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 決心したことは二つある。一つを果たすため、私はまた懲りずになずなのカウンター席へとやってきた。二回目ということもあって、お父さんは特に意外そうでもなく私の希望を受け入れた。

 本当はデザートを頼んでみたいと思うときもあるけど、収入は減り外出の機会が何となく増えている今、頼れるのはコーヒーチケットだけ。思えば、これが無くなるまでになずなの黒板に絵を描くと決めて早幾日。今日消費すればあと二枚になるわけだ。

 我ながら自分の意気地の無さ、逃避癖とは二十一年付き合ってきている。機を逃せば、また私は逃げてしまうだろう。たとえ真っ暗な夜道だろうと、目をつぶって駆け抜けてしまうこと。それができれば、きっと私は先へ進める。できなければ、永遠に私は無力で無価値で無知なまま。

 やることを決めているというのは、心に余裕と視野の広さを与えてくれた。カウンターの椅子はこうして改めて座ってみると、高くて足が床に届かない。椅子の足に爪先を絡めて、背伸びしてコーヒーを待つ。前回一人で来たときには明らかな椅子の高さの違いに気づきすらしなかった。前回の私と、今の私では別人だという気すらしてくる。だから、第一声を躊躇いなく出すことができた。

「コーヒー、いつも美味しいです」

 予想していなかったのだろう。コーヒーを運んできてくれたお父さんは、分かりやすく口ごもった。一瞬、日本語を忘れたような間があってから答えが返ってくる。

「それはよかった。ありがとう」

 思い出したように、にっこり笑ってヒゲが膨らむ。

「それとチョコレート。あれもすごく美味しかったんです」

 これは想定の中に無い言葉だった。昨日の夜、頭の中で何度も繰り返したシミュレーションにないものが出せた。お父さんを目の前にしたら、チョコレートのお礼もぜひ言わなくてはと思い、実行できた。まるで会話をしているみたいだ。奇跡的だと、高鳴る胸に触れる。手の平の湿りに驚いた。気づかないうちに、両手が汗で濡れている。

「あのチョコレートはうちの自家製だからね。自慢の品なんだよ」

 初めてここに来たときもそう説明されたことを思い出す。懐かしさと、途中から泣いて味が分からなかったことのむずがゆさが交錯して変な気分だ。

「私、このお店が好きです」

 言葉にして、自分の思いを確かめる。

 頭の中にいつかのなずなの風景が浮かんだ。チョコレート色の店内に、オレンジの灯りが揺らぐ。天井から下がる傘つきのランプが並ぶ中で、一つだけ煤けたような銀の蝋燭台が灯す火がある。どうしてその一つだけが他と全く違うのだろう。誰かからの贈り物だろうか。そこで、この風景が私の空想のものだと気づく。

 私の記憶とイメージが混ざった店内だ。頭の中で創り上げた、私が一番好きななずなの姿。銀の蝋燭台が隠しているのは、驚きの真相かもしれないし、笑ってしまうようなくだらない理由かもしれない。隅にある五体のお人形にさえ、兄妹の健気な物語が隠れているのだから。分かるのは、きっとあの、みにくいアヒルの子のような蝋燭台も、このお店の人やお客さんから愛されているのだということ。

「ありがとう。ミューズの友達が来てくれるだけで嬉しいのに、そんな風にまで言ってもらえるなんてね。あの子はいい友達をもった」

 お父さんが目を細める。今もまだ、私の頭の中では空想のなずなが思い浮かんでいた。奥にカウンターがあり、お父さんがコーヒーを淹れている。一番手前のテーブル席で、お母さんとゴマ君がこちらに向かって身を乗り出している。お母さんは肘をついて、ゴマ君は慌てたような苦笑いだ。ミューズは跳ねるように働いている。それは一枚の絵になっていた。コーヒーチケットとミューズへのお礼の手紙を握って、なずなを訪れた日。結菜ちゃんから見放された私を、無条件に受け入れてくれた場所。なずなのために、看板に絵を描きたいと思ったあの日だ。頭の中で、油絵の姿になって出来上がっていた。

 絵の中では月人も立っている。この構図では、月人が座る奥の席は見えないから私に勝手に立たせられ、あの黒板を訝し気に見つめる役となっていた。ああ、これが私の一番好きななずなだ。まだ実現していない、ありえたはずの未来。守らないと、ずっと後悔する。

 私はお父さんに向き直った。

「私、あの黒板の絵を手伝いたいんです」

 私の視線の先に、今では文字だけのメニュー表となったあの黒板を見つけ、お父さんがメガネを持ち上げる。自分で作った黒板に目を凝らし、続けて私に向けて目を凝らした。

「それは驚いた。どうしてまた急に?」

 急にではないんです、と順を追って説明するのは私にとっては無理難題だ。お父さんはきっと奇妙なものを見る目をしているだろうと思うと、視線が痛かった。とにかく言えることだけ言って、これ以上不審人物に映らないよう頑張る。

「絵は、得意な方だと思ってます。いつもこの店にお世話になっているので、お礼になればと。それに、描きたい絵があるんです」

 これは、予定になかったセリフで且つ言わなければよかったと思った。もう手遅れなので、勢い任せで全て伝えてしまう。

「ミューズやお父さんにお母さん、ゴマ君と月人がいる、この店の様子を描きたいんです」

 言ってしまった。シミュレーションと違って、現実の会話は難しい。

「それは賑やかでいい絵になりそうだ」

「だから、ひとつお願いがあるんです」

 私の内なる計画の予定だったけど、もはや説明しないわけにはいかなかった。

「もしまた、みんなが揃うことがあったら、その様子を描かせて下さい。実際にお店にいるところを見て描きたいんです」

 お父さんは俯いた。了承の意味の頷きではなく、何やら考えごとをしているようで、顎に手を当て小さく唸った。

「それは嬉しい話なんだけど、ただ、みんながまた揃うかは」

 分からない、と言いたいのだろうけど、その先の言葉はなかった。

 耳慣れたベルの音とともに、お父さんと同年代ぐらいにみえる男性客が入ってきた。迷わず入り口横の新聞を取って、以前ならゴマ君が座っていたあたりのテーブルへ座る。カウンターの奥からお母さんが出ていくのを見送って、お父さんは私と向き合った。

「ゴマ君のことなら、私がなんとかします」

 ミューズに見るも無残な姿を晒して、私が決めたことは二つ。一つはお父さんに黒板の絵を描きたいと打ち明けること。絵は、なずなを愛するゴマ君もいて完成される。

「ゴマ君が望むかな」

 お父さんの反応は芳しくなかった。私は早くも決意表明を取り下げそうになる。応援してくれるのではないかという、勝手な期待が自分の中にあった。

「この店を始めたばかりのころに、常連になってくれた若い女の子がいてね。看護師を目指す学生さんだったんだけど。毎日のようにここに来て、すごく頑張って勉強してたんだ」

 唐突な語り始め。でも、お父さんの懐かしむ顔には続きを聞きたいと思える力があった。

「たまに差し入れと思って、勝手にデザートを持って行ったりしたもんだよ。そうすると、集中してただろうにきちんと教科書をたたんで、目を見てお礼を言ってくれる。なんとか看護師になれるといいなあって、つい応援したくなる子だった」

 この店が始まった頃というと、お父さんも若かっただろう。お母さんとはもう出会っていたのかな、なんて野暮な想像をしてはまあいいかと頷く。

「その子は、ある日突然来なくなったんだ。毎日のように来ていたのが急に、だ」

「どうして来なくなったんですか?」

 遠い過去のことと分かっていながら、私は幸せな真相を願って尋ねた。

「分からないんだよ。二度と来なかったからね」

「そんな」

「でもきっと、看護師になれたんだと思う。もう試験を受けなくてよくなったから、あの子は来なくなったんだ」

 それはいくらなんでも寂しい結末じゃないか。私ですら、手紙を書くなりして結果を報告しただろう。憤る私の解釈は間違いなのかと思うほど、お父さんは微笑んで続けた。 

「その子は特別印象に残っているだけでね、喫茶店という商売をしていると、そういうことは無限にある。そういえば、あのお客さんはあの時来たのが最後だって、いつもずいぶん後になって気づく。それどころか、来ていないことに気づかないお客さんの方が多いんだと思う」

 私が不服そうにしていることに気づいたのか、寂しい話だと思うかい? と呑気な声をかける。曖昧な私の顔を尻目に、お父さんは続ける。

「でも僕は、それもいいんじゃないかって思うんだよ。この店に立ち寄ってくれる人がいて、離れていく人がいて、また初めて来てくれる人がいる。僕らが提供しているのは、そうやって来たいときに来られる場所なんだ。気を遣ったり、礼儀やつながりにこだわるのは、もっと別の大事な場所ですればいい。これは喫茶店を経営するうえでの、数少ない僕なりのルールだ。ちょっと大げさに言うと、ポリシーというやつだね」

 お父さんは話ながら、時折顔を上げ店内を見渡した。お母さん一人で対応できないと分かったら、すぐに駆けつけるだろう。店内に向ける視線すら穏やかで、店の監督と私の相手を同時にこなしていた。

「だから、僕にとってみればゴマ君も同じでね。このまま来ないのも、またひょっこり顔を出すのも、ゴマ君が望むかどうかが全てだと思うんだ」

 雲行きが怪しいと悟った私に、お父さんは確定づけることを告げた。

「この店の長として言えることは彼を、うちのお客さんをそっとしておいてほしいってことかな」

 なぜ。と疑問を上げたところで、その答弁は完璧に為されていた。開店当初の話をつい最近のことのように明快に話すあたり、お父さんの中で繰り返された議論と答えに違いなかった。その口が指すポリシーは、私なんかが異議を唱えていいものではきっとない。

「ところが、そんなポリシーなんて見せかけの男らしさにこだわっている間に、自分の息子がホモになっちまったという笑い話だな」

 ひゃっ、と私は生まれて初めて出した種類の声でのけぞった。首に、お母さんが持ってきたおしぼりの熱さが触れる。

「うちの男どもは馬鹿ばっかりだ。一人は男だかどうかも定かじゃないが」

 お父さんが長きにわたって積み上げてきただろうポリシーをあっさりこけにし、カウンターでも肘をついた。椅子には座らないまま、私の顔を覗きこむ。首に当てたおしぼりを差し出され、お母さんの思うがまま受け取った。

「何を急に言い出すんだ。お客さんの前だぞ」

「馬鹿親父が、自分勝手なことばかり語ってお客の相手をしないからだよ」

 お父さんは一瞬店内に目をやっただけで、何も答えなかった。話すのを放棄したというより、お母さんの主張を待っているようにみえた。

「あんな場に立ち会わせたんだ、他に言うべきことがあるだろう。あの後で月人を勘当したのかとか」

「そんなことは僕らの口から言わなくても」

「この子は知りたくて来たんだろう?」

 お母さんと目が合う。私は思わず頷く。実の両親から言わせる後ろめたさもあったけど。お母さんのまっすぐな目はウソをつく方が罪深いと思わせる力があった。

「政治家もこの親父も変わらないよ。余計な話でお茶を濁して、説明責任とやらは知らんふりだ」

 一瞬逸れたお母さんの目を追うと、テレビに失言を追及される政治家が映っていた。政治家とお父さんへ、裏表のない同じ温度の愚痴がぶつけられた。お父さんが観念したように頭を垂れる。

「大丈夫だよ。別に何も変わらない。そんな当たり前のこと、言うほどのことじゃないと思うんだけどね」

 お客さんから呼ばれ、お母さんが振り返る。ゆっくりと離れていくお母さんは、最後まで「説明責任を果たしなさい」と訴えているようだった。

「月人がああいう秘密をもっていたとして、親に変わることなんてないんだよ」

 同性愛者、という概念は人によって表現の幅があることに、この一連で気づいていた。差別的な意味を含めたり、あるいはフラットな呼称として選ばれるものもある。その中で、代名詞はより戸惑いを受けている人の使う呼び名に思えた。「あんな」とか「ああいう」とか。

「あとは? 他に言いたいことがあるなら、今全部言っちゃいな」

 颯爽と戻ってきたお母さんが、通りすがりに口を挟む。いつもの、お父さんが働いている光景とは真逆だった。

「えっと、じゃあ」

 せっかく後押ししてもらっているようなので話すことにする。

「私、無理やりゴマ君を連れてくるつもりはないんです。ゴマ君も、戻りたいけどきっかけがなくて戻ってこれないだけなのかもしれません。だから、ゴマ君に話を聞くだけでもしたいんです」

「いいじゃないか、反対する理由なんてない」

 手を拭きながらお母さんがカウンター奥から出てきた。お父さんが目で制する。

「ゴマ君にはゴマ君の考え方があるんだよ。彼だっていい大人なんだぞ」

「あいつに考えなんか無いよ。勢いと見栄だけで生きてるんだ。あんなのでも、いてもらわなきゃ困る人間がここに二人いる。無意味に放り出しておくよりはここにいた方が有益ってもんだろう」

「二人?」

 私が首を傾げると、お母さんは親指で自分の背中側、いつもゴマ君とお母さんが座っていた席を指さした。

「見てみな、あの不自然な配置を」

 促されるまでは気づかなかったけど、確かに不自然だった。天井に設置されたテレビの前の、二人御用達席は空いているのに、その両側のテーブルには飛び石ながらお客さんの姿がある。先ほど入ってきた男性客も、テレビの真横に近い場所から首を痛めそうな曲げ方をして見上げている。まるで、予約席かのように真ん中だけが空いていた。

「避けられてるんだよ。常連がゴマオが来るかもしれないからって他の席に座るもんだから、初顔のお客さんまで深読みしてあそこを避けて座る」

 迷惑そうにお母さんの鼻が鳴る。

「おかげで私があそこに座れないんだよ。客もいないのに座っていたら、サボりになるじゃないか」

 どこまで本気か分からず、笑うべきか迷っていたけどお母さんの表情は未だ険しい。私は笑わないでおいた。

「僕にだって意地があるんだよ」

 目は客席に向けたまま、お父さんは口だけ動かした。

「お客さんに必要以上にこちらから干渉しないというのが、僕の、この店のやり方だ。今までずっとそうしてきたじゃないか」

「本当に。どこまでダメなんだろうねこの親父は」

 新しい来店者を告げるベルが鳴る。お母さんは一度お客さんに目を向けて、またお父さんに振り返った。

「ポリシーとかやり方だなんてのは、自分で壁をでっち上げているだけだろう。月人を見てみろ。性別のポリシーすら超えてるっていうのに。そんなつまらないもの、あの子の親ならぶっ壊して丸い頭になってみろ」

 言い終わるとほぼ同時に、お母さんは入り口へと駆け寄っていった。一オクターブ上の、よそ行き声になったお母さんの切り替わりはたくましく見えた。

 お母さんが立ち去ると、私とお父さんのいるこのカウンターだけ、打ち上げロケットから切り離された気分だった。窓の外みたいな店内を見据え、お父さんは息を漏らした。

「いろいろ、僕に言いたいことがあるんだろうなあ」

 勝手な話だけど、お母さんを応援する側でいたつもりが、このときのお父さんの顔を見ると鞍替えしそうになった。それぐらい、萎んだ顔をしていた。

「ゴマ君のことを、お願いしていいかい?」

 私はすぐ返事をしなかった。言葉通りの他に意味などないだろうに、もう一度、お父さんの意思を確かめたかった。

「月人のことまで引き合いに出されて、改めないわけにはいかないよ」

 諦めた、とお手上げのポーズ。私が頭を下げると、お父さんはすまないね、と呟いた。そろそろ手伝わないと、後から何を言われたか分かったもんじゃない。とカウンター奥に向かおうとして振り返った。

「本当はどうしたらいいか分からないんだよ」

 なんのことだか分からず、ただお父さんを見つめる。

「月人のことをね。どう付き合えばいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、受け入れたらいいのか叱るのがいいのか、まるで分からない。ただ間違いないのはね」

 お父さんは灰色の眉毛を寄せて目を細めた。

「何があっても、月人はうちの自慢の子どもだ」 

 それだけ言い残して、カウンター奥の定位置へ向かった。見送った私は、店内が落ち着いたときに会計をしようと手元のコーヒーカップを見つめる。今しがたの会話を思い出して、少し肩の荷が下りた気がした。懸命に自分の戸惑いを隠して立ち続けるお父さんと、言葉は激しいけど最強の理解者であるお母さん。あの両親だから、正直に打ち明けようと思えたんだろう。月人の考えはきっと正しいと思えた。

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