在意義がわたくしの中で定まったのは有り難い事とはいえ、知識記憶はあれども個人的な記憶が何も存在しない、という事実はわたくしの動揺を誘うに充分であった。
初夜の床にて、最も身近な存在となった夫へ現状を訴えようと、わたくしは懸命に「話がしたい」と懇願したのだけれど。前述の通り、あの人は新婚初夜にはわたくし以上の緊張感に支配され、わたくしの言葉になど一切聞く耳を持たず。まともな会話らしい会話はただ一言、「諦めて下さい」と口にしたきり、それはもう……
おほん。
とにもかくにもわたくしがようやく落ち着いて、我が身に起こった記憶喪失に関して夫に相談出来たのは、翌朝の……いえ、昼を回っていたわね。結婚式翌日の事だった。
並んで寝台へ横になっていた夫は、話始めの時点では疑っていたのだけれど、わたくしと話す間に少なくとも結婚前のわたくしとは性格が異なるような印象を受けたらしい。
わたくし自身は、記憶を失う以前のわたくしの性格なんて、全く知らないのだけれど。
後々、自分の部屋の捜索や人伝に聞いた情報を繋ぎ合わせると、どうやら活発で活動的、人が集う社交場が大好きで、かつ享楽的な性格であったらしい。今のわたくしとは随分違うわね。先代子爵であるお祖父様の影響かしら?
生家でそのままになっている、婚前のわたくしの部屋に残されていた書き付けや日記に、記憶を失った原因や解決策の手掛かりでもないかと調べてはみたけれど。面白半分に観光地へレディだけで物見遊山に出掛けただとか、気に食わない相手へ細やかな悪戯気分でおまじないをかけただとか……そんな下らなくも愉しげな記述があるばかり。
そんな風に遊びほうけてばかりいるから肝心のお家が傾くのよ、婚前のわたくし。