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『ゴマ君の連絡先を教えて下さい』

 慣れないお願いごとなうえ、内容が内容だけに、どうしたって敬語になってしまった。他人行儀な文言には触れず、

『ゴマ君に確認してみるよ』

 とだけ返ってくる。私が返信文を考えつくより先に、了承がとれた旨とゴマ君の連絡先が送られてきた。

『なずなにゴマ君を呼んでも大丈夫かな?』

 ミューズの返信は、絵文字があまり無いことが多かったのだけど、このときばかりは驚き顔が振りまかれた文が返ってきた。

『どうしたの』

『意外な展開』

『別に、大丈夫だと思うけど』

『おとうとおっかあは、いつでも歓迎するはずだよ』

 翌日の夕方、ゴマ君はなずなのあの、誰も座ることのなくなっていた指定席にいた。私がしたことと言えば、たどたどしいメッセージのやりとりを三往復ほどしただけだ。二つ返事でゴマ君はなずなに来ると明言し、実行した。ゴマ君を説き伏せるための台詞をあれこれと用意していたのが滑稽に思えたほどだ。

「すみませんでした」

 お父さんを見つけるなり、ゴマ君は頭を下げた。お父さんはちょうどコーヒー豆を広げて作業していたらしく、カウンターの向こうで豆がこぼれ落ちる音がした。

「急にどうしたの、藪から棒に」

 散らばったと思われるコーヒー豆はそのままに、お父さんは目を見開いた。

「どうしたのと言われると、その、僕は月人くんに酷いことを言ってしまったのでそのお詫びがしたいと」

「事情は知らないけどね。それは月人と話したらいいよ」

「では、何日も不在にして心配をかけたかと思うので、そのお詫びを」

「心配?」

 使用済みの食器を重ねたお盆を手に、お母さんが通りかかる。お父さんと目が会った瞬間に、怪訝な顔をして首を振った。救えない下っ端を見るボスマフィアみたいだ。

「ゴマオは客だろう。客は客らしく座ってな」

 ゴマ君は肩を落とし、私に目配せした。降参だよ、と言っているように見えた。

 何も変わらず、お母さんはゴマ君の横でテレビを見上げ、また仕事をサボっていた。もっとも、お母さんの理論ではそこにお客さんがいる以上はサボっていないのだということだけど。

 お父さんも変わらずゴマ君のためにコーヒーを淹れ、ゴマ君は少しだけ気恥ずかしそうに久々の一杯を受け取った。私はその光景がよく見えるカウンター席に居座り、お馴染みセットの一部にでもなったようにコーヒーを啜る。

「なんだか嬉しそうだね」

 お父さんに呼びかけられて、コーヒーを飲むふりで顔を隠した。自分がどんなニヤケ顔をしていたんだろうと思うと、急に不安になる。

 ああでもないこうでもないと、ゴマ君とお母さんが言い合う両脇で、今日も男性客が首を折り曲げてテレビを見上げる。あんな辛そうな恰好にも理由がある。なずなの絵に描くときに取り入れなきゃ、と遠目で見つめた。

 私は当初の目的を忘れないよう、もう一口コーヒーを含んで目を閉じる。二つの決意のうちのもう一つは、これから成し遂げるものだ。もはや取り掛かるだけという土壇場にきて、迷いが生じていた。

 ゴマ君にお願いするということまでは決めていた。問題は、そこにミューズも加わってもらうかどうかだ。加わってもらえばいい、と真っ当な主張をする自分と、ゴマ君と二人ですればいい、と楽な道を進もうとする自分がぶつかり合う。えてして、楽な道派の主張の勝率が高い。ミューズに声をかけるのが億劫になっている理由は分かりきっている。

『そうやって道具に頼ってるから、余計にしゃべれないんじゃない?』

 あの時の眩むような動揺が怖かった。これから私は、スマホを使ってゴマ君とやりとりするつもりだ。ミューズが来ても同じ。お父さんたちとは違って、ゴマ君やミューズとは自分の口では話せないという確信があった。

 どうやら私は、近い年代の相手と話すのが一番怖い。なぜだっけ、と理由を探そうとすると何かを思い出しそうになるんだけど、昨夜見た夢みたいに朧気で掴めない。理屈は分からないのに確信だけはあるというタチの悪さ。

 きっと、ミューズは私がスマホを使ってももう咎めたりはしないだろう。頭では分かっていても、実際にミューズの前でスマホを使うのは怖いし、悔しい気もした。

 私は別の場面を思い出す。お父さんを叱咤するお母さんの姿。自分の作った壁を超えろと、力強く言い放った。

 思い出すたびに、元気が出た。娘と母に挟まれて、沈んだり蘇ったりしているのは不思議で面白い気がした。いつか、ミューズに自分の声で伝えられるといい。

「ただいま。おお、ゴマ君じゃん」

 ミューズの顔は正直だ。裏表がなくて明るい。中学校時代の、クラスでの評判が今のミューズに似合うと思った。私にも笑いかけ、ミューズはゴマ君と話を始めた。実物のミューズを前にすると、思っていたよりもずっと容易に私の決心はついた。よし、と口の中で言って、真っ当な自分の思いに従うことにする。

 お母さんが席を離れたところで、私は進み出ることにした。ゴマ君が気づく。

「あやちゃん、ちょうどこっちに誘おうと思ってたんだ。一緒に話そうよ」

 ミューズが待っていたように近くのテーブルから椅子を調達し、二人掛けスペースに三つ目の椅子を並べる。追加した椅子に自分が座り、真ん中の席を私に勧めた。二人に挟まれ、どちらに向けて切り出すか迷った私は、どちらにも目を向けずスマホを出した。

『二人に、お願いしたいことがあります』

「なになに? また意外な展開?」

 ミューズが目を輝かせる。ゴマ君と再会できた余裕もあってか、無垢な楽しさが伝わってくる。

『場面緘黙という私の障害について調べるので、一緒にいて欲しいです』

 口で言うよりも、どういうわけか文章にすると堅苦しくなる。歯痒さをこらえ、二人に画面を差し出した。これが、私の二つ目の決心。

 二人は顔を見合わせた。驚いたような、解釈に迷っているような。

「もちろん、いいよ。あやちゃんが良ければ付き合う」

 ゴマ君がただ事じゃないぞというように、口を真横に結ぶ。

「私も。どういうものなのか、ちゃんと知りたいし」

 ミューズも神妙な面持ちで頷いた。そうか、それだけの一大事か。私一人が浮ついている気がして、二人に申し訳ない気さえした。

『ありがとう。あの時、一緒に調べようって言ってくれて』

 ミューズに画面を差し出した。野球場でミューズから治る方法を調べようと提案されたときは、心の底から自分の不甲斐なさと世の分からずやぶりを恨んだ。でもあの時、ミューズが提案してくれたからこそ私は今の考えに辿り着くことができた。そして、ミューズは待ってくれていた。一人で調べようと思えばすぐにできることを、私が受け入れられるようになるまで手を出さずに黙ってくれていた。

 満足に説明できる気はしなかったので、私が打ったお礼の解釈はミューズに委ねた。ミューズは小さく笑い、うん、と頷いた。

「僕のパソコンを使って調べる? それとも本とかがいいのかな」

 私は頷き、ゴマ君のパソコンを指さした。株の売買で使っているとかで、時々なずなでもノートパソコンを開いているところを見ていた。今日はカバンに入れられたままになっていたそれを、ゴマ君は私の目の前に差し出してくれた。ゴマ君の手早い操作で、画面はインターネットの検索ページに飛んだ。

 厚意に甘え、私はキーボードをたたく。

『場面緘黙症』

 それだけ打ち込み、検索をかけた。

 三十万件というヒット数の表示。本当に世の中に存在している概念であり、名前なのだと知る。

 その中から一つを選ぼうというところで、今さらこみ上げてくるものがあった。二十一年間、ずっと遮断して、無いものとしてきた情報だ。自分のことが見透かされていたらと思うと、怖くて仕方なかった。動物や花の図鑑のように、私の生態について書かれていてその制約から一生逃れることができないのではないか。あるいは、ただ話せないフリをしている狡い人間である、と書かれていたら。そんな風に考えると、やっぱり見ない方が正解なのではないかと思えてくる。知ったところで、障害が治るわけではない。

 それでも。

 スマホで言葉を伝えようとする私を、ミューズに咎められたとき。あの時の自分の間抜けな声が頭の中で蘇る。

「あ、あ」

 喉から出てくる意味のない声を聞きながら、本気で思った。

 変わりたい。

 ようやく気づいた。私は、私のことを知るべきだ。

 画面に並ぶ見出しの中から、一番私を納得させてくれそうな、堅苦しい見出しのものを選んでページを開く。

 

◎場面緘黙の定義

「他の状況で話しているにもかかわらず、特定の社会的状況において、話すことが一貫してできない」

 

 出し惜しみするでもなく、いきなり核心が飛び込んできた。正解をCM明けまで引っ張るクイズ番組が羨ましい気さえする。一句ずつ、自分に当てはめて考えてみる。

 前半の「他の状況で話しているにもかかわらず」とは、話ができる場面があることを意味する。私にとっては家族との会話がそれにあたる。後半の「特定の社会的状況において、話すことが一貫してできない」とは、何をどう頑張っても話すことができない場面が存在する、ということだ。

 私は特定の状況で話せないというより、人生の九割で話せないわけだけど。そう考えると、自分の症状は場面緘黙という群の中でもより重たいものなのかもしれない。筋金入りの場面緘黙。緘黙オブ緘黙。力のない笑いがこみあげてくる。

 一旦、私は体を起こして画面から離れた。どうやら、いつかの医師の診断は正しかったらしい。私は、このホームページにある場面緘黙の定義に一致している。医師の診察よりもインターネットを信じるのもおかしな話だけど、たかだか二行の文章で宣告されたからこその説得力があった。

 私を挟んでいる二人は、一言も発しなかった。気を遣っているのか、真剣に頭を働かせているのか、可愛げのない文字が並ぶホームページから目を離さない。私の方が置いていかれそうな有様なので、次に見るべき項目を探す。

 ひとまず、太字で定義が書かれている他は、学会における諸説や解釈の違いなどが大真面目に細かな字で連ねられている。どこのどなたが作ったページなのかは分からないけど、真摯に場面緘黙を扱っていると感じさせるに十分なトップページだった。私は画面をスクロールさせ、太字で書かれている情報から目ぼしいものを探した。

 

◎場面緘黙は、脳の損傷や先天的異常などの不可逆的・恒久的な器質障害ではなく、社交不安症の一つとして考えられる症状である。したがって適切な治療的介入を行えば症状の改善が可能である。逆に、積極的な介入が行われなければ、症状が改善されずに固定化し、成人後に社会的機能に重篤な悪影響を及ぼしかねない。


 実はどういうわけだか、私は独り言なら人前でも話せてしまう。といっても、独り言を意図して言うのは不可能だ。誰かが横にいると意識した途端に、口から言葉を出せば、それが相手に届いてしまう可能性を無視できないのだ。だから私が人前で独り言を言うとしたら、人の存在を忘れるほど集中する対象があった時だ。

 私はホームページの説明に目を滑らせ、独り言を漏らさないよう無意識に注意していた。

『治療を行えば症状の改善が可能』

『社会的機能に重篤な悪影響を及ぼしかねない』

 口から出ないよう、頭の中に押し込める。十数年完璧にかけてきたブレーキが、うっかり外れそうになる程度には鮮烈な文言だった。

 十数年? ふと疑問がよぎる。最後に話したのはいつだっただろう。直感として、十数年という年月が浮かんだ。考えるより先に、学校の授業の光景が思い浮かぶ。何年生だか何の授業だか分からなくとも、机が並んで私は縛られたように席にいて、息が苦しい。やってしまった、と強い後悔に駆られる記憶。なんだっけ、と思い出そうとするけど、心当たりが多すぎてなんの場面だか分からない。学校の記憶は大体どれも息苦しい。

 私は適当に画面を進める。両脇の二人が、

「すごく詳しく載ってるんだね」

「学年に一人ぐらいはいる計算かな」

 など当たり障りのないところを拾って感想をぽつりぽつりと漏らしていた。

 画面に集中しようとしても、小学校時代の残像が頭から離れてくれない。それはいつの間にか、なんだっけ、からどうして? という疑問に変わっていた。どうしてそんな光景が今浮かぶ。なにもこんな、ミューズとゴマ君を付き合わせている時じゃなくても。私は荷物でパンパンのトランクを閉じるように、無理やり考えに蓋をした。

 何かまた、強烈に私を惹きつけてくれる説明でもあればいいのだろうけど。出鼻に受けた衝撃ほど、揺さぶる事実は書かれていなかった。大体のことは、私にとっては経験のうちに知っていたことで、答え合わせにはなっても新たな発見ではなかった。

 自分の意思で話さないのではなく、話せないということ。大人しい子で済まされ、発見が遅れる、あるいは見逃されがちであること。親のしつけや育った環境は関係ないこと。私に気を遣いながら控えめな感想を漏らす二人の間で、ですよね、と無味を噛みしめた。

「ねえ、ちょっとこれ」

 ミューズが興奮気味に画面を指さしたのは、場面緘黙の経過について書かれた項目だった。なになに、とゴマ君がその行を読み上げる。

「成長に伴って症状が軽減し、話せるようになるケースも多い」

 ゴマ君とミューズが遠慮がちに、だけどそうせずにはいられないといった様子で私の顔を窺う。希望の光を見つけたよ、と報告するようだったけど、私はさらにその先の行を見ていた。私の目線に気づいてか、ゴマ君が続きを読み上げる。

「成人になっても困難さが続くケースでは、慢性経過となりやすい」

「慢性経過って」

 声に出してから、ミューズがあからさまに後悔の顔つきになる。言葉にしてその意味するところに気づいたのだろう。慢性経過、つまりダラダラと続いて治らない。

「そういうケースもある、って話でしょ」

 打ち消すようにゴマ君が言う。

「そうだよね、戸村だってこれから頑張ろうってところだし。悲観したってしょうがないよね」

 懸命に取り繕う二人が不思議だった。私は確かに、場面緘黙について知りたいとお願いしたけど、治したいと言ったつもりはないのに。二人には、この体質を治したいと変換されて伝わったらしい。私自身よりも二人の方が望んでいるように見えた。正確には、私が治りたいと望んでいることを望んでいるように見えた。慢性経過だなんて言葉は私にとっては「でしょうね」の範囲で、二人の反応の方がよほど意外だった。

 二人は同じような、前向きを並べた台詞を代わるがわる告げ、私を慰める体勢へ入った。たぶん、私が何の反応も示さなかったのも良くなかったのだろう。文字を打って今日のお礼を伝えようとした頃だ。

「久しぶり」

 割って入ることへの遠慮を含みながらも、涼しく撫でるような声。私たち三人が振り向いたのは同時だった。

「月人くん」

 ゴマ君は言いたいことが溢れて止まらない、そんな力のこもった目になっていた。ほとんど立ち上がりかけてから、椅子ごと振り返る。

「この間は、申し訳なかった。僕が大人げなかったんだ。勝手なことばかり言って」

「こちらこそ。僕が期待に応えられないばかりに」

 月人は力なくしな垂れた。その儚げな姿さえ絵になり、フィギュアスケート選手の立ち姿を連想させた。

「三人に伝えたいことがあるんだ」

「私も?」

 ミューズが意外そうに眉を上げる。私も、恐らくゴマ君も、ミューズと月人の会話を恐る恐る見守った。二人が話すところを見るのは、あの広報に月人の秘密をぶちまけられて以来だ。

「そう。三人に」

 ミューズと月人の間に、わだかまりがあるようには見えなかった。

「永島さんと話した」

 あの女、でもなくクソ広報、でもなく永島さんと呼ぶあたり、月人は本当に大人で上品だと思う。

「何を話すことがあるの」

 嫌悪感を露わにするミューズは、それはそれで正直で嫌いじゃない。

「あの話を受けることにした」

「なんでよ、頭おかしいんじゃないの」

 ミューズほどではないにしても、私も問いたくなった。あの話。月人が甲子園のスターと対決する、のどかなイベント。ただし月人は同性愛者の代表として、世の同じ悩みを抱える人を勇気づけるだとかなんとか。改めて考えて、ミューズの苛立ちはきっと正しい。

「ミューズは何が不満なんだ」

「何がって、当たり前でしょ? まさかあの女の言葉に騙されて、本気でホモを元気づけたいとでも思ったの?」

「そのことなら話はついた。僕はただ地元クラブチームの一選手として出ることになった。永島さんも理解してくれたんだ」

「じゃあなおさら断ってよ」

 月人はただミューズを見つめた。畳みかけるように、ミューズが早口になる。

「もう月人じゃないといけない理由はないんでしょ? 他の誰だっていいじゃん。それなら断って来てよ。なんで受けるなんて言うの」

「違う。永島さんはたとえ同性愛者の件が無くても、僕に依頼したいと言ってくれた」

 長年ミューズの不の感情を見てきたせいか、私には爆発の瞬間が予想できた。来る、と分かったけど私にできるのは顔を見ないようにするぐらいしかない。 

「そんなのどっちでもいいよ!」

 喫茶店の店内で出せる中では、最大限の怒りの声だろう。何が当たったのか、テーブルの上のコーヒーソーサーが小さく音を立てた。

「分かんないの? 今以上に目立つようなことしたら、ネット上でどんどん噂が広まるんだよ? プロ野球の始球式で何万人もお客さんが入ってて、そのうちの一人でも月人の名前を検索したらもう終わりだよ。想像してみてよ。球場中のお客さんが指さして、あいつはホモだって笑うんだよ」

 ミューズが月人を責めれば責めるほど、ミューズ自身が押しつぶされているように見えた。自分の言葉に傷ついて、それでも吐き出す言葉が止められない。

「僕は別にそれでも構わない」

 動じずに言いきる。月人は月人で、簡単に答えを曲げそうにはない。

「私が嫌なの!」

 とうとう喫茶店の中という配慮が取り払われた、悲痛な叫び。遠慮がちに様子を伺っていた客たちが、こちらに視線を集めてきている。

「自分のことしか考えてないじゃない。ほんとに馬鹿なの? 私たち家族はどうなるの。私は嫌だよ。私まで変に思われたくない。私は普通なのに」

 横でゴマ君が、目立たないようにカウンターの方に気を配っているのが分かった。お父さんかお母さんに知れることを懸念しているのか、あるいは事の収集を期待しているのか。ゴマ君が安易に口を挟めない程に、兄妹は譲るまいと必死だ。

「僕にはこれしかないんだ、ミューズ」

「なんで? 野球なんて好きじゃなかったじゃん。そんなに目立ちたいの? 自分と、自分の家族をさらし者にしてまで?」

「もう決めたんだ」

「もういい」

 月人が言い終わるかどうかというところだった。ミューズが力任せに立ち上がり、椅子が床を打つ音が響く。せっかくゴマ君が戻ってきたというのに、今度はミューズが。これではこの前と一緒だ。やっと、うまくいくはずだったのに。

「ま、座りなよ」

 ゴマ君がミューズがいた席を指す。月人は言われるがままに座った。促されてというより、立っていられなかったのかもしれない。

「家族ってなると、そりゃややこしいよね。僕が月人くんに怒ってたのとは訳が違う」

 言葉のない月人を見かねてか、責めてるわけじゃないんだよ、とゴマ君は付け加える。

「僕としては、月人くんのプレーが世間にお披露目されるなんて、始球式であっても嬉しいけどね」

 身勝手な話だったね、とまた付け加え。ゴマ君も、誰の味方をしていいのか迷っているようだった。だってこの話題には、悪というものがいない。

「月人くんは、やっぱり試合に出たいわけ?」

 いや、止めた方がいいって言ってるわけじゃないよ、とゴマ君。自分の全部の言葉に言い訳しているみたいだ。

「オファーが来たので。必要だと言ってもらえるなら、出るだけです」

 中身は変わらなくとも、あからさまにミューズが去った余韻を引きずっていた。抑揚を失った説明。

「ゴマ君なら、どうしますか? 家族を巻き込んでしまうぐらいなら、やっぱり止めるべきだと思いますか?」

「僕? 僕に家族の問題を聞いても参考にならないよ」

 手つかずになっていたコーヒーに口をつけ、ゴマ君は続けた。

「不思議に思わない? なんで僕が毎日ここに来るか。僕ほど来る常連客はそうそういないでしょ」

 月人は同意していいのか迷ったそぶりで、小さく頷いた。

「僕、家に居場所がないんだよね。両親は株で生計を立てている僕を恥さらしだって思ってる。兄弟の中でも僕だけ定職についてないからって、家にいると一日中嫌味を言われる。だから、今日久々に来るまではネットカフェにこもっていたぐらいだ。あんなの巻き込んだとして、僕はなんとも思わない」

 ゴマ君の口調は冷ややかで、どこを切り取っても家族への非難がこめられているようだった。

「そのクセ僕がテレビで野球を見てるとさ、父親が口を挟んでくるんだ。お、どっちが勝ってるんだ、なんてね。興味もないくせに」

「あれ、なんででしょうね。日本の父親は息子に野球の話をする義務でもあるのかな」

 微かに月人が苦笑する。懐かしむような、ゴマ君を労わるような。病院で渡される男の子の育児マニュアルに書かれているのかも、とゴマ君も笑った。

「うちは頼んでもいないのにクリスマスプレゼントがグローブとボールで。みんなああやって、親の思惑通り野球好きになっていくんですかね。もっとも僕は、今だって野球が好きじゃないですが」

 自嘲気味に笑みを浮かべる。やれやれと父に呆れる息子は、優しい顔をしていた。

「僕は違うよ。僕が野球を好きなことは、親には内緒にしてある。だから僕はどこのチームも応援しない。応援してた時期もあるけど、部屋にユニフォームとか置きたくなってこらえるのが大変だったからね」

 思わずゴマ君を見てばっちり目が合った。反射的に見てしまうほど異様に思えた。

「僕のこと、ちょっと変なヤツって思った?」

 どう返すかためらう私の代わりに、月人が口を挟む。

「それは思うでしょう。さすがに変わってますよ、野球を好きなことを隠すなんて。なんていうか、目的が分からない。親に知られたって構わないことじゃないですか」

「目的、か」

 ゴマ君は宙に目をやり、何やら考える。自分から視線が逸れ、私は肩の力が抜ける。

「僕はね、早く大人になりたくてしょうがない子どもだったんだ。小学校のころなんか特に。同級生がみんな馬鹿に見えて、くだらないって見下してた。でもいくら僕が望んだって年をとるスピードは変えられないし、小学生は小学生。大人には勝てないし、相手にもされないって分かってた。早く二十歳になって、大人って認めてもらえるまで耐える以外にないんだって諦めてた」

「マセた子どもですね」

 感心したように口元を引き締める。嫌味のない素直な反応は、ミューズの兄らしいなと思う。

「ところが、そこに神が現れた」

 ゴマ君が得意げに指を立てる。思わず私と月人は、誘われるようにその指に惹きつけられた。

「松坂大輔だ。忘れもしない、僕が十歳のときに彼がプロ野球でデビューした。とにかくすごかったんだよ。十八歳が、大人たちをバッタバッタと三振に取る。当たり前のように歴戦のプロ野球選手をやっつける」

 バッターの再現をしているらしく、ゴマ君は空振りする選手を体いっぱいで表した。天井を向いて仰け反るような空振りは、野球に詳しくない私から見ても痛快にやられていた。

「衝撃だったんだ。年齢なんて関係なく、松坂は自分の力で勝ち続けた。もう夢中だったよ。あんな風になりたいって真剣に思った。毎日自分の部屋で松坂の投球フォームのマネしてさ」

 今度は投げるポーズ。早く大人になりたかったはずの大人が、子どもみたいにはしゃいでいる。一緒に手拍子でもして応援したくなる純粋さがあった。

「それでこっそり、少年野球チームの練習を見に行ったんだ。僕の嫌いなクラスメイトもたくさんいたから、バレないように遠くからみてた。そしたら僕の方へボールが転がってきた。僕よりもずっと小さい、たぶん二年生ぐらいの子が追いかけてやってくる。僕はちょっと驚かせてやろうと思って、松坂のフォームをマネして投げた。僕の剛速球がその子に向かっていく」

「けっこう可愛らしい小学生時代じゃないですか」

 ゴマ君は静かに首を振り、小さく笑った。

「ところが、現実はそううまくいかなかった。剛速球のつもりで投げたボールは、僕の目の前に叩きつけられてどこかに跳ねていったよ。僕はその行方も見ずに逃げた。とにかく恥ずかしくて、誰かに見られていたらと思うと気が気じゃなくて。ああ、自分は松坂どころか、あのバカなクラスの連中や、僕より小さい子よりもずっとダメなんだって知った」

 かっこ悪いでしょ? 私に目配せして同意を求める。私は首を振った。小学生のゴマ君がそこにいて、応援している気になっていた。

「それからは誰にも野球が好きなことは言わなかった。テレビもおちおち見られないから、データが僕の頼りだ。毎日こっそり新聞のスポーツ欄を見てさ。選手名鑑なんて宝の山だよ。成績があれば、十分その選手が活躍する姿が想像できる」

 月人は腕を組んだまま、時折微笑んで聞いていた。ゴマ君の欲した野球の才能を、月人は持て余して野球が嫌いだとまで言う。なんだか、時が過ぎていくことと同じぐらいどうしようもないことってある。

「だから、目的だっけ。今から考えてみれば、親に限ったことじゃなかったんだな。僕は誰にもバレたくなかったってことだ」

 ただね、とゴマ君は含み笑いを浮かべて手を叩く。

「そうだった。この話には続きがあるんだ。僕が、松坂という神を失った後のこと」

「神を失ったんですか?」

「そう。松坂大輔は僕が大学生になった年に、メジャーリーグに行ったんだ。それで、崇めるのをやめにした」

 月人が私に視線を向けてくる。どういうことだろう、と疑問を乗せて。私に分かるはずもなく、同じように小首を傾げる。

「遠すぎてさ。距離じゃないよ? スケールというかな、現実感がなさすぎたんだ。家の神棚にいたぐらいの存在が、とうとうお月様か火星にでも行っちゃった、みたいな」

「それは遠い」

 相づちを打つ月人は楽しそうだ。

「まあ本当は理由を探してたんだな。頭では分かってたんだよ。確かに松坂はすごいけど、自分は何してんだって。多分、神離れをする理由が欲しかったんだ。メジャーに行くことだしそろそろ終わりにしようぜって自分に言い聞かせた」

 神離れ。誰かを崇拝するという経験がなかった私は、その感覚を想像しようと自分に当てはめてみる。不本意なことに、久しぶりに結菜ちゃんの顔が浮かんだ。結菜ちゃんは崇拝の対象というわけではなかったはずだけど、付け入るスキのない一方的なお別れという点では似ているかもしれない。

「それから十年後だ。第二の神に出会った。つまり、僕にとって十年に一人の逸材だ」

 ゴマ君の視線に気づき、月人は疑いのこもった目で自分を指した。名探偵に的外れな指名を受けた時のような顔。

「僕は大学を出て会社に勤めたんだけど、すぐに辞めてさ。それがきっかけで親との関係も最悪になって。プロ野球の試合をスタンドで見ることができなくなったんだ。球場に行ったら知り合いにあったり、テレビに映って親に見られるかもしれないでしょ? 考えすぎだって頭じゃ分かってるんだけど」

 分かる気がした。未知の場所にはミューズがいるような気がして、極力避けていた時期がある。見知った場所ならミューズと合わなくて済むと、根拠もなく信じていた。理屈と気持ちは違う。

「それで出会ったのが社会人やクラブチームのアマチュア野球だ。生で野球を見れて、お客さんはプロ野球と比べるとずっと少ない。プロ野球はテレビで見て、生で試合を見るのはアマチュア野球っていう風に使い分けるようになった」

「そんなきっかけがあったんですか」

「考えてみれば、親や職場の人間やら嫌いな人を避け続けたおかげで、僕は月人という選手に出会えた。こういうのなんて言うんだろう。好きこそものの上手なれ? 嫌い嫌いも好きのうち?」

「どれでもなさそうですね」

 涼しく月人が笑う。

「とにかくさ、月人はカッコよかったんだよ。特に生き様かな。球歴なんて関係なく、実力で誰よりも目立っていたんだ。松坂が年齢なんて関係ないことを証明した姿とそっくりだって思った」

 ずいぶん身近になった神様はそっけなく肩をすくめた。人違いですよ、としらばっくれるような顔。

「これは全て、最近になって思い出したことだ。月人くんに酷いことを言って、自分が恥ずかしくなって。ずっと考えてたんだ。なんで僕は持田月人という選手を応援しているんだろうって。何日も考えてようやく分かった。いつの間にか、僕は月人を応援しているんじゃなくて自分の夢や不満を肩代わりしてもらおうとしてたんじゃないかって」

 時々ゴマ君が言葉を止めると、軽快に弾くようなピアノの音楽が聞こえる。ゴマ君には続けるよう励まし、私たちには耳を傾けるだけでいいと認めてくれているように優しい。

「考えがまとまって、でも今さらどの面下げて月人くんを尋ねたらいいか分からなくて。そんな矢先に、あやちゃんが一緒になずなに行こうって誘ってくれたんだ」

 ゴマ君の指名に覚えがなくて、何かの思い違いかと思った。そうだったんですか、と月人が私に目をやって今日のこの場を指しているのだとようやく理解できた。

「ありがとう、あやちゃん」

「僕からもお礼を言います。ありがとう」

 私は首を振った。私が頭を下げると二人も一緒になって下げて、妙によそよそしい光景だ。

 二人は最近のアマチュアリーグへの嘆きで盛り上がり、ところどころ野球を知らない私に解説をしてくれた。そんな他愛のない時間が過ぎて、いつかの私にとってのチョコレートのように、月人が救いを見つけた顔になっていく。束の間の逃避でもいいと思える時間。でもきっと、私たちは三人とも気づいていた。逃避のあとには、答えを出すべき現実が待っている。

「月人くんが野球をする目的ってなに?」

 現実について、立ち向かうための一歩を差し出したのはゴマ君だった。

「僕には、月人くんが野球に縛られているように見えるよ。家族を巻き込むのが嫌だって悩むのなら、今回の話だって断ればいいよね。月人くんの言葉を借りるなら、僕には月人くんの目的が分からない」

 ファンとしては嬉しいけど、友人としては理解できないよ。と、最後は独り言のように漏らした。

 月人は最後まで目的とやらを話さなかった。

 家に着いたところで、月人からメッセージが届いた。

「二人で会いたいんだ」

 私は了承した。本心では、メッセージを見た瞬間にブロックをかけたいと思ったぐらいだけど。自分でもその真意はうまく掴めない。ただ怒りに任せて指を動かしていた。源の分からない苛立ちとともに、今度は逃げないとだけ誓った。

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