君という名の研究課題 1
――ジンは、知らなかった。
愛する女性と肌を重ねる時間が、これほどまでに甘やかであることを。
高鳴る鼓動。
交わる吐息。
溶け合う体温。
メルの柔らかな肌に触れる度、愛おしさに胸が締め付けられ……
一番深いところで繋がる度、幸福感と快感に脳が痺れた。
だからこそ、ジンは自分に言い聞かせる。
この行為に夢中になりすぎてはいけない、と。
ただでさえ、メルには破瓜の痛みを味わわせてしまった。
慣れるまでは快感よりも、痛みや違和感を与えてしまうだろう。
頻度を考えなければならない。
彼女に負担をかけず、且つ愛情もきちんと伝えられる、適切な頻度でこの行為に及ぶ必要がある。
熟考した結果、ジンはこう結論付けた。
メルを抱くのは、週に一度。
休日の前の晩だけにしよう、と――
* * * *
――ジンとメルが恋人になって、一ヶ月。
『復讐』の一件も落ち着き、二人は穏やかな日常の中にいた。
ジンの仕事も、二人での生活も、全てが順調である。
「明日は、いつもより早く起きなければならないんですよね?」
ジンの寝室で、パジャマ姿のメルが言う。
婚約者になったあの日から、二人は同じベッドで一緒に眠っていた。
寝支度を整え、ベッドに腰掛けるメルに、ジンが答える。
「あぁ。定期考査前の職員会議があるから、少し早く出なければならない」
「わかりました。では、早めに起こしますね」
「すまないな。いつも助かる」
「いえいえ。私はジンさんの秘書であり……未来の妻ですから。旦那様を起こすのは、当然のつとめです」
なんて、メルがはにかみながら笑う。
そのセリフと表情に、ジンの胸がギュンッと射抜かれる。
婚約したばかりの頃はまだ遠慮がちだったメルも、最近は恥じらいが薄れてきたのか、こうした甘い言葉を少しずつ口にするようになっていた。
(今日も今日とて、俺の婚約者が世界で一番可愛い……本当は今すぐにでも唇を奪いたいところだが……)
今はまだ、週の初め。
自ら定めた"鉄の掟"により、彼女を抱くのはもう数日先だ。
ここは……ぐっと堪えなければ。
そんな内心を完璧な微笑の裏に隠し、ジンは穏やかな声で返す。
「それは頼もしいな。では、妻の安眠を護るつとめは、この俺が請け負うとしよう」
言って、ジンは部屋の灯りを消す。
カーテンの隙間から漏れる微かな月明かりを頼りに、ジンはメルが待つベッドへと潜り込んだ。
そして……
隣にいるメルの髪をそっと撫で、
「おやすみ、メル。また明日」
そう言って、静かに離れた。
メルは身じろぎしてから、小さく「おやすみなさい」と返した。
ジンは枕に頭を預け、瞼を閉じる。
そして……胸の内で、大きなため息をつく。
……危なかった。
今夜もなんとか、理性を保つことができた。
『メルを抱くのは週に一度』。
そう決めたことは正しかったと、ジンは確信している。
メルに嫌な思いをさせたくはないし、そういう行為がしたくて彼女と婚約したわけではない。
……しかし、正直なところを言えば。
(愛する婚約者と同じベッドで寝ているというのに、指一本触れられないとは……あまりにも酷だ)
いや、"掟"的には行為にさえ至らなければ、手を繋いだり抱き締めたり、キスをしたりすることは可能なはずなのだが……
そんなことをしてしまえば、たちまち理性が吹き飛んでしまいそうで、メルに触れることさえできずにいた。
ジンは、メルに背を向けるように寝返りを打つ。
そして、彼女の存在を意識しないよう、仕事のことを考える。
(筆記試験の問題は概ね完成した……あとは実技試験の審査項目だが、昨年からどう改善すべきか……)
と、ジンが集中し始めた――その時。
――ぎゅ……っ。
背中に温もりを感じ、ジンはハッと目を開ける。
メルが、後ろから抱き付いてきたのだ。
「めっ……メル、どうした?」
声が上擦りそうになるのを堪え、ジンは平静を装い、尋ねる。
こんなことは初めてだった。「おやすみ」を言ってからは、お互い静かに眠りに就くのが常だったから。
ジンの問いかけに、メルは少し間を置き、
「えっと……ちょっと、寒いなぁと思って」
と、遠慮がちな声で答えた。
ジンは振り返らないままに、「あぁ」と返事をする。
「確かに、ここ数日は一気に気温が下がったからな。気付いてやれなくてすまない」
「い、いえ。すみません、いきなりくっついて……」
「いや、構わない。身体が温まるまでこうしているといい」
「ありがとうございます」
澄ました声で返しつつ、ジンは内心、頭を抱えていた。
メルがこんな風に抱き付いてくれるなんて、脳内ではそりゃあもう舞い上がりまくりなわけだが……
同時に、現在進行形で背中に感じるメルの温もりと、柔らかな身体の感触に、今にも理性の糸が切れそうだった。
(落ち着け……寒がっているメルに欲情するなんて、あってはならないこと……ここで襲い掛かれば、間違いなく彼女を傷付けてしまう)
ジンは、おのれの欲望をぐっと抑え込むと……
メルの方へ寝返り、彼女の身体を、正面から抱き締めた。
「……この方が、温かいだろう」
「じ、ジンさん……っ」
メルが驚いたような声を上げ、身体を強張らせる。
婚約して一ヶ月が経つのに、未だに初心な反応を見せる彼女が、愛しくて堪らない。
だからこそ、触れたくなるのだが……だからこそ、傷付けたくはなくて。
メルを温めるだけ……そう、それだけ。
こうしてベッドの中で抱き合っているだけでも、十分に幸せなのだ。これ以上、何を望む?
ほら。腕の中に感じる体温が、鼓動が、こんなにも愛おしい。
純粋に、側にいられることに感謝しろ。
欲望に飲まれてはいけない。
飲まれては……
……と、ジンが悶々と葛藤していると、
「……ジンさん、ごめんなさい」
突然メルが、謝罪を口にした。
何事かと、腕の中にいる彼女を見ると、
「……私、嘘をつきました」
そう言いながら、潤んだ瞳でジンを見上げるので、
「……嘘?」
ジンは、少し緊張しながら聞き返す。
それに、メルはこくんと頷き、
「寒いっていうのは、嘘……私、ただジンさんに…………く、くっつきたかっただけなんです……っ」
蚊の鳴くような声で、そう言った。
その瞬間、ジンは……
理性の糸が、ミシミシッと悲鳴を上げるのを聞いた。
さらに、
「もう寝る時間なのにごめんなさい。ジンさんは眠る時にこうしてベタベタするの、あまり好きじゃないかもしれませんが……つい、触れたくなってしまって。もう大丈夫です。わがままに付き合っていただき、ありがとうございました」
なんて、ちょっと泣きそうな顔で言うので……ジンの胸が、ズキンと痛む。
(もしかして、俺の態度がメルを不安にさせていたのか……? だとしたら、それはあまりにも不本意だ)
ジンは、メルの頬をそっと撫でながら、
「メルは……俺に触れたいと思っていたのか?」
胸の高鳴りを自覚しながら、聞いてみた。
すると、メルは困ったように眉を寄せ、
「あ……当たり前じゃないですか。好きな人と一緒に寝ているんですから……たまにはくっついて眠りたいなぁって、思うに決まっています」
瞳を揺らしながら、そう答えた。
それを聞いた直後……ジンの理性の糸が、いよいよはち切れそうになる。
「……本当に、君は……俺を掻き乱すのが上手いな」
「え……?」
聞き返すメルに答えないまま、彼女の顎をくいっと持ち上げ、
「しかし……七十点だ」
と、謎の点数を告げた。