7
カチ、カチ。と秒針が進む音が響く、暗い寝室。
その中でいつの間にか眠りについていた唯は、眉間に皺を寄せ、寝返りを打った。
「ん、う……」
ひくひくと小さな鼻をひくつかせ、それからゆっくりと意識を浮上させた唯が、……煌くんを待つつもりだったのに、いつの間に寝ちゃったんだろう。とパチパチと瞬きをする。
開いたカーテンから見える外はまだ真っ暗で、真ん丸とした月が浮かんだ、綺麗な夜。
それをボーッとしたまま眺めていた唯だったが、喉の渇きを覚え、ムクリと起き上がった。
寝ぼけ眼を擦りながら、……たん、たん。と慎重に唯が淡い橙色に照らされた階段を降りてゆく。
そしてキッチンへと向かおうとしたが、その手前のリビングの灯りが点いている事に気付き、誰かが消し忘れたのだろうか。と唯は首を傾げつつ、近寄った。
「──唯の顔を見なくて良いの?」
そう言う優弥の声がし、コトン。と机の上にコップを置く音がする。
その声に、煌くんと一緒に帰ってきたんだ! と唯は途端にパァッと表情を明るくさせたが、しかしその瞬間、煌の口から出た言葉に、ぴたりと足を止めた。
「いや、今は唯の顔を見れない」
そうハッキリと言い切る煌の声は、唯が聞いた事のない、声色で。
その何と説明して良いのか分からない声のトーンと、今言われた言葉に息を飲んだ唯は、二人の前に出るタイミングを完全に失ったまま、その場で立ち竦んでしまった。
「……珍しいね」
「……」
「俺が隣に居ない間に、飲み会で誰かに何か言われた?」
「っ、」
優弥の質問が図星だったのか、息を飲み口をつぐんだ煌。
そんな煌の態度に、唯は急激に自身の心臓がドクドクと煩く嫌に鳴り響くのを感じながら、ひっそりと息を飲んだ。
「煌、黙ってちゃ分からないよ。ちゃんと話してくれなきゃ」
「……しつこく言い寄ってくる奴がいて、だからそいつに、俺にはもう将来を約束してる相手が居るんだってハッキリ言ったんだ。でもそいつが、まだ番になってないなら分からないだろって。もし相手が、唯が、心変わりして、他に好きな人が出来たって言ったらどうするんだって、言われて……」
「……へぇ。お前がそれを大人しく聞いてたのも意外だけど。それで?」
「……」
「煌?」
「……やっぱり、唯にとって俺が番じゃない方が幸せなのかも……」
「……はぁ。……もうそろそろ唯の誕生日だよ? それなのにお前はいつまでもグダグダと……、この前も唯の事を抱く気はないだとか馬鹿みたいな事言ってたし。どこの世界に番を抱かない人間が居るんだか」
「唯の事を抱けるわけがないだろ」
「あー、うん。ごめん。俺から振っといて何だけど、そこはあんまり深掘りしたくないから終わりでいいや。弟と親友の性事情とか知りたくないし。でも、それに加えてこの後に及んで怖じ気づくのはさぁ……。ほんと、見かけによらず意気地無しだよねぇ。煌って」
「うるせぇ」
「じゃあもうやめたら? 番になるの」
「っ、」
「いや本当に。もういっそ諦めるか、吹っ切るかの二択だよ。煌」
「……簡単に言うなよ」
苦しそうに呟き、それから押し黙ってしまった煌。
しかし吐露されていく煌の本音はまさに、唯にとって青天の霹靂でしかなく。
頭を鈍器で殴られたようなその衝撃にグラグラと目の前が激しく揺れ、堪らず吐きそうになるのを、唯はなんとか口を塞いで必死に耐えた。
「何をそんなに難しく考える事があるのか俺にはさっぱり分かんないけど、番になってくれって言った時の気持ちを忘れるなよ、煌。もうお前今日は帰りな。一晩ぐっすり寝て、頭冷やしてきなさい」
そうぴしゃりと言い切る優弥の声にハッとした唯が、と、とにかく今ここに居ちゃ駄目だ。と動かない足を無理やり引きずり、二人にバレないようにとゆっくり階段を登ってゆく。
そして自身の部屋にやっとの思いで戻った唯は、ハッハッと荒い息のまま、部屋の扉の内側で立ち竦んだ。
──ぐちゃぐちゃになった頭の中を駆け巡る、先ほどの煌の言葉たち。
突然の出来事で脳の処理が全く追い付かないまま、けれども唯の視界はどんどんと歪み滲んでゆくばかりで。
心臓は張り裂けそうにズキズキと痛み、喉の奥がギュッと狭まっては、ツンと痛む鼻。
肢体をバラバラに引き裂かれてしまったかのような謎の痛みが全身を這い、今の今まで一瞬たりとも感じた事のなかった不安が一気に芽吹いては激しく揺れ動くなか、唯は口をはくはくとさせながら、自問自答するよう呟いた。
「ち、ちがうよね、さっきのは……、そ、そうだよ、だって、こうくんからつがいになってって、いってくれて、だから、ぼくたちはちゃんとりょうおもいで……、」
だなんて、まるで覚えたての単語を並べる幼子のように辿々しく唯が声を震わせながら、自分を奮い立たせる。
けれども、先ほどの煌の言葉は到底、心から唯を愛しているから番になりたいと思っているとは、思えなくて。
だが、そう考えれば結局、じゃあなぜ煌は自分と番になってくれと言ったのかが唯には分からず、キャパオーバーになりながらぐしゃぐしゃと唯は自分の髪の毛を乱した。
「ぅ、こう、くん……こうくんっ、」
口から出るのは、みっともなく縋るような、情けない声だけ。
そして、たった数分で自分の全てだったものが呆気なく消えていってしまうような感覚に、唯がふるふると首を振って、目を開けた、その時。
部屋の奥に置いていた鏡に髪の毛をひどく乱した自分が映り、唯はそれを見て、目を見開いた。
普段は隠されている、唯のこめかみにある一生残るであろう、傷痕。
それが乱れた髪の毛から覗き、普段は目立たないが興奮しているせいかぽわりと赤くなっているその傷痕に、唯は息を飲んだ。
今はもう痛みなどもなく、唯自身、出来事は鮮明に覚えているものの、傷の事はすっかり忘れていて。
だが、それを見た瞬間唯はようやく煌がなぜ自分と番になろうとしていたのかを悟ってしまい、膝から崩れ落ちた。
「……ぁ、ぼ、ぼくの……、せい……だ、ぼくがこうくんを……、」
そうぽつりと呟いた唯が、恐る恐る震える指で自身の傷痕を触る。
少しだけ引きつるその皮膚の感触がやけに生々しく、堪らず唯は開いた唇から嗚咽を零し、ぼたぼたと大粒の涙を醜く床に落としていった。
「ふ、ぅ、ぁ……、こ、こう、くんは、ぼくを……、」
それ以上言葉にする事が出来ず、ぎゅっと両手で自身の胸を抑えた唯が、口をつぐむ。
──昔からずっと側に居てくれて、守ってくれた、誰よりも大切で大好きな人。
生涯を共にすると信じて疑わなかった、最愛の人。
けれどもその人は自分を同じ気持ちで愛してくれてはいなかった事を知ってしまった唯は、一晩中、声を圧し殺しながら暗い部屋でただただ泣きじゃくる事しか、出来なかった。