前編
窓の外は、境界線の曖昧な灰色に染まっている。
低く垂れ込めた雲から、音もなく霧雨が降り注いでいた。アスファルトを濡らす微かな音さえ、二重サッシの窓に遮られて届かない。
真昼は、広くなったリビングの真ん中で、所在なく立ち尽くしていた。
つい数日前までは、ここにはもっと多くの「音」があったはずだ。脱ぎ捨てられた靴下が床に落ちる音、意味のない鼻歌、冷蔵庫のドアを乱暴に閉める音。それらがすべて、根こそぎ奪い去られたような静寂。
「……静かすぎるな」
独り言が、冷えた壁に当たって、虚しく跳ね返る。
部屋を見渡すと、生活の断片が、鋭い破片のようにあちこちに散らばっている。二人で使うにはちょうど良かったはずのソファは、一人で座るにはあまりにも広すぎる。棚の一角だけがぽっかりと空いているのは、あいつが大切にしていたカメラや小物が、もうそこにはないからだ。
真昼は、逃げるようにキッチンへ向かった。
何かをしていないと、この静寂に飲み込まれてしまいそうだった。
戸棚を開け、奥に置かれていた薄力粉の袋を取り出す。
「ホットケーキ、か」
あいつが好きだったメニューだ。週末の朝、どちらが先に起きるかで揉めながら、結局は二人で台所に立った。どちらがより綺麗な円を描けるか、どちらが均一なきつね色に焼けるか。そんな、今思えばどうでもいいようなことで、私たちは本気で競い合っていた。
ボウルをシンクから取り出し、ステンレスの作業台に置く。
「カツン」
乾いた音が響く。真昼は計量スプーンを手に取り、粉を計り始めた。
「一、二、三……」
粉をふるいにかける。
網の目を通った白い粉が、ボウルの底に静かに積もっていく。まるで、音もなく降り積もる雪のようだ。この粉の一粒一粒が、あいつと過ごした時間の砂時計のように思えてくる。さらさらと零れ落ち、二度と元の袋には戻らない、過去の集積。
粉が舞い、真昼の指先を白く染めた。
あいつはいつも、この粉を派手に散らかしては、私に叱られていた。
「真昼、粉っていうのは自由なんだよ。型にはまっちゃいけないんだ」
なんて、もっともらしい理屈を並べて笑っていたあいつの顔が、粉の煙の向こう側に揺らめく。
「自由になったのは、お前の方だろ」
皮肉な独り言が、また一つ、白い粉の中に埋もれていった。
あいつがいなくなって、部屋は広くなった。
掃除をする手間も減った。冷蔵庫の中の飲み物が勝手に減ることもない。
自分の好きな時に、自分の好きな分だけ、自分のためだけに時間を使える。
それがどれほど、味気ない自由であるか。
真昼は、冷蔵庫から卵を取り出した。
冷たい殻の感触が、現実の冷たさを思い出させる。
ボウルの縁で卵を割り入れる。
「コン、パカッ」
鮮やかな黄色が、白い粉の雪原の上に落ちた。
続いて、牛乳。
白い液体が加わり、粉と卵が混ざり合っていく。
泡立て器を握る手に、力がこもる。
「シャカシャカ、シャカシャカ」
ボウルの底を擦る音だけが、今の真昼の唯一の味方だった。
混ぜれば混ぜるほど、生地は重みを増し、粘り気を帯びていく。
かつては、この重さを二人で分かち合っていた。
「腕が疲れた、交代」
「もう、根性ないな」
そんなやり取りすら、今は贅沢な音楽のように感じられる。
ボウルの中の生地は、なめらかなクリーム色に整っていった。
ダマが消え、均一になった液体。
それは、あいつと私が築き上げてきた、平穏な日々の写し鏡のようでもあった。
どこまでも平らで、穏やかで、だからこそ、何かの拍子にぷつりと切れてしまうような、危ういバランス。
「……もう、二枚同時に焼く必要もないんだな」
真昼は、フライパンをコンロに乗せた。
いつもなら、大きなフライパンと小さなフライパン、二つを並べて効率よく焼いていた。あいつは大きな方を、私は小さな方を。
けれど今日は、一つでいい。
火を点ける。
「チチチ、ボッ」
青い炎が、静かにフライパンの底を舐める。
真昼は、熱を帯び始めた鉄板をじっと見つめた。
あいつが置いていった、お気に入りのマグカップが、洗ったままの状態で水切りカゴに残っている。
あいつが脱ぎ捨てていった(ように私には見えた)、古びたカーディガンが、椅子の背もたれに掛かったままだ。
それらは、持ち主が戻ってくるのを待っているのか。それとも、単に忘れ去られただけの遺物なのか。
窓の外の雨は、さらに勢いを増していた。
ガラス戸を叩く「パラパラ」という音が、部屋の静寂をより一層深いものにする。
真昼は、お玉一杯分の生地を掬い上げた。
重力に従って、とろりと垂れる生地。
それを、熱を帯びたフライパンの中心へと落とす。
「ジュッ……」
微かな、けれど確かな拒絶のような音がした。
白い生地が円形に広がり、ゆっくりと固まり始める。
この一枚が焼き上がる頃、私は何を考えているだろう。
この一枚を食べ終えた後、私はこの静かな部屋で、どうやって夜を迎えればいいのだろう。
真昼は、手元のフライパンから目を逸らさず、じっと待った。
弱火の熱が、生地の中に浸透していくのを。
何もかもが、ゆっくりと変わっていくのを、ただ見守ることしかできなかった。
フライパンの上に広げられた円は、まだ生白い液体のままだ。
真昼はコンロの火を極限まで絞った。強い火は、表面だけを焦がして中を置いてけぼりにする。あいつがよく言っていた。
「ホットケーキは忍耐の食べ物なんだよ、真昼。
熱がじわじわと、芯まで届くのを待つ時間が、一番大事なんだ」
あいつの言葉は、いつもどこか大仰で、それでいて生活の隅々に根を張っていた。
真昼は、フライパンの横に置いたままの、使い込まれたシリコン製のヘラに指を触れた。先が少しだけ欠けているのは、三年前の冬、あいつが固くなった餅を無理やり剥がそうとしたせいだ。
「……勝手なんだよ、いつも」
独り言が、換気扇の低い唸りに吸い込まれる。
あいつは嵐のようにやってきて、生活の調律を勝手に変えて、そして嵐のように去っていった。
クローゼットの右半分が、ぽっかりと空いている。そこにあったはずの、少し派手な柄のシャツや、使い古したデニムがない。洗面台の鏡の裏、並んでいたはずの二つの歯ブラシ。今は、少し毛先の開いた自分の一本だけが、所在なげに立っている。
あいつが出ていくとき、どんな顔をしていたか。
正直なところ、よく覚えていない。激しい罵り合いがあったわけではない。ただ、重苦しい沈黙が数日間続き、ある朝、目が覚めたらあいつの荷物のいくつかが消えていた。
「少し、距離を置こう」
その短い置手紙だけが、食卓の端に置かれていた。距離を置く。それは、もう同じ場所には戻らないという宣告の、丁寧な言い換えに過ぎないのではないか。
窓の外の雨は、止む気配がない。
雨粒がガラスを滑り落ちる筋を眺めていると、時間が溶けていくような感覚に陥る。
フライパンの中では、生地の縁がわずかに白く、乾いた質感に変わり始めていた。中心部にはまだ、とろりとした艶が残っている。
「一人分なら、形なんてどうでもいいはずなのに」
自分でも驚くほど、真昼の指先は慎重に形を整えようとしていた。
ボウルに残ったわずかな生地を、円の欠けた部分へ、ミリ単位の精度で足していく。
あいつは、いつも適当だった。
「形が歪なほうが、手作り感があっていいだろ?」
そう言って、ひょうたんのような形の、あるいは地図のような形のホットケーキを皿に山積みにして。
真昼はそれが許せなくて、いつも定規で測ったような正円を目指していた。
対極にいたからこそ、私たちは重なっていられたのかもしれない。
あいつの無秩序を、真昼の秩序が包み込み、真昼の硬直した心を、あいつのいい加減さが解きほぐす。
そのバランスが崩れたのは、いつからだったろう。
些細な価値観のズレ。例えば、皿の洗い方や、休日の過ごし方。あるいは、もっと深い場所にある、未来に対する熱量の違い。
あいつが置いていった(ように見える)、使いかけのキャンドルがキッチンカウンターの隅にある。
「これ、いい匂いなんだよ」
そう言って買ってきたくせに、火を灯したのは最初の一回きり。
真昼は、その芯が黒くなったキャンドルを見つめた。
あいつも、このキャンドルと同じだった。
熱しやすく、飽きやすく、そしていつの間にか、その光を失ってしまった。
「……熱が足りなかったのは、私の方かな」
弱火で熱し続けるフライパンを見つめる。
芯まで熱を通すために、あえて火力を抑えていたけれど、抑えすぎてしまったのではないか。
平穏であること、波風を立てないこと。それを優先しすぎるあまり、あいつが求めていた情熱の温度に、気付かないふりをしていたのかもしれない。
フライパンから、かすかに香ばしい匂いが立ち上り始めた。
甘くて、どこか懐かしい、平和そのものの匂い。
この匂いの中にいると、まだあいつがリビングのソファで転寝をしているような、そんな錯覚に陥りそうになる。
「真昼ー、まだ焼けないの?」
あいつの声が、不意に耳の奥で再生された。
真昼は反射的に後ろを振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
薄暗いリビングには、あいつが読みかけで放置した(と思っていた)文庫本が、一冊だけテーブルの下に落ちている。
真昼は、再びフライパンに向き直った。
生地の表面に、ポツポツと小さな気泡が浮き上がり始めていた。
それは、閉じ込められていた空気が、熱に耐えきれず外へ逃げ出そうとしている合図だ。
「……もうすぐ、裏返す時間だ」
あいつがいなくなって、もう何日が過ぎたのか。
一人の食事。一人の夜。
一人で焼く、ホットケーキ。
真昼は、あいつのいない空間に馴染もうと必死だった。
馴染めば、この胸の奥にある「空白」も、少しは埋まるのではないか。
けれど、ホットケーキが焼けていく過程を見ていると、その空白は、埋まるどころか、むしろ熱を帯びて膨らんでいくように感じられた。
何も入っていないからこそ、熱によって膨張し、内側から自分を圧迫してくる。
真昼は、慎重にヘラを生地の下へ差し込んだ。
「サクッ」
わずかな抵抗感。
表面はしっかりと焼き固まり、中はまだ、柔らかな可能性を秘めている。
今この瞬間に裏返さなければ、焦げ付いてしまう。
人生と同じだ。適切なタイミングを逃せば、取り返しのつかない苦味が残る。
「……よし」
真昼は、意を決して手首を返した。
空気を含んでふっくらと膨らんだ生地が、宙を舞い、再びフライパンへ着地する。
「パサッ」
湿った音を立てて、裏面が熱い鉄板に触れた。
そこに現れたのは、真昼がずっと目指していた、完璧な、濁りのないきつね色。
けれど、その美しさを見せたい相手は、もうこの部屋にはいない。
窓を打つ雨音が、少しだけ激しくなったような気がした。
真昼は、焼けていく裏面の熱を信じて、もう一度だけ、じっと目を閉じた。




