王女と鉄の従者
読みに来てくださって本当にありがとうございます…!!
「魔女狩りが終わったと思ったら産業革命、
魔女や魔法使いには生きにくい世の中になったものね……」
彼女はそう言いつつ肺の中に溜められた煙を冬の白い息と共に吐き出す。
白い肌に彩度高めの青と緑のオッドアイ、彫りの深い整った顔立ちと長くサラサラと風にたなびく黒髪は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。顔だけを見れば、まるで西洋人形のようだと僕は思っただろう。
しかし、今の彼女はその濡れ羽色とも言うべき黒髪を雑に結わえており、服装は日本のマンガにありがちな膝上のメイド服に昨日横浜で買ったという黒のスカジャン(背中には何故か舞妓さんのイラストが大きく描かれていた)と黒のコンバース、右手に紙タバコで左手にアルコール9%の某缶チューハイという装いで、レースをめいっぱい使ったドレスを着ている西洋人形とは、まるで似ても似つかない姿だった。
「いきなりアンニュイな雰囲気醸し出してどうしたんです?」
僕が彼女の独り言を拾って揶揄うように問うと、彼女は缶チューハイを一口飲んでから言った。
「別に?この時期に横浜の海岸で朝日を見たら皆んなアンニュイにもなるわよ」
そう言って彼女は水平線を見る。
真冬も真冬なこの時期である。空気は澄み、さぞ遠くまで景色が見えるだろうと僕も水平線に目を向けるが、太陽が眩しくて何も見えなかった。徹夜明けの目がチカチカする。
僕は朝日から逃げるように軽く下を向いてまた彼女に話しかける。
「しかも、魔女狩りに産業革命って、まるで16世紀頃から生きていたみたいな言い草して。何歳ですかあなた」
俯いているため彼女の顔は見えないが微かに笑い声が聴こえた。
「あら?レディーに歳は聞いちゃいけないのよ?」
そう言うと彼女は水平線から目を離した後、煙草を吸殻入れに押し込みながら道に沿って歩き出す。僕も彼女に一拍遅れて動き出す。
「そんだけ綺麗なんだから歳とか最早関係ないでしょうに……てか、僕とそんな変わらないでしょう」
「そういうことじゃないのよっ」
そう言って彼女はくるりと回ってこっちを向き、後ろ歩きになる。回った拍子にメイド服がふわりと浮き、眩しい太ももがチラリと顔を覗かせる。残念ながら見えなかった、何がとは言わないが。
途中でコンビニに寄り、缶チューハイのゴミを捨てたり暖かい飲み物を買うなどをした。そして近くの公園のベンチで足を休めつつ僕はSNSを確認する。彼女は真っ先にブランコの方へ行った。風が冷たくないのだろうか。
SNSではちょうど大きなニュースがあったようで、早朝だというのにTLの更新速度も普段より格段に上がっていた。僕はそのニュースを読み、彼女に伝える。
「どうやら、何処かの国の植物学者が唱えた『植物に意思は存在しない』という仮説が通説になったらしいですよ。なんか色々と実験をして証明したとか」
「英国の精霊使いなんかが泣いて喜びそうなニュースね」
彼女はブランコを立ち漕ぎしながら言う。ベンチからブランコまでは距離があるためスカートの中は見えない。
僕は深夜テンションで生まれた邪な考えを洗い流すように暖かいお茶を一口飲む。
「ただ、もうひとつ。某宇宙航空局が短距離かつ無機物限定とはいえワープを実現させたらしいです。どうやら一昨日から各国の転移陣が使えなくなったのはこれが原因っぽいですよ?」
彼女はブランコから降り、形のよい眉をひそめて舌打ちをした。舌打ちをした姿も様になる……と僕は関係ない事を考えていた。どうにも注意力が散漫になっているのを実感する。
「確かにここ最近、転移に必要な魔力量が上がってたけど、まだ先だと思ってたのになぁ……。じゃあ、しばらくは帰れそうもないわね……。そもそも行きに転移陣つかった時点で不法入国だし。協会から連絡は?」
僕はメールボックスを確認するがとくに連絡は来ていない。とりあえず協会で懇意にしている人に現状の連絡だけ送っておく。
「来てないです。とりあえずあいつに連絡しときましたよ」
彼女は僕の居るベンチの背もたれにおしりを乗せ、僕より1段分たかい位置から煙草を口にくわえつつ答える。
「うーん、今回の依頼は終わったし……日本円はいくらかあるから、……しばらくはバカンスかな?」
そう言って笑った彼女からは甘い煙の匂いがした。
☆
それから1週間経って、ただいま都内のビジネスホテル。
どうやら協会側も某宇宙航空局のワープ実験のことは掴んでいたらしく、だいぶ前から転移に頼らない国家間の行き来については用意していたらしい。
「協会も考えましたね。まさか転移が出来ないなら巨大な異空間とそこを行き来できる扉を作って世界中に配置するなんて」
僕がそう言うと彼女は右手に煙草、左手に缶コーヒーを持ちながら笑った。流石に室内なのでスカジャンは脱いでいるが、相変わらずのメイド服だ。
「まぁ、科学者が異空間を作る技術を手に入れた瞬間に『科学で成し得ることは魔法の管轄では無い』という法則に従ってその異空間は崩壊。地球ですらない場所で塵となるけどね。もしくは扉が消えて一生閉じ込められるか」
「こ、怖いこと言わないでくださいよ!!」
カラカラと笑いながら言う彼女とは対照的に、僕は顔が青ざめているのを自覚する。
話を逸らすべく、僕は再び彼女に話しかける。
「それにしても、流石はロシアの道化師ですよねー。魔術師は伊達じゃないっつーか。どうやったらこんなに早く事をなせるのか…」
僕は感嘆のため息を吐きつつ言った。彼女は何も言わずに手元の缶コーヒーを飲んでいる。彼女のお気に入りは異星人の語りが特徴的な某CMでお馴染みのやつだ。
微糖の金色の缶を傾けて液体を流し込む。
その動作がやけに様になるのは彼女が大人なのか、それとも僕がコーヒーも似合わない未熟者だからか。
それから少し経って。
彼女がふと口を開く。
「依頼、受けようか。少しくらい日本で名前を売ってから帰ろう。やっぱり何もしないでダラダラしてるのは性に合わないしね」
僕はじとーっという擬音が似合う目で彼女を見つめる。
「昨日浅草で甘酒やら人形焼やらをレンタル着物にこぼしてお店の人に謝り倒してた人が何か言っておりますね」
存分にダラダラしてましたよね?そう言外に問うと彼女は顔をほんのりと赤らめて目を背ける。いつもの彼女より少し幼い雰囲気が前に出てきて、少し僕達の間の空気が柔らかくなる。
彼女は咳払いをひとつした後、仕切り直すように言った。
「実はもう依頼自体は受けちゃってるから、約束の時間になる前に準備しましょう」
「ちなみに約束の時間と場所は?」
「15時30分でここの近くのマンションの一室よ。15分も掛からないわ」
僕は腕時計を確認する。時計の単身は3を少し過ぎたところにあった。
15時18分。
この人は10分前行動とか知らないのだろうか。
☆
結局、服を着替えるなどの準備があった為、僕達は5分ほど遅刻してしまった。しかし依頼人は優しい笑顔で許してくれた。というかこっちが依頼を受ける側だから向こうは下手に出ざるを得ない。ちなみに僕達も今回はちゃんとスーツを着ている。
出されたコーヒーで口を湿らせてから彼女は口を開く。
「それで、依頼内容と報酬は?」
目の前の草臥れたスーツの男は真っ直ぐとこちらを見て言った。
「依頼内容はとある一般人の研究所からの研究資料の奪取。報酬はこれでどうだろうか」
男は指を三本たてる。
300万。魔法使いではなく一般人相手ならば妥当どころか随分と高額だ。
「そのとあるの部分が分からないとなんとも言えないわ。というかどうして私たちなの?」
男は吐き捨てるように言った。
「我々錬金術師は君たち魔法使いと違って荒事は苦手なんだよ」
彼女はその整った顔立ちにはまっているアースアイを少し見開いて、さも驚いたかのように言う。
「なるほど、相手側に貴方がた錬金術師では敵わないような魔法使いないしは魔術師が居ると?それなら3000万も納得ね」
彼女は目を弓なりに笑わせながら言う。依頼人が若干慌てている。向かいに座る彼には彼女がさぞ悪魔のように見えただろう。
まぁ、魔法使いという言葉は悪魔という単語から派生したものと言われているのであながち間違えではないが。
閑話休題。
ちなみに彼が何故慌てていたのか。
僕達魔法使いないしは魔術師は基本的に一般人に遅れをとることはない。そもそも身体の作りが人間ではなくなっているし、大きな神秘を前にして一般人や機械は抗うことが出来ないからだ。一般人の研究所からものを奪うだけなら錬金術師でも事足りる。
しかし彼は今回、僕達魔法使いに依頼をした。
つまり今回の本当の依頼は神秘学で護られた、魔法の要塞からの研究資料の奪取。こちらは2人、相手は未知数。
しかも、魔法使い間での抗争に巻き込まれ、相手側がどのような魔法使いを雇うか分からず、地の利は相手にある。完全にこちらがアウェーだ。
最初彼は「研究資料の奪取」「一般人の研究所」という所を強調して言った。そして指を三本、つまり300万の報酬で僕達に依頼をした。
もし、そこで魔法使いが出てきても自分たちは知らなかったと言ってしらを切るつもりだったのだろう。
しかし彼女はそれに気付き、そこを突きながらさも元から3000万を払うかのように言った。もう彼はそれなら依頼を止めますとは言えない。ここで彼が依頼するのを断れば、僕達を騙していたことが事実と認めることになるからだ。
この情報社会、しかも狭い魔法使いのコミュニティにおいて『無関係の魔法使いを自分たちの抗争に騙して参加させようとした』という情報はあっという間に広がる。悪事千里を走る、とはよく言ったものだ。
だから彼女は、「何も言わないでやるから報酬を上げろよ?」と脅したのだ。魔法使い間の抗争への参加費用の相場は500万から1000万ほど。相手の魔法使いとのいざこざの元になるし、お金しか明確な利が存在しないからだ。相場の何倍も払ってもらうことになるが、そもそも300万でそんな仕事をやらせる方が悪い。若い魔法使いならば言いくるめられると思ったのだろう。
実際、神秘学者は往々にして孤独を好み、人に教えるくらいならば己の研究を優先するという人が多いため、後継者の育成という概念があまり無い。つまり例え治安の良い日本といえど、若者は守るべき人財などではなく一人の大人として……いや、一個の消耗品として見られることは余り珍しいことではないのだ。
俺は話の流れが変わったなぁ、などと思いながらお茶請けのクッキーを頂く。そのクッキーは依頼主の苦い顔とは真逆で、ただただ甘かった。
☆
僕が5枚目のクッキーを食べ終わったタイミングで話が終わったらしく、彼女は立ち上がって所謂営業スマイルを顔に貼り付けて言った。
「ご依頼承りました。私たち《鋼の契》が必ずや遂行致しましょう。貴方達から差し出すのは3000万円、私たちから差し出すのは貴方の言った研究資料。期限は2週間。相違ないですね?」
「ええ、お願いします。2週間後までに3000万円は必ず用意いたします」
彼は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「契約はなされました。行きましょう?」
彼女は僕の方を向いてそう言ったあと、部屋を出ていった。僕もあとからついて行く。
ビジネスホテルに戻ったあと、僕達は今回の依頼の作戦会議を始めた。彼女は僕の方を向いて言った。
「どうだった?」
僕は鼻が機能している事を確認して、彼女に答えた。
「踏み倒す気満々でした。多分、研究費用で火の車なんだと思いますよ?」
彼女はため息をついてわざとらしく言った。
「約束は守らないといけないのよ?なんでそんなことするのかしら」
「童話由来の魔法とか使う人が少なすぎて分からないですって。あんな使いづらい魔法ないですよ?」
「どうして?相手側からの契約の受診を前提とする代わりに互いになされた約束事を必ず遂行する魔法。依頼を受ける上でこんなに使いやすい魔法も無いわ」
「相手側から提案された依頼内容に対してこちらからの変更、妥協は不可能かつ、契約が成立した後にどの可能性を辿っても依頼の遂行が不可能だと世界に判断された場合は死をもって償う、って使いにくくないのなら何なんですか……」
ちなみに今回の場合は、相手側から資料の奪取の対価として3000万円をこちらに譲り渡すという契約がなされた。相手側が報酬の話で明確な数字を口に出さなかったお陰で、若干依頼内容を曲解出来たが本来は報酬すらこちらからの変更はできない。
「童話由来なのはあなたも同じでしょ?というか同じ童話なんだから。ねぇ、ハインリヒ?」
「そうですね、王女様?」
互いに芝居がかった口調で言葉を投げかけ合う。
少し間が空いたあと、僕は脱線した話を戻すように彼女に問いを投げかけた。
「それで?今回奪取する資料とはどんな物なんですか?」
彼女は帰りがけに買った缶チューハイ(みかん)を飲みつつ答える。
「なんでも、植物に意思はないっていう意見に対する反論とその証拠実験をまとめた資料だって。紙媒体だから取ってきてくれと」
パソコンは科学技術の塊。『神秘は科学技術に対して必ず優位を取れる』という法則がある為、パソコンによるセキュリティは魔法使いに対して意味をなさない。
「なんで、錬金術師が?精霊使いならともかく」
錬金術師はどちらかというと、自然との調和をモットーとする精霊使いとは反りが合わない印象があったが。
「なんでも彼、精霊の臓器を用いた薬品を作りたいみたい。そのためには精霊の存在を科学面で完全否定して質量のある存在にまで昇華させたいんだって」
「ご大層な研究ですねぇ」
俺はそう言うとシングルベッドに倒れ込むようにして寝転がった。
ちなみにこの部屋は僕の部屋のため、彼女の匂いがどうこうということは無い。というかそもそも僕達がいない間にシーツは綺麗なものと交換されていた。
閑話休題。
魔法、というのは科学と表裏一体の学問である。魔術、神秘学、占星術、五行思想、色々な名前を持っているがそういうのを全て纏めて魔法である。
魔法には科学的な法則とは別に独立した法則を持つ。その中のひとつにして最大の法則に『科学で成し得ることは魔法の管轄では無い』というのがある。科学で証明された事象は魔法で再現することは出来ないということだ。
例えば、水はH2Oの化学式で表される水素と酸素の化合物だ。決して魔力なんていう不思議物質で「水」を作ることは出来ない。
だから、元素という考え方が出た瞬間に魔法使いはこの世にある物質を魔力から作りだすことが出来なくなった。物質の生成が魔法の管轄から外されたからだ。ここで言う元素はエンペドクレスやパラケルススの提唱する所謂四大元素ではなく近代科学の元素である。
無論、物質から元素、元素から原子……とさらに細かく細かく分解していけば現在の科学では未知の領域に到達し、魔法の領域になる。しかし、そこまで細かくなればとても人の脳で演算可能な魔法ではなくなる。
それは天地創造、神の領域だ。
古代に半神や名だたる英雄達が存在した理由は一重に科学の未発達ゆえに人間の使える魔法領域が広かったからだと言われている。
今回の場合、科学的根拠をもって植物の意志を否定されたことで、科学側に片脚が浸かっていたアニミズム、シャーマニズムの考え方が完全にこっち側に来たのだ。
科学的に肯定されることで使えなくなり、否定されることで使えるようになる。現代において科学と魔法のどちらの法則が主導権を握っているのかは明らかである。
もっとも、魔法の神秘は科学技術を利用して作った物に対して必ず優位を取れるため、主導権が握られていても不利であるという訳ではないのだが。
魔法と科学の関係は得てして絵画に例えられる。曰く、科学とは元からカンバスに描いてあった魔法という絵に作者とは全く別の人が解説を入れることであると。そうして他人が行った解釈にも関わらず周りの人はそれこそが真実だと思ってしまうのだ。
そういう意味では僕達の使う童話由来の魔法ほど、安定しているものは無い。なぜなら、人々は童話に科学的根拠を求めないからだ。童話というのは、勧善懲悪などの道徳的教訓を前面に出したものであり、そこに科学的根拠は必要ない。
もっと言うのであれば、物語の中では整合性すらも必要ない。グリム童話で例えるなら、『千匹皮』という物語なんかがある。父親との結婚から逃げ出した娘が最終的に父親と結婚して幸せに暮らすという意味の分からないストーリーだ。
そのような話であっても物語は成立する。物語ほど頑丈な魔法的法則はそうない。無論、他の魔法に比べて圧倒的に融通が効きにくいなどのデメリットはあるが。
などと魔法についてつらつら考えていると彼女が言った。
「ということで、私たちの依頼は端的に言えば、錬金術師の異端児に味方して、常識的な科学者から彼らの作った血と汗の結晶を掠めとって燃やすことよ」
「まるで、こちらが悪いみたいな言い草……。その言い方だと、精霊使いも異端児側の立ち位置みたいになるじゃないですか」
俺がため息をつくと彼女は笑いながら言った。
「確かに精霊使いに悪いわね。でも、私たちは誓いを破る者よ?どう考えても悪でしょ」
☆
1週間後、某県、某市、現在時刻は深夜の2時30分。
僕達は資料があるという研究所に侵入することになった。どうせバレずに侵入することは出来ないから正面突破しようという考えである。脳筋?褒め言葉だ、というのが彼女の言。
彼女は相も変わらずのスカジャンメイドで煙草。さすがにお酒は持っていない。
僕は黒白の千鳥模様のマフラーに黒のダウンに黒のシャツ、黒のパンツだ。ちなみに裏地はボアになってて暖かい。真っ黒なのは隠密行動のためとかでは無く自分のファッションセンスが無いだけだ。
僕達が寒さに耐えながら研究所に向かうと、案の定、沢山の魔法使いと思しき人達が待ち構えていた。
「じゃあ、先鋒は任せてもいいかしら?」
彼女はそう言いながら、道化師も使っていた空間魔法で人ひとりが通れるサイズの鳥居を出現させる。神社の入り口にある鳥居は俗世と神域の境界線となる。神秘を介在させた鳥居を置き、その鳥居を置いた敷地一帯を境内と見なすことで、そこを現実世界から隔離された世界にすることが出来る。
いくら何でも戦闘音がすれば周りの一般人にも聞こえてしまうため、戦場を隔離することでバレないようにするのだ。
「了解です」
僕は鳥居をくぐりながらそう言うと、彼女の前に出た。
僕は自分に言い聞かせるように詠唱を行う。
「鉄の帯をひとつ、僕に身体強化を」
僕から悲しみの感情が消える。
「鉄の帯をふたつ、僕に驚異的な回復力を」
僕から怒りの感情と聴覚が消える。
……とりあえずふたつで十分かな。
怒りと悲しみの感情が消えたせいで、こんな時だというのに気分が高揚しているのを感じる。思わず声に出して笑ってしまいたくなる。
そんな気持ちを理性でねじふせて、僕はクラウチングスタートの姿勢をとる。
相手が僕達に気付く。が、もう遅い。
僕はフッと短く息を吐くと、彼らに向かって駆け出した。その速度は人の限界を超える。車と同じかそれ以上の速度だ。普通ならば肉体が破損するところだが驚異的な回復能力で無理やり形を保つ。
そして彼らが僕に対して魔法を使うよりも前に徒手空拳を用いて全員無力化する。
ここで大切なのは決して殺さないことだ。ここは日本。いくら警察くらいの武力では捕まらないとは言えど、大量殺人事件の容疑者になるつもりはなかった。
そして沈黙。
一瞬だったなぁ、などと考えながらのんびりと歩いてくる彼女に視線を向ける。
彼女は血だらけで倒れる人達を無視して僕の元までやってきた。
僕が魔法を解くと、パチンッという何かが壊れる音が聞こえた。それを合図に僕に感情と感覚が戻ってくる。
「流石よ、ハインリヒ。鉄の帯の契約は本当に強力ね」
「自分の精神の半分と感覚も縛ってますからね」
僕は苦笑いをする。
僕の魔法『鉄のハインリヒ』は童話『カエルの王様』を元にしている。
ランダムで喜怒哀楽と五感を縛る代わりに対価として強力な力を得るものだ。得られる力にあまり制限はない。やろうと思えば人の心を読むことすら出来る。
ただし、ひとつの能力を得るために何個の感覚を失うかは毎回変わり最大で3つ、また一度に得られる能力も最大で3つまでというものだ。
そもそも『カエルの王様』ではハインリヒがカエルに変わってしまった主への悲しみが抑えられなかった為に自分の心臓に鉄の帯を巻き付けるという話であり、決して対価に何かを得るものでは無い。
これは、ハインリヒは鉄の帯を心臓に巻くことを対価に悲しみに打ち勝つ身体を手に入れたという曲解に曲解を重ねて作り上げた魔法である。
ちなみに彼女の魔法も同じ童話の王女様とカエルのやり取りから曲解した魔法である。
ただし、元の物語の『約束を違えることはいけないことである』という教訓を元にしているため、彼女の魔法の効果はとても強力である。物語由来の魔法はオリジナルに近づけば近づくほど融通が利かなくなる代わりに神秘学的にとても頑丈になるのだ。
閑話休題。
「じゃあ、入りましょうか?」
彼女の言葉に頷き、僕はついて行く。
研究所は地上に3階、地下に3階の計6階層。
地上に出ている部分は植物園になっており、一般人にも解放されている。
ただし、今回僕達が必要としている資料は十中八九地下にあるだろう。地下から流れてくるこの神秘的な気配は、おそらく相手側の魔法使いによるセキュリティだ。
資料を持って逃げなかったのも、己の魔法に余程の自信があるから。相手は逃げるよりも頑丈な城で迎え撃つ方が良いと判断したのだ。
僕はその慢心、余裕がいつまで持つだろうかなどと考えつつ、身体能力を強化して地下への扉をこじ開ける。
地下室の階段を降りると廊下が真っ直ぐと続いていた。光源は切れかけた蛍光灯のみ。まるでホラーゲームの病院みたいだ。
廊下をまっすぐと進む。決して迷う事はない。
明らかに神秘的な気配。ここまで濃ければ、一般人であっても感じることが出来るのではないかと言うほどの魔力の奔流。
廊下を抜けた先には大きめの部屋があった。脇には複数のPCとプロジェクター、そして乱雑に積み上げられたパイプ椅子。恐らく会議室か何かだろう。
部屋の奥には一人の若い男がいた。ワインレッドのダウンジャケットに黒のチノパン、白のハイカットスニーカー。首には黒のヘッドホンを掛けている。
それだけならただの大学生といった感じだが、決定的に違うことがひとつ。
ダウンジャケット越しにも分かる筋肉と200センチ近い体躯、ボディービルダーもびっくりな体型をしていた。
筋肉男(仮名)が口を開く。
「ここは通しませんよ?ミズ・グリムとミスター・クロガネ」
「あら?私たちの名前を知ってるなんてファンかしら。サインくらいならするわよ?」
彼女-リア・グリム-はそう嘯く。
「それは欲しいですね。後でサイン用紙とペンを持って病院に伺いますね」
貴方達を病院送りにします、という明確な敵意を持った挑発。
それを開始のゴングとして、僕と筋肉男の2人は同時に魔法を構築する。
まずは軽く、様子見で。
「鉄の帯をひとつ、僕に驚異的な身体強化を」
僕から喜びと悲しみの感情が消える。
「鉄の帯をふたつ、僕に驚異的な回復能力を」
僕から愉快さと味覚が消える。
運が良いのか悪いのか。
味覚は戦いに必要ないから良い。しかし、今の僕の心は怒りのみが支配している。喜哀楽が失われたため、制御が効かない。残った理性の限りを尽くして、その怒りを敵に向けた。
僕は転移魔法もかくやというスピードで相手に迫る。
すると、
「式神 召喚。鹿苑・慈照」
筋肉男が紙を2枚投げてそう唱えると、その2枚の紙はみるみるうちに金の牡鹿と銀の牝鹿に変わり、僕の攻撃を防いだ。
「おまえ、その筋肉で召喚士かよ!」
僕が思わずそう叫ぶと、筋肉男が笑いながら言った。
「境界の主 足利 義則、推して参る」
マジか、エリートじゃねーか。僕はその言葉を飲み込みつつ、言葉を返す。古くから惰性で続く魔法使い同士の決闘における暗黙の了解ではあるが、名乗られたら名乗り返さなくてはならない。
「哲学者 ヒジリ・クロガネ」
僕は、式神を躱して本体に攻撃を当てるべく、再び突撃する。
しかし、銀の牝鹿(慈照といったか)がことごとくこちらの攻撃を受け止める。まるで磁石の同じ極をくっつけようとしているような感覚。ダメージが入っている気がしない。
こちらが攻めあぐねていると、今度は金色の牡鹿(鹿苑と呼ばれていた)が突撃してきた。
速い!そう思う間もなく、突撃の勢いのみでは説明のつかない力によって後方に飛ばされる。
恐らく式神に重力に関係する何らかの術が刻まれて居るのだろう。それによって相手の攻撃を弱めたり、逆に自分の攻撃を強化しているのだと思われる。
実はアインシュタインの一般相対性理論により反重力の存在は科学面で否定されているので「重力の調節」は科学ではなく魔法の管轄にある。
とはいえ「重力」という概念自体は科学領域の代物の為、反重力は魔法分野としてはとても窮屈であり、魔法に落とし込むのはとても難しい。挫折する魔法使いも多いと聞く。
流石は境界の主、ただの召喚士では無いということだろう。
血を吐きつつ吹き飛ばされた先にはリアがいた。
「すみません、1人じゃ厳しそうです」
僕は感覚の対価に得た回復能力で回復しつつ言う。若干声がイラついてしまったが、喜哀楽が消えているため仕方ない。
「あなたのポテンシャルなら境界の主にくらい勝てなきゃダメじゃないの」
ため息混じりにリアが言った。まるで戦場に居ないかのような緊張感の無さだが、彼女にはそれが出来るだけの実力がある。
「あの、境界の主って哲学者より位が上なんですけど…」
「それでもよ」
彼女は何処からともなく刀を取り出す。黒の柄に黒の鍔、鞘も黒色で何も装飾がない。
彼女は刀に語りかけるように詠唱を行う。
「あなたが差し出すのは力、私が差し出すのは逆境と使い手、契約はなされました」
持ち物は常に使われたがっているという付喪神とアニミズムの応用で行われた契約。
彼女はその刀を僕に渡す。
僕はそれを受け取ると今あるふたつの魔法に加え、もうひとつの魔法を唱える。
「鉄の帯をみっつ、僕に2秒先の未来視を」
僕から怒りの感情と嗅覚と聴覚が消える。
無音の中、僕は刀を抜く。
刀身は約80センチ。波紋のない刀身が鈍い金属光沢を放つ。
息を吸い、吐く。
視界に式神2体と筋肉男が見える。
ふと、彼らがこちらにどう向かってくるのが分かる。
その瞬間、僕は全身のバネを用いて飛び出す。
そして2秒後。
筋肉男は両足首の筋を切られたことで自重を支えきれなくなり、崩れ落ちるようにその場に倒れた。
☆
僕達は無事、研究所から資料を持ち出して帰った。
魔法使いは居たが、研究員は一人もいなかった。なぜ大切な資料を放置して逃げたのだろうか。
「細かい事はいいのよ。結果良ければ全てよし。私たちへの依頼は資料の奪取、これ以上でもこれ以下でもない」
「それもそうですね」
彼女は大雑把に見えて人の裏の裏まで読める人だ。恐らく今回の依頼の裏も既に把握しているのだろう。
つまりこの言い方は、言外に僕は知るべきでは無い、もしくはまだ知らない方が都合の良い事柄であると言っているのだ。
これは僕が信頼されていないという訳では無い。むしろ、僕の存在を既に自分の駒として次の一手を打ち始めているという証である。
僕は彼女の頼もしさを感じつつ、彼女の駒であることに何の抵抗もない自分に苦笑いした。
僕達はマンションの一室に向かう。マンションにはものがひとつも無く、依頼主もうつろな瞳をしていた。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、
「大丈夫な訳があるか!3000万円を用意するのにどれほどのものを犠牲にしたと思っている!?これじゃあ精霊薬の開発なんて夢のまた夢だ!お前らのせいだ!!」
と泣き喚いた。
リアの契約魔法は必ず遂行される。ズルは許されない。遂行出来る可能性があると世界に判断される限り絶対に。だから、今回の依頼主は自分に不利になるとわかっていながらも3000万円を集めた。逃げ出すことも出来ずに。
「確かに、契約を遂行致しました。またのご依頼をお待ちしております」
3000万円がちゃんとある事を確認すると、リアは営業スマイルを貼り付けて言った。
「もう二度と依頼はしない!するものか!!」
彼の暴言を背中に受けながら僕達は外に出た。
☆
「さて、どうしますか、リア」
僕はリアに声をかける。
マンションを出たあと、僕達は朝食がてらカフェに寄る為に早朝の街を歩く。冷たい空気と鋭い朝日が徹夜で戦闘した体を叩き起こす。
「もちろん、一回帰るわよ。お母様にも挨拶しなきゃだし」
意識を切り替える。
「了解です。お嬢様」
お嬢様は僕にひとつため息を付き、吐き捨てるように言った。
「あの、ウシガエルにも一応挨拶しなきゃね……」
そういうと彼女は空間魔法で服を入れ替えた。スカジャンメイド服から、仕立ての良い深緑のチェスターコートを中心にまるで海外女優のプライベートのような装い。どこからどう見ても良家のお嬢様。飲兵衛メイドの面影は見当たらない。
僕はウシガエルと称された前の自分の主に思わず苦笑いを浮かべる。
悪い魔女によってカエルに変えられてしまった王様。しかし、本当にカエルになる前の王様は善良な人だったのだろうか。魔女も物語には語られないだけで何か理由があって魔法をかけたのではないのだろうか。
どちらかと言えば魔女側に立つ僕はふと、そんなことを考えてしまった。
ぼーっとしていると、お嬢様が僕を上目遣いに見る。
「あのウシガエルの嫁に行くなんて真っ平御免よ。いつか、私をさらってね?私の従者さん…?」
僕は苦笑いをして答える…ことはしない。
この問いに応えてしまえば、きっと契約がなされてしまう。何故なら自分もその契約を望んでしまっているから。彼女と、彼女と同じ童話を根幹とした魔法を使う僕が契約を結んでしまえば、きっとそれは強力な呪いになってしまうだろう。
あの時のように。
それは僕たちのどちらも望んでいない。僕たちの関係は決して呪いではない。もっと脆く、それでいて魔法よりも余程確かな……
例えば師匠と弟子、あるいはお嬢様とその許嫁の従者、そしてあるいは----
複雑な関係で結ばれた僕達の複雑な関係はまだ続いていく。
☆
「あ、そうそう。彼が居る病院にサイン色紙も贈らないとね」
「あなたは鬼か悪魔ですか?」
「失礼ね、悪魔よ」
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