その二/家族
「……ただいま」
ガチャッとドアを開き、中に入る。
「おかえり、蛍太」
台所からは、トントンと野菜を切る音が聞こえていた。
お母さんが夜ご飯を作っているんだ。イカを食べたばかりだけど、やっぱりお腹空いたな。
今日は何だろう……。スリッパを履いて、中に入っていく。数歩進むと、見慣れた後ろ姿が視界に入ってきた。
「ねぇ、お母さ……」
「先に成績表を見せなさい」
思わず唇を噛む。やっぱりこれだ。僕はランドセルを開いて成績表を取り出すと、お母さんの目の前に出した。包丁を動かす手を止め、布巾で手を拭うと、お母さんはそれを受け取り厳しい目付きで見る。自然に、ドキドキと緊張が走っていった。
「……そう」
そんな一言呟くと、お母さんは僕に成績表を戻した。そして包丁を持ち、料理を再開する。あれ?今日は珍しく、何も言ってこない?
……と、思いきや。
「でもね、蛍太。これで安心してたら駄目よ?来年の中学受験、絶対に合格しないと」
あぁ、また始まったよ。せっかくホッとして、部屋に行こうと思ったのに。
「……うん」
「夏休み、塾の予約はもう取ったから。これでも、蛍太の為を思って言ってるのよ?」
「……はい」
分かってる。お母さんは、僕の為を思っているんだ。だけど僕は、勉強よりも……。
「ねぇ、お母さん」
「何?」
「お願いあるんだけど……」
「──また、野球をやりたいっていう話?」
そう言いながら振り返ったお母さんの顔は、般若みたいだった。無意識に怖じけずいてしまう。……でも。
「うん。野球、やりたい」
これは前から言っていた。学校帰りに校庭で見る、野球の練習風景。僕も、あの中に混ざりたい。野球部に入って、ランニングして、基礎練習して、試合をして……。出来たらピッチャーになりたいんだ。そんなごく普通の生活を過ごしたい。普通の小学校生活を、送りたい。
「駄目よ。蛍太は受験生なの。他の子とは違うのよ?何回言ったと思ってるの?野球をやる暇があったら、勉強しなさい」
……でも、やっぱり決まってこの返事だ。
“他の子とは違う”
何度も言われたその台詞。
“受験生” “勉強”
こんなにも嫌いな言葉は、他にない。
ぽんたの事も頼もうと思ったけど、何となく今はやめておく事にした。また唇を噛んで、ランドセルを持ち上げる。
「荷物、置いてくる」
僕はそう言いながら、自分の部屋に向かったのだった。
それから、暫くして。
「……よし」
今は八時。ちょっと暗いけど、早くぽんたの所に行って、ご飯あげないと……。お母さんがいないのを見計らい、僕は炊飯器からふわふわのご飯をラップに包んだ。そして、抜き足差し足で、玄関へと向かう。スニーカーを履いてドアを開くと、僕は走り出した。
暗い夜道。遠くからは、ザブンと海の音が聞こえてくる。田舎だからかなり不気味だ。でも、きっとぽんたはお腹を空かせている。
だから、急がないと……!
確か、身寄りのない犬は、誰かに見つかればすぐに保健所行きだ。保健所に行っても、新しい飼い主が見付からなければ殺処分……。
夜ご飯を食べながら、僕は決めたんだ。絶対、お母さんとお父さんに、ぽんたを飼う事を許してもらおう。何を言われても絶対に諦めない。ぽんたの為なら、僕は頑張れる。勉強もぽんたの世話も、僕はしっかり出来る。
「ぽんた!」
息を切らしながら茶色いダンボールを見付けると、僕はホッと胸をなでおろした。良かった。まだ、無事だった。ぽんたの所に駆け寄ると、持ってきた白米を目の前に置いてやる。
キューン……?
「食べて?お腹空いてるでしょ?」
そう言っても、ぽんたは食べようとしなかった。やっぱり、ドッグフードじゃないと駄目なのかな?でも家にそんなのはない。
「……どうしようかな。うーん……。じゃあ、帰ってからゆっくり食べよう?もうこんなに暗いから」
そう言いながら、僕はぽんたを抱き上げた。小さくて、軽い。それでも命の重みがちゃんとある。時々、ふさふさの毛が頬にあたって、くすぐったい。ぽんたがいた場所から家までは、そんなに遠くなかった。だけど、一歩一歩踏みしめる度に、緊張が高まっていく。いつもと全く同じはずの道程が、凄く長く感じた。
大丈夫、大丈夫。
ぽんたは、絶対に僕が守る。
ガチャッと、さっきみたいにドアを開いた。
「蛍太!どこに行って……」
声の主はお母さん。その後ろにお父さん。二人の視線は、当然ぽんたに注がれていた。
「ただいま」
「早く入りなさい。しかしどこに行ったのかと思えば……。何だ蛍太、その犬は」
低いお父さんの声に従って、素直に中に入っていく。玄関のドアをしっかり閉めると、二人の目を真っ直ぐに見た。ちょっとでも多く、僕の気持ちが伝わるように。
「この子、家で飼ってもいい?」
当然反対されるのは承知の上だ。だけど飼いたい。これは、軽い気持ちなんかじゃない。
「……蛍太」
さっきよりも低いお父さんの声。
「生き物を育てるのは、大変な事なんだ。お父さんは反対だ」
「お母さんもよ」
……やっぱり。でも、絶対に諦めない。
「僕ちゃんと世話するよ!勉強も頑張る!だからお願い!」
「駄目よ、蛍太」
「もう決めたんだ!僕はぽんたとずっと一緒にいる!」
「蛍太!」
ハッとして、お母さんの顔を見た。いつもよりも、凄く怖い顔をしている。頭から湯気が出ているように見えた。
「我が儘言わないで。犬の世話なんて、やる暇あるわけないでしょ?蛍太は勉強をやればいいの。犬がいたら勉強に支障が出る事くらい、目に見えてるわよ」
「……」
また、始まった。
「いい?他の受験生達も、蛍太がこんな事をしている間に勉強しているのよ?」
嫌だ。勉強ばっかりは嫌だ……。
「犬なんて、将来好きなだけ飼えばいいでしょ。だから今すぐ捨ててきなさい。言う事聞かなければ、お母さんが保健所に連れていくからね」
“捨ててきなさい”
その言葉を聞いた途端、僕の中でプツッと何かが切れた。
「ほら蛍太!早く捨て……」
「嫌だ!何でそんな言い方出来るの?それに、いつも勉強勉強って、お母さんはそればっかり!僕は勉強するだけの道具じゃないんだよ!どうせ、お母さんの自己満足なんだ!どんなに僕が頑張ってもお母さんは褒めてくれない!お母さんは僕の事好きじゃないでしょ!僕だってお母さんなんか大嫌いだ!僕なんか、お母さんの子供に生まれなきゃ良かったんだ!」
嘘みたいに、僕の口からそんな言葉がマグマのように飛び出してくる。自分でも驚いた。目を逸らし、お母さんとお父さんを押しのけると、僕はスリッパも履かずに自分の部屋へ駆け込んだ。バタンと、勢いよくドアを閉めて寄りかかる。
「蛍太!開けなさい!」
「……」
ドンドンと、何度もお母さんがドアを叩いていた。嫌だ。開けたくない。僕は悪くない。ぽんたをぎゅっと抱きしめる。絶対に離したくないよ。ずっと一緒だからねって、約束したんだもん……。ぽんたの背中に、深く顔を埋めた。