間章 新生
王都から逃げ出した私たちは、一路国境を目指して走っていた。そこはセリーナ家の分家の領地がある場所だ。森を抜けようとしたその時、エルヴィーが何かに気づいたように私を強く突き飛ばした。次の瞬間、攻撃魔法が横から飛び出し、さっきまで私がいた場所を直撃した。
「お嬢様、戦闘の準備を!」
その直後、さらに森の奥からいくつもの攻撃魔法が飛んできた。
【マジックシールド!】
私とエルヴィーは防御魔法を展開してそれを防ぐ。幼い頃から魔法を学んでいたことに加え、魔王の力を継承したことで、魔法の効果は以前とは比べ物にならないほど強力になっていた。
「さあ、出てこいよ! 隠れて攻撃するだけの卑怯者なのか?」
エルヴィーが大声で叫ぶと、茂みの奥から十数人のフードを被った者たちが姿を現した。
「なるほど、暗部か。」
「ほう、小娘のメイドが国家の暗部を知っているとはな。」
「メイドになる前は、私も暗部だったのよ。それにあなたたちの力量、せいぜい乙か丙クラスね。私は元・甲クラスよ。」
エルヴィーは二本の短剣を構え、静かに答えた。――どうりで彼女があれほど強いわけだ。父が私の護衛に彼女をつけた理由も今ならわかる。
「おやおや、暗部の有名人【緋刃】殿ではないか。こりゃ失礼した。だが俺たちもお前と敵対する気はない。ただ、そこの娘を渡してもらえればそれで――」
「それは無理な相談ね。」
「そうか、なら仕方ないな。相手が【緋刃】でも、俺たちの数には――ぐっ!?」
男の言葉が終わるより早く、エルヴィーは飛び出していた。彼の顎を蹴り上げ、その勢いのままナイフを投げつける。刃は隣の男の首筋に突き刺さった。
「一人。」
彼女はさらに素早く別の敵に接近し、鞭のように腕を振り抜く。その一撃で次の男の喉が裂けた。
「二人。」
その場にいた者たちは、何が起きたのか理解する前に血飛沫を浴びた。噴き出す血が暗部の伝説の少女――【緋刃】を鮮やかな紅に染め上げる。彼女は最初に倒れた男の首から刃を引き抜き、冷ややかに周囲を見渡した。蹴り飛ばされた者を除けば、残りは十二人。
「次。」
エルヴィーが一歩踏み出した瞬間、その姿が掻き消えた。次に見えたときには、男の首から血が噴き出していた。その隣の者も同様に倒れた。
「五人。」
エルヴィーは魔力で身体を強化し、圧倒的な速さで敵を次々と切り伏せていく。残るは七人。
彼女は冷静に動きながら、敵の動きを読み取った。追い詰められた敵たちは焦り、無差別に魔法を放つが、どれもエルヴィーには届かない。
「【苦夢】。」
――心の底に潜む最も深い恐怖を見せる魔法。
苦痛に苛まれた敵たちは次々と悲鳴を上げ、エルヴィーはその隙に一瞬で全員を斬り捨てた。だが、最後の一人に刃を振り下ろそうとしたその時――
「【王の印】!」
刃が止まった。エルヴィーの身体が硬直し、魔力の流れが完全に封じられた。
「ま、まさか……!」
男はそれを見逃さず、剣を振り上げ――彼女の腕を切り落とした。
「くっ……!」
エルヴィーが苦痛に顔を歪め、吹き飛ばされて木に叩きつけられる。血が口から溢れた。
「エルヴィー!」
「いやはや、さすがは【緋刃】様だ。危うく全滅するところだったよ。」
最初に蹴り飛ばされた男がゆっくりと近づいてきた。彼の手には、私の家に代々伝わる神器――【王の印】が握られていた。それは、すべての魔族を支配できる法具であり、本来は父と母の魔力が揃わなければ解放できないもののはずだった。
「あなたたち……父様と母様に何をしたの!」
なぜか私だけは動けた。私は叫んだ。
「おや? まだ動けるとはな。さすが魔王の力を継ぐ者……だが問題ない。あのメイドを抑えておけば十分だ。」
「父様と母様はどうしたの!」
私は剣を構え、男を睨みつけた。
「公爵夫妻なら無事だよ。ただ――強力な魅惑の術にかかって、今頃は人形同然だろうがな。」
「なっ……!」
怒りと絶望が胸を締めつける。だが私は必死に冷静を保ち、魔力を身体に集中させた。
「【突き(スラスト)】!」
私は男の手にある【王の印】を狙って突きを放つ。男は意表を突かれ、それを落とした。私はさらに斬りかかろうとしたが、逆に蹴り飛ばされて木に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「小娘のくせに、やるじゃねぇか。もう少しで――」
「【閃光】!」
エルヴィーが飛び出し、閃光の魔法で一瞬敵の視界を奪う。その隙に、彼女は片腕で私を抱きかかえ、走り出した。
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「またしてもやられたか。」
「だが逃げ切れると思うなよ。俺の剣には毒が塗ってある。暗部の禁薬――魔力核を蝕む猛毒だ。普通の解毒魔法では治らん。」
エルヴィーの腕を斬った男が薄笑いを浮かべる。
「ククク……それなら安心だな。」
男は【王の印】を拾い上げ、血の跡を辿って私たちを追い始めた。
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「エルヴィ……あなたの腕が……!」
「大丈夫ですよ、お嬢様。もう簡単な止血魔法をかけましたから」
エルヴィは苦痛に耐えながらも、走りながら私に微笑んだ。
「ぐっ……あぁ……!」
突然、エルヴィが苦しそうな声を上げ、走るのを止めた。私をそっと地面に下ろすと、そのまま膝をつき、左肩を押さえて苦しみ始めた。そこには黒い紋様が浮かび上がり、彼女の身体を蝕んでいた。
「やはり……この毒は解毒魔法では効かないか……」
「エルヴィ……」
「シエラ、よく聞いて。この毒はもう私の魔力核を侵し始めてる。魔法も使えないし、身体ももう動かない。……だから、これからはあなただけで行くのよ。私はここで敵を食い止める。あんたは今のうちに走って。後ろを振り返っちゃダメ。気配を隠して進みなさい」
「エルヴィ……!」
涙が止まらなかった。エルヴィは苦痛に歪む顔で無理に微笑み、震える右手で私の頭を撫でた。
「シエラ……今の私は、もう一緒に歩けない。でも泣いてる場合じゃない。あなたが生きていれば、私たちは負けじゃない。……行きなさい」
エルヴィは私の身体を軽く押し、背中を向けさせた。
「早く……行け! もうすぐ来る!」
私は振り返った。そこには、血に染まった服のまま、それでも笑っているエルヴィの姿があった。
その笑顔を胸に焼きつけ、私は身体強化と気配遮断の魔法を使い、国境へと走り出した。
――そのとき、私は心の中で誓った。
もう二度と、誰も私のために死なせない。たとえこの呪われた力を継ぐことになっても――
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エルヴィは走り去った私の背を見届けると、ゆっくりと一本の木にもたれかかった。右手で幹を支え、血に濡れた身体をずるずると座り込ませた。
しばらくして追手たちが現れ、木の根元に座るエルヴィの姿を見つけた。
「どうやら毒が効いたようだな」
エルヴィの左腕を斬り落とした男が、にやつきながら近づく。
「その娘の居場所を教えれば……特別に命だけは助けてやってもいいぞ?」
「……馬鹿なことを」
もはや動かぬ身体で、それでもエルヴィの瞳は忠誠の炎を失わなかった。
「ぐっ……!」
男の刃が、エルヴィの腹をゆっくりと貫いた。
「そうか、なら念のためだ。完全に殺しておくとしよう――じゃあな、“緋刃”の嬢ちゃん」
男たちは辺りを見回したが、シエラの痕跡を見つけられず、仲間も多く失ったため、追跡を諦めて去っていった。
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「……生きて……シエラ……」
木に背を預け、エルヴィはそっと目を閉じた。風が血に染まった銀髪を揺らす。
腹を貫かれ、血が幹を伝って流れ落ちる中、彼女は最後の力で微笑み、かすれた声で呟いた。
「もう一度……シエラの頭を……撫でたかったな……」
夜風が止まり、森が静まり返った。
一枚の落ち葉が、彼女の髪にそっと舞い落ちる――まるで永遠の眠りの幕を下ろすように。
その唇には穏やかな笑みが残り、彼女の未完の使命もまた、静かに終わりを迎えた。
遠く離れた場所で、シエラは突然足を止めた。
涙が頬を伝い落ち、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。
彼女は震える指で涙を拭い、唇を噛みしめて、再び逃亡の道を駆け出した――。




