番外編・5
ニンジンを置いて、春輝は水道の蛇口を捻って水を出し、軽く手を洗う。
少し傷口に染みるけど、大したことは無い。
むしろこんな怪我をした自分が情けない。
包丁を持つ時は注意しろって、何度となく母親に言われていたはずなのに、ちょっと……いやかなアレな光景だったけど、そんなことに気を取られてミスるなんて。
再度ため息を溢したくなっていると、
「……兵頭?
もしかして、怪我したのか?」
こっちの様子に気付いたらしい倉木が、ちょっと眉根を寄せて訊ねてきた。
余計な手間を取らせるだけじゃなくて心配までさせるなんて、ますます気が滅入る。
けど、ここでへコんだ顔をしていたら試験中に立ち直れなくなりそうだから、少し無理矢理な笑顔を作ってみせて、
「あー、ちょっと切っただけだけど。
悪いけど俺の上着の内ポケットに絆創膏入ってるはずだから、取ってくれないか?」
「……分かった。
待っていろ」
小さく頷くと、倉木は軽く手を洗いタオルで拭いて、モーニングコートを脱いでかけておいた椅子へと早足で向かってくれた。
なのでこっちもすぐに絆創膏を貼れるように、キッチンペーパーを取って、濡れた手を拭く。
やっぱり少し血は滲むけど、放っておいてもすぐに止まる程度の浅い傷だった。
「持ってきた。
これだろう?」
「おう、サンキュ」
倉木がすぐ持って来てくれた絆創膏を受け取って、ペリペリと包装を剝がす。
まさかこんな試験があるとも包丁で指を切るとも思っていなかったけど、いつも持ち歩いておいて良かった。
備えあれば憂い無しと、出番が来た絆創膏を活躍させようと上手い具合に片手で貼ろうと試行錯誤……む?
これは、地味に……難しい……?
「ぬぅ……このっ」
「……何をやっているんだ。
貸せ」
奮戦虚しく上手くいかずにいると、ひょいと倉木に絆創膏を取り上げられてしまった。
「ほら、貼ってやる。
指を出せ」
「……ああ、悪い」
言われて初めて、賴めば簡単に済むことに気がついた。
どんな間抜けっぷりだ、一体。
まあ、倉木とも、ここに編入して来てからしばらくは微妙に上手くやれずにいたから、つい遠慮する癖が出来ていたのかもしれない。
小柄だけどぶっきらぼうな美形だから、ちょっと取っつきにくいところもあったし。
ともあれ、絆創膏を持ってスタンバッている倉木の厚意に甘えよう。
貼りやすいように、春輝は左手を倉木の胸の前に持って行き、掌を上に向けて
「ありゃ」
ちょっと間が空いた上にばたついたからか、また血が滲んでいた。
まあ、この程度ならキッチンペーパーで拭けば問題なし……なん、だが……
何故か倉木がえらい勢いで、ぷくりと血が浮いた傷口を凝視していた。
珍しいものでもないだろうに、真剣そのものの目と強張った表情は硬直したように動かなくなってこれは流石に、怖い。
「く、倉木……?」
気まずくて仕方がないけど倉木から視線を逸らすことも出来ずにただじっと様子を窺っていると、倉木がぽつりと口を開いた。
「……兵頭。
お前、消毒はしたか?」
訊かれて、そういや水で洗っただけだと春輝は思い出す。
手を洗う時に使った消毒用アルコールがあったけど、たかが小さな切り傷に消毒なんてしようとも思わなかった。
「いや、してないけど?」
それはつまり、絆創膏の前にちゃんと消毒しろということなのか。
確かに料理をするんだから、消毒はちゃんとやった方がいいだろうけど……だとしても、その異様な迫力は何?
やっぱり状況が把握しきれず、春輝は戸惑うしかない。
対して、倉木は両手で構えて持っていた絆創膏を片手に持ち替えて……空いた右手で、おもむろに春輝の左手を掴んだ。
「なんっ……?」
行動の意味が分からずに問い質そうとするも、倉木の鋭い眼光に言葉は詰まってしまい、
「いいから、任せろ」
その言葉で完璧に二の句が継げなくなってしまった。
倉木は、 真剣そのものの堅い表情のまま小さく喉を鳴らし、掴んだ左手を引き寄せて、
そっと口付けるようにして傷口を舐めた。
「っおい……!?」
「ん……消毒、だ。
我慢しろ」
「いや我慢っつーか、それはっ……?!」
抗議途中で延髄に痺れるような感覚が走って、春輝は慌てて口を噤んだ。
指を咥えるのは流石に嫌なのか、倉木はそっと唇を指の腹に押しつけるようにしながら傷口を舐めていて、それが染みるというよりむしろくすぐったいような快感があって……いや待て、それを快感って認識する脳はヤバいだろ。
けど、すっと斜めに線引いたような傷口をなぞられるのは……っ……こんな変な感覚を伝えられても困る。
気持ちいいのが気持ち悪いよ。
女の子にして貰うんならともかく、相手は男で、ああでも倉木はそこらの女よりずっと綺麗な顔してるからって、そういう問題じゃないよ腐ってんのかこの頭は。
「……うぁぁ……」
気持ちいいことが悩みの種という突拍子もない倉木の消毒活動は、数えてみれば十秒足らずで終わったはずだ。
でもそんな短い時問であっぷあっぷな状態になってしまったのは確かで、精神的にも割と……いやかなりキているらしいと、春輝は自覚した。
よく見ないと分からないくらい微妙に頼を赤らめた倉木が絆創膏を貼ってくれるその姿が、やけに色っぽく見えるんだから、これはもう末期症状だ。
間違いない。
何だかとてつもなく気まずい思いの中、それでもちゃんと言うことは言わないといけないということで、春輝はカラカラになった口内を妙に意識してしまいながらも、やや擦れ気味の声を出した。
「あー……その、サンキュ」
「いや、大したことじゃない」
その言葉にもどこか照れるような響きが含まれているのは気のせいなのか、どうなのか。
わざわざ確認することも出来ないし、確認して何が出て来ても対応に困るような気がする。
気がする、というか、これはもう確信といっていいかもしれない。
だから春輝は余計なことは言わずに、調理に戻る倉木の背中と親指に貼られた絆創膏を見比ベて大きく、ため息を吐いた。
このラベールブロンシュに来て以来、何だか自分が信じられなくなるようなことばかり起きているような気がしていたけども……たぶん、気のせいじゃないんだろうな、と再認識してしまった。




