後編
裏返された生地が、フライパンの上で誇らしげに膨らんでいる。
真昼はヘラを置き、じっとその変化を見守った。完璧な円。均一なきつね色。自分がずっと求めていたはずの、数学的な美しさがそこにはあった。
けれど、ふっくらとしたその表面に、ポツポツと小さな穴が開いていく。内側の熱気が耐えきれず、外の世界へと逃げ出していくための出口だ。
「……私の心も、こんな風に穴だらけなのかな」
独り言は、湿り気を帯びてキッチンに沈んでいく。
その穴から、あいつと共有していたはずの記憶が、熱と一緒に漏れ出していくような気がした。
あいつはいつも、生地を混ぜすぎるな、と言っていた。
「ダマが残るくらいでいいんだよ。その方が、焼き上がったときに空気が入って、面白い食感になるから」
真昼はそれを「適当すぎる」と一蹴していた。滑らかで、一切のムラがないことこそが質の高さだと信じていたから。
今、目の前にあるホットケーキは、真昼が理想とした通り、完璧に滑らかで、均一だ。
けれど、その完璧さが、今の真昼をひどく孤独にさせる。
あいつが出ていってから、部屋の空気は淀んでいるように感じる。
たとえ窓を開けて換気しても、あいつが持ち込んだ、あの捉えどころのない、自由で乱雑な「気配」が欠けている。
壁に掛けられた時計の秒針が、今まで聞いたこともないほど大きく響く。
カチッ、カチッ、カチッ。
時が刻まれるたびに、あいつとの距離が物理的にも精神的にも遠ざかっていく。
「……もう、冷めてるんだろうな。あいつの気持ちも」
真昼は、皿を棚から取り出した。
二枚セットで購入した、シンプルな青い縁取りの皿。
いつもなら、もう一枚の皿に、あいつが焼いた少し不格好な一枚が載っているはずだった。
今日は、その皿は棚の奥で眠ったままだ。
真昼は、フライパンを火から下ろし、たった一枚のホットケーキを皿へと移した。
「ストン」
軽い音がした。重みはあるはずなのに、どこか空虚な音。
食卓へ運び、椅子に腰を下ろす。
一人で座る食卓は、想像以上に広かった。
あいつが座っていた向かい側の椅子は、テーブルの下に几帳面に収められている。
そこにあったはずの、読みかけの雑誌や、適当に置かれたスマホがない。
真昼は、メープルシロップの瓶を手に取った。
黄金色の液体が、温かいホットケーキの表面にゆっくりと広がっていく。
シロップは生地の穴に吸い込まれ、中へと浸透していく。
「……甘いだけで、満たされるわけじゃないのに」
一口、切り分ける。
フォークを刺す感触は柔らかく、理想的な焼き上がりだ。
口に運ぶと、小麦の香りとバターの風味が広がる。
美味しい。
けれど、その感想を共有する相手がいないという事実は、味覚を麻痺させる毒のように、ゆっくりと喉の奥を締め付けていく。
「……やり直そうとしても、一度焼けたものは戻らないんだよな」
真昼は、シロップで濡れた皿を見つめた。
あいつとの関係も、焼きすぎて焦げたわけではない。
ただ、弱火でじっくりと温めすぎて、中身の水分が失われ、いつの間にかパサパサに乾いてしまったのかもしれない。
「少し、距離を置こう」
あいつが残したあの言葉が、今さらになってナイフのように胸を刺す。
距離を置く。それは、お互いを見えなくすることではなく、お互いのいない景色に慣れるための猶予期間だったのか。
その時だ。
「……ガチャン」
玄関の方で、微かな、けれど聞き間違えようのない音がした。
真昼のフォークを握る手が、ぴたりと止まる。
心臓が、肋骨を内側から叩くような激しい鼓動を始めた。
恐怖ではない。期待でもない。
ただ、身体が、脳よりも先に「その音」を認識していた。
金属が擦れる音。鍵が回る、あの特有の重い振動。
「……まさか」
真昼は椅子から立ち上がろうとして、足に力が入らず、再び座り込んだ。
あいつは鍵を置いていったはずだ。
いや、スペアキーはどうしたっけ。
出ていくとき、すべての繋がりを断ち切ったと思っていたのは、私の方だけだったのか。
「……ただいま」
低く、少しだけ湿り気を帯びた声が、廊下を伝ってリビングに届いた。
真昼は息を止めた。
その声は、何百回、何千回と聞いてきた、あの声だ。
自分の世界を乱し、かき混ぜ、そして唯一無二の彩りを与えていた、あの音。
けれど、真昼はすぐには動けなかった。
もしこれが、単なる幻聴だったら。
この静寂に耐えかねた自分の脳が見せた、残酷な白昼夢だったら。
もし、扉を開けて、そこに従前と変わらぬ暗闇が広がっていたら、自分は今度こそ壊れてしまう。
雨音の向こう側で、衣擦れの音がする。
傘を畳み、雨滴を振り落とす、あの無造作な動作の気配。
真昼は、目の前のホットケーキを見つめた。
シロップが浸み込み、少しだけ形を崩した、完璧なはずだった一枚。
「真昼? ……起きてる?」
声が近づいてくる。
足音がフローリングを叩く。
あいつが、そこにいる。
真昼は、震える手をテーブルに突き、今度こそゆっくりと立ち上がった。
膝が笑っている。
呼吸がうまくできない。
それでも、真昼はキッチンの入り口へと視線を向けた。
そこには、濡れた髪をかき上げながら、少しだけ気まずそうな顔をした「日常」が立っていた。
入り口に立っていたのは、雨に濡れて少し肩を窄めた、あの日と同じ姿の旭だった。
真昼は、キッチンの入り口で立ち尽くしたまま、手にしたフォークを握り直すことさえ忘れていた。視界が滲んでいるのか、あるいは部屋の湿度のせいか、旭の輪郭がひどく曖昧に見える。
「……真昼? どうしたの、そんな顔して」
旭は、少し困ったような、それでいてどこか見透かしたような笑みを浮かべた。その声は、数日間の静寂を粉々に砕いて、部屋の隅々へと染み渡っていく。旭は手に持っていた濡れた折り畳み傘を、いつものように適当な仕草で玄関の隅へ立てかけた。水滴が床に落ちる小さな音が、真昼には雷鳴のように大きく響いた。
「……帰って、きたんだ」
真昼の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
旭は、大きなボストンバッグをドサリと床に置くと、首筋をさすりながらリビングへと歩を進めてきた。
「帰ってきたよ。三日だけって言ったじゃん。……あ、もしかして、あの手紙のせい?」
旭は、テーブルの上にまだ残っていたあの「少し、距離を置こう」というメモに目を留めた。そして、あちゃ、という顔をして頭を掻いた。
「あれ、言葉が足りなかったよね。ほら、先週の喧嘩、お互いに結構ひどいこと言ったし。このまま同じ部屋にいたら、もっと取り返しのつかないことになると思って。頭を冷やしてくる、って意味だったんだよ。出張も重なってたから、ちょうどいいかなって。……真昼、もしかして、永遠の別れだと思ってた?」
真昼は、答えられなかった。
言われてみれば、旭がクローゼットから持ち出したのは、数日分の着替えと仕事道具だけだった。洗面台の歯ブラシが一本残っていたのも、あいつが忘れ物をしたわけではなく、戻ってくる前提だったからだ。
自分の不安が、静寂の中で勝手に膨らみ、勝手に最悪の結末を書き上げていただけだったのだ。
「……バカみたいだ」
真昼は、脱力感とともに椅子に座り込んだ。
あいつがいなくなって広くなったと感じた部屋も、吸い込まれそうだった空白も、すべては自分の心が作り出した虚像に過ぎなかった。旭という「ノイズ」が一時的に消えただけで、世界が終わったかのような絶望に浸っていた自分。
完璧な正円のホットケーキ。濁りのないきつね色。それらを目指していたのは、あいつとの不確かな関係を、目に見える完璧さで補填しようとしていたからかもしれない。
旭は、真昼の前に置かれた皿を覗き込んだ。
「うわ、相変わらず綺麗なホットケーキ。……でも、これ一枚だけ? 真昼の分?」
「……そうだよ。一枚だけ、焼いたんだ」
「お腹空いたなぁ。新幹線、止まっちゃってさ、ずっと立ちっぱなしだったんだよ」
旭は、当然のように真昼の向かい側の椅子を引き、腰を下ろした。
カバンから出したスマホをテーブルに放り出し、脱ぎ捨てたジャケットを椅子の背もたれに掛ける。
その一連の動作が、さっきまで死守していた真昼の「秩序」を、一瞬にして乱していく。けれど、不思議なことに、その乱雑さがひどく心地よかった。
「……もう一枚、焼くよ。生地は、まだ残ってるから」
真昼は、重い腰を上げて再びコンロの前へ向かった。
ボウルの中に残った生地は、少し時間が経って落ち着きを見せている。
真昼は、再びコンロのつまみを回した。
「チチチ、ボッ」
青い炎が灯る。先ほどまで孤独の象徴だったその火が、今は二人分の夕食を支える温かな熱源に見える。
フライパンを熱しながら、真昼はあいつの後ろ姿を見た。旭はリビングのテレビをつけ、ニュース番組の喧騒を部屋に呼び込んでいる。窓の外を打つ雨音は相変わらず激しいけれど、もうそれを「冷たい」とは感じなかった。
「今度は、適当に焼くから。形なんて、どうでもいいよ」
真昼は、お玉一杯分の生地を、少し高めの位置からフライパンへと落とした。
「ジュワッ」
威勢のいい音が響く。今回は、正円を目指して慎重に調整したりはしない。生地が広がるままに、自然な形に任せる。少し歪でも、少し厚みが不均一でも、それが今の私たちの「温度」なのだと思えた。
「真昼、シロップまだある? あと、バターもたっぷりね」
旭の呑気な声が聞こえる。
真昼は、ふっと息を吐きながら、フライパンの中で膨らみ始めた生地を見つめた。
ポツポツと、また小さな穴が開いていく。
さっきまでは、そこから何かが逃げていくような気がして怖かった。けれど今は、その穴から新しい空気が入り込み、中をふっくらと、柔らかく満たしていくのがわかる。
一人分なら、形なんてどうでもよかった。
けれど、二人分だからこそ、その不完全さが愛おしい。
「……待ってて。今、最高のやつを焼くから」
真昼は、ヘラを握り直した。
弱火の熱が、生地の芯までゆっくりと届いていく。
時計の針の音は、もう聞こえない。旭が立てる生活の物音と、テレビの音、そしてフライパンから立ち上る甘い匂いが、部屋の空白を完璧に埋め尽くしていた。
焼き上がった二枚目のホットケーキは、真昼の予想通り、少しだけ右側が膨らんだ不思議な形をしていた。けれど、皿に載せて旭の前に差し出すと、旭は「これこれ、これが一番美味そうなんだよ」と、満面の笑みを浮かべた。
真昼は、自分の皿に残っていた冷めかけの一枚に、もう一度メープルシロップをかけた。
そして、新しい熱を持った旭の一枚から、少しだけ端っこをちぎって口に入れる。
「……熱い」
「だろ? ホットケーキは、火傷するくらいが丁度いいんだって」
二人の笑い声が、雨の夜に溶けていく。
明日になれば、また些細なことで言い合いをするかもしれない。出しっぱなしの靴下に眉を潜め、片付かない部屋に溜息をつく日常が戻ってくるだろう。
けれど、その「ノイズ」こそが、真昼が生きていくためのリズムなのだ。
窓の結露を指でなぞると、外の景色が少しだけ見えた。
暗闇の中に灯る、街灯の黄色い光。
それは、今このテーブルの上にある、重なり合った二つのホットケーキの色と同じだった。
真昼は、再び椅子に座り、自分の分の一口を運んだ。
空っぽだと思っていたのは、自分の方だった。
けれど今、その空白は、甘い香りと不確かな未来への予感で、心地よく満たされている。
「……おかえり、旭」
「ただいま、真昼。……あ、この端っこ、焦げてる。最高」
日常の音が、再び回り始める。
フライパンに残った予熱が消える頃には、部屋の温度は、今日一番の温かさに達していた。




