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「──……い、ゆい、起きて」
優しく髪の毛を撫でられる感触と、柔らかく深い声で紡がれる、自身の名前。
それにゆっくりと意識が引き寄せられ、唯は未だぼんやりとしたまま、けれどゆるりと目を開けた。
眠たい眼を何とかこじ開けて、見つめた先。
そこには柔らかく微笑みながら自分を見下ろしては頭を撫でてくれている煌の姿があって。
その掌の温かさと穏やかな眼差しに、唯はいつものよう目を細めてうっとりとした表情のまま、笑った。
「……ん、おは、よう、こうくん……」
「おはよう。ほら、早く準備しないと遅れるぞ」
「……うん……」
遅れるぞ。と言いながら少しも急かす様子もなく、唯の寝癖が付いた髪の毛を梳いてくる煌。
そんな毎朝の幸せな目覚めに唯が甘えるようすりすりと掌に顔を寄せれば、ちゅっと額に煌の唇が降りてきて、唯は擽ったさに声をあげて笑った。
「んふふっ、」
「ほら、起きて」
「うん」
もう唯が本格的に目覚めた事を知ってる煌が、すりっと鼻先を擦り合わせたあと、唯の腕を引く。
それにされるがまま上体を起こした唯は、ぎゅっと煌に抱きつき、大好きな匂いを肺いっぱい吸い込んだ。
焚き火と深い森のような穏やかな香りと、その深くにある、うっとりするほど心地よいムスクの匂い。
それが自身の瑞々しいユリと甘い蜜のようなフローラルの匂いと混ざり合い、その完璧な組み合わせに唯は大きく息を吐いては吸ってを繰り返し、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべた。
そんな唯の背中を穏やかに撫で、髪の毛にキスをしては、同じように微笑みながら互いの首筋を擦り合わせる煌。
それは求愛をしている最中のアルファとオメガにしては親密すぎるやり取りだったが、そんな事など今さら気にする事ではない二人は、幸せそうに互いの腕の中で完璧な匂いに浸るばかりだった。
──鴻野唯と、狼谷煌。二人はいわゆる幼馴染みである。
唯が四歳の頃、隣の家に狼谷家が引っ越してきたのが始まりで、唯の二歳上の兄優弥と煌の年が同じだったという事もあり、すぐに優弥と煌は親友になった。そんな二人の後ろをいつも一生懸命付いて回っていた唯に最初こそ少しだけ邪険そうにしていた煌もいつしか心を開き、出会ってから一年が経つ頃には今と同じように目に入れても痛くないほど、唯を溺愛するようになった。
そうして家族同然のように常に共に過ごしてきた二人だったが、煌が十五でアルファとして第二性が判明し、その二年後唯がオメガになったその瞬間、煌は唯に求愛をしても良いかと尋ねてくれ、唯も迷うことなく頷き、二人は将来を誓い合う仲となったのだ。
もちろん互いの両親も二人が番になる事を認めてくれており、しかし正式に番になるのは唯が二十歳になってから。という条件の元、二人は今もまだ長い長い求愛期間を過ごしている。
しかしそれももう残りわずかで、一ヶ月後には晴れて二十歳になる唯は、早く煌くんと番になりたい。と希望や期待を胸にカレンダーを見ては自身の誕生日までの日を指折り数えているのだった。
「煌くん、大好き」
「俺もだよ」
えへへ。と唯が無邪気に笑いながら、ぐりぐりと煌の胸に顔を押し付ける。
そのたびに唯のふわふわで柔らかな黄色い髪が顎を擽り、煌は擽ったそうに笑いながら、可愛らしい旋毛にキスをした。
「唯~、煌~! そろそろ降りて来ないと遅刻するよ~」
二人が自分達の幸せな世界に浸っていれば、不意に一階から間延びした柔らかな優弥の声が響く。
それに二人はいつものよう鼻先をちょんっと触れ合わせながら、降りようか。と笑った。
***
「そういえば唯、この間も大学でヒヨコになっちゃったんだって?」
当たり前のように鴻野家で朝食を共に取っている煌から、あーん。と朝食を食べさせて貰っている唯に、向かいに座っている優弥が声をかけてくる。
それに唯はギクッとした面持ちをしたあと、小振りな唇をくちばしのように尖らせた。
「い、一瞬だけだよ! 一瞬だけ! 歩いてたら突然怒鳴り声がして、すぐ近くで喧嘩が始まっちゃって、それで、びっくり、して……、」
そう必死に早口で言い訳をし、しかし段々と尻すぼみになってしまった唯は、俯き小さくため息を吐いた。
──この世界の人類は皆、何かしらの生き物の祖先を持っている。
ネコ科のライオンや、イヌ科の狼、マイルカ科のシャチなど、多岐に渡る祖先を持ちその生き物の個性や特徴などを色濃く受け継ぎながら暮らす人々のなかで、鴻野家の祖先は大まかに分けて鳥類だった。
そして大体皆四歳頃にその動物に変化するようになり、それから徐々にコントロールする力を覚えていくのだ。
だがそのコントロールが未だに苦手な唯は、驚いた時や落ち込んだ時、恐怖を感じた時など、不意に何かの拍子で自分の意思とは関係なく元来の姿であるヒヨコに変化してしまう事が多々あった。
しかし昨今、そうやって祖先返りをする行為は恥ずべき事だと思われている風潮があり、だからこそ唯もどうにかコントロールしたいと常々思っているものの、小心者で怖がりな性格も相まって、未だに中々克服出来ないでいたのだった。
「僕も早くコントロール出来るようになると良いんだけど……」
だなんて呟き悲しそうにする唯の姿に、落ち込まなくて良い。と慌てて煌がフォローするよう唯の頬を撫で、それから優弥をギロリと睨んだ。
「優弥、そういう事をいちいち言ってくるなよ」
「え、別に悪い意味で言ったんじゃないよ。何があったのか気になったから聞いただけ。大丈夫なら良いよ」
煌の灰色がかった鋭い瞳に睨まれ威圧的なオーラを出されても、それをするりと躱しては穏やかな笑顔を保ったままの優弥。
二人とも別のベクトルで圧倒的なアルファのオーラを放っており、それに少々気後れしつつ、唯は二人を交互に見た。
煌はまさしく狼の家系であり、美しいが威圧的なオーラと逞しい体躯、そして狼そのものの綺麗で鋭い眼光をしている、ハイイロオオカミである。
そして優弥は見た目や喋り方こそ優しいものの、誰に屈する事もなく達観したような目線で物事を見ては優雅に飛び回れるような、イヌワシで。
そんな二人を見て、特に兄である優弥を見ては、……自分ももう少し格好良い鳥だったら良かったのに。と唯はいじけてしまいそうになりながらも、過保護な二人の姿に幸せそうに笑ったのだった。