サカウバ
僕の街には怖い噂がある。
夜遅い時間に出歩くと、サカウバという妖怪が出るというのだ。
乳母車を押して夜な夜な人をさらう、老婆のような姿の妖怪なのだそうだ。サカウバはなぜか大人だけを狙う。大人はどうやってもサカウバの魔力には勝てないのだそうだ。だから、大人の人がサカウバに出会ってしまったら、なんの苦もなく誘拐されてしまう。
お母さん、今夜帰ってくるのは遅くなると言ってたけど、大丈夫かな……。
暑い夜だった。金曜の夜なので、ゲームを10時までやっていいという約束だった。夕飯を食べ終えて宿題を終えると7時30分だった。さて、今日はお母さんの帰りも遅いようだし、ゲームをやるか。何か飲みながらゲームをやりたい。ぼくは、近くの自販機までジュースを買いに行くことにした。
外に出ても、やっぱり暑いことには変わりなかった。
少し歩いて、自販機へ向かう。電灯も少なくなって、うす暗い場所にぽつんとある自販機。このあたりで自販機はここだけだ。
気味が悪い場所だ。昼間はなんともないののだけど、夜のこの場所は、ここだけ空気がよどんでいるように感じる。ジュースを買っていると、後ろから黒い手が忍び寄ってくるような感覚に襲われる。早く買って帰ろう。
すると、遠くのほうからコロコロコロ……と、アスファルトを車輪が転がる音が聞こえてきた。乳母車を押すような音。それとも、旅行カバンを引く音だろうか。
向こうの暗がりから、ぬっと影が現れた。乳母車を押して、ゆっくり、ゆっくりとこちらへ向かって来る。どこかのおばあさんかな。ぼくはそう思った。
このあたりで、夜中に散歩するおばあさんは見たことがない。どこか不自然で、不気味なものを感じた。
ぼくは近くの工事看板の後ろに隠れた。おばあさんは、乳母車を押してこちらへ来る。
背筋が凍った。
おばあさんだと思っていた生き物が、この世のものではないと知ってしまったからだ。
髪の毛は白く長い。手足は枝のように細く折れ曲がり、顔は骸骨のようだった。眼球もない。
サカウバ。あの噂になっていた妖怪、サカウバだ!
本当にそんな妖怪がいるなんて、信じられない。
そして、乳母車には何か乗せている。噂の通り、大人を乗せているんだろうか。
サカウバが、工事看板の陰に隠れているぼくの前を横切る瞬間、それを見た。
「あ…………」
そのまま、心臓が止まってしまうと思うほど驚いた。
(母さんだ……!)
母さんが乗せられていた。乳母車に乗せられて、足は収まりきらずにはみ出している。おとなしくじっとしているけれど、眠っているわけではない。目を開けて、意思が無いかのようにじっと上を見つめている。
(お父さんに知らせなきゃ!)
サカウバが見えなくなってから、ぼくは転げるようにして家に逃げ帰った。
玄関を開けるなり、靴を脱ぎ捨てて父さんの部屋へ向かった。のんきに父さんはテレビを見ながらお酒を飲んでいた。
大急ぎで父さんに今見てきたことを話すと、
「そんなまさか。母さんは東京に出張なんだぞ。帰ってくるのは11時過ぎると言っていたし、この街にいるわけないだろう。これから帰ってくるさ」
なんて言った。酔っぱらっているようだし、父さんはあてにならない。
もう、ゲームどころじゃない。母さんを助けなきゃ。
ぼくは冷静に考えた。
サカウバは、またあの自販機の前に現れるかもしれない。
さっきのように工事看板の後ろに隠れていればいいわけだ。
ぼくは、あの自販機のある場所へ向かった。
また、乳母車を押す音が聞こえてきた。
やはり、サカウバは夜な夜なこの辺りをうろついているらしい。
乳母車に乗せられているのは、やっぱり母さんだ。
母さんは虚ろな目で、乳母車に乗せられている。大人の母さんが、あの小さな乳母車に乗せられているなんて、信じられない。それとも、身長が子供に戻ってしまっているのか?
サカウバは、ゆっくりゆっくりと進んでいく。
(どうすればいい……?)
サカウバと戦ったところで、ぼくに勝ち目はあるだろうか。
ふと考えた。
今出ていったところで、太刀打ちできずにぼくも乳母車に乗せられてしまうんじゃないか?
そうなったら、母さんを助けることはできない。悔しいけれど一旦引き下がって、作戦を立てることにした。
ぼくは次の日、学校で同級生のサトルに事情を話した。
「うーん。単なる噂だと思っていたんだけど、ホントにいたなんてな……」
サトルは心底驚いたようだった。
「どうすればいいんだ? 教えて! サカウバの弱点とかはないの?」
しばらく考えてから、
「……たしか、ひとつある」
すがりつくように、サトルに近づいた。
「サカウバが怖いものは六字明王の姿だ」
「なに明王だって?」
ぼくが聞き返すと、
「ろくじ明王だ。妖怪は仏様が怖いんだ。だから、その姿を見せつければ退散するらしい。誰も試したことが無いそうだから、効果はわからないけど」
サトルは言った。
父さんは信じてくれないし、サトルの言う通り、六字明王様に助けてもらうしかない。
六字明王様の仏像でも買えばいいのだろうか。
でも、そんなお金は無い。
しかたないので、インターネットで何枚か六字明王様の画像を調べて、父さんに印刷してもらった。
六字明王。真っ黒な姿に何本も腕が生えて眼光は鋭い。なんだか、とても強そうな姿だ。悪い妖怪を懲らしめてくれるかもしれない。
その夜、ぼくはまた、工事看板の後ろに隠れてサカウバを待った。自販機から漏れる光が不気味に辺りを照らし続けている。もちろん、夜中にジュースを買いに来る人はいない。
コロコロコロ……。と、乳母車の車輪の音がした。
サカウバだ。ぼくの心臓は激しく動いた。
サカウバはゆっくりと近づいてくる。
ぼくは、六字明王が印刷されたプリント用紙を握りしめて、いいタイミングを待った。
工事看板の後ろに隠れているぼくの前を通り過ぎる……。
(今だ)
そこを見計らって、ぼくはサカウバの前に飛び出した。そして、六字明王の印刷された用紙をぐいと突き出した。
サカウバは立ち止まった。だが、なんの反応もない。
「サカウバ! これは六字明王様だぞ。母さんを返せ!」
なんだか情けない声だった。
「キキキキキィ……」
サカウバは不気味な声を上げた。
母さんは、さらに体が小さくなっているように見えた。このままでは、子供に戻ってしまい、そして赤ん坊になってしまう。そうしたら、サカウバに食べられてしまう。
サカウバはニヤリと笑っていた。印刷された六字明王では、なんの効果も無いのか。
失敗した……。母さんを助けることはできない……。
そのとき、六字明王の姿が光り始めた。暗い夜道が、まるで昼間みたいに明るく照らし出された。
「ギヤアアアア!」
とこの世のものとは思えない叫び声が響き渡った。六字明王の光が、邪悪な者を戒めたのだと、ぼくは思った。
サカウバは顔を覆って、苦しんでいる。光はますます強くなり、目を開けていられないほどまぶしくなった。
と次の瞬間、サカウバの姿がなくなった。乳母車もなかった。
そこには静かな夜道が続いているだけだった。
ふと見ると、路上に倒れているお母さんがいた。
ぼくは母さんに駆け寄った。大人の母さんだ。身長も、どうやら元に戻っているようだった。
「あれ? ここどこ?」
目を覚ました母さんは、そう言った。
どうやら母さんは仕事に行く途中でサカウバにさらわれて、そのまま意識がなかったそうだ。夜な夜な乳母車で連れまわされていたことは、母さんは覚えていないらしい。
ともあれ、六字明王様のおかげで、サカウバを退治することができた。六字明王様の印刷された用紙は、今でも大事に机の引き出しにしまってある。
昨日の夜のことが何事もなかったように、ぼくたち家族は朝ごはんを食べている。
「母さん、ちょっと背が縮んだんじゃないの?」
と、ぼくは冗談のように言った。すると母さんは、
「あんたの背が伸びたんだよ」
と、お母さんは言った。