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改めて情けない話だけど、ミューズから連絡が来たときは嬉しかったし、それ以上に安堵した。
私がなずなに出向いた日の夜、誰からも連絡が無かったことへの動揺ぶりからも、自分が邪な期待をもっていたことに気づかされていた。結局のところ、私は自分がお父さんに話しかけるよりも、お父さんが家族に私の来店を話してくれることに賭けたのだ。
一日、二日と経って期待することを投げた頃に、ミューズからのメッセージが来た。
『うちの店以外のところで会えない?』
お父さんから話があったのかは分からなかった。
なずなから離れたところがいいというミューズの希望で、一つ隣の駅前から数分歩いたファミレスで落ち合った。オレンジジュースを一口飲んだミューズが、先日の件と呼び出したことを詫びる。
私のその後を気遣って声をかけてくれるけど、私はといえばミューズが用意しているだろう本題ばかりが気になっている。上の空の私に気づいてか気づかないでか、ミューズは近況を切り出した。
「あれからゴマ君、一度も来てないの」
やっぱり、というのが率直な感想だ。なずなでゴマ君を見かけなかった時に、そんな気がしていた。
「連絡したら返事は来るんだけどね。ただ、そっとしておいてほしいって。変だよ、私ら家族よりもショックを受けてるなんて」
家族、という言葉に思わず反応した。見開いた私の目に気づいたのだろう、ミューズがそちらに話題を向ける。
「いや、正直分からないんだけどね。うちらの家はあれから、誰もあのことを話さないから。親父は多分、あの時に言ったそのままなんだよ。月人が話したいなら話せばいいし、話したくないならそれでいいって思ってる。おっかあが、あの母親までが何も言わないってのは意外なんだけど」
なずなにいる時と違い、親父、母親と言い直す姿によそよそしさを感じた。おどけて、おとう、おっかあと呼ぶ姿が今となっては名残惜しく思える。
「もしかして逆かな。言葉にできないぐらい、ショックってことかな」
自問自答して、ま、知らないけど。とあっさり疑問を片づけた。
「月人も変わった様子はないよ。何も言わないし。普通に仕事行ってるし。ただ」
ただ、と言いかけてミューズは唇を尖らせた。含みだけもたせて、早々に話題を変えてしまう。私はそれを見ているしかない。
「ひとまず、月人のことはいいの。それより、今日来てもらったのはもっと別の話」
言葉を止めて、ミューズはオレンジジュースが入ったグラスに手を伸ばす。飲まずにただ眺めて、右手から左手へ短い距離を弄んだ。今この場でどうするべきか、グラスに助言でも求めているみたいだった。
「先に教えて。あんたが、戸村がこの話をしたいかどうか。もし戸村が蒸し返したくないなら、私は忘れるから」
ミューズが言わんとすることが理解できて、私は思わぬ選択を迫られる。私の答えは、ミューズが言い終わり、なずなより薄いコーヒーに口を付けて離すまでの間に決まった。
「私が昔、戸村にしたことの理由を知りたいかどうか。それをまず教えて」
戸村にしたこと。ミューズのためか、私のためか濁されたその言葉。水浸しの私、逃げ場がない私、結菜ちゃんを探す私。惨めな私が次々浮かんで、その背景にももっと小さな、でも確実に私を追い詰める数々が埋もれている。
私は頷いた。知りたい、と意思をこめた。もう、人の気持ちを知らないままで過ごすのはたくさんだった。私と同じように頷いてから、ミューズは話し始めた。
「分かった。じゃあ、話す」
もう一度私は頷いた。
「月人が同性愛者だなんて、私はとっくに知ってたんだよ。だって兄妹だよ? 普通気づくじゃん」
私は戸惑った。どうして急に月人の名前と、同性愛者の件が出てくるのか、理解が及ばなかった。
「っていうのはウソ。夢にも思ってなかったんだよ。私たちが中学生になる前ぐらいまでは」
胸がざわつく。中学生になる前、というのはミューズから私への仕打ちが始まったころでもあった。私は思わずミューズを見つめた。
「隠したって仕方ないから、モロに言うよ。私は見ちゃったの。いつも遊びに来てた月人の友達と月人が、キスをしてたの。男同士でよ。最悪でしょ」
ほんっとに、最悪。よほど思い出したくないのか、ミューズの呟きは記憶を振り払っているように見えた。
「月人はバレたって気づかなかったみたい。私、どうしたらいいか分からなくて、とにかく見つからないように逃げたの。私の方が悪いことしてるみたいに」
私は頷きかけて止めた。どういう顔で聞いたらいいのか、誰か教えてほしい。
「その時の相手、それまでに家で何度か見かけたことがあったんだけど。それが戸村と同じだったの。全く話しかけても喋らない、変な……ごめん、当時は変なやつって思ったの。私が挨拶しても頭を下げるだけで、一度も声を聞いたことがない。だから見ちゃったときも、月人は喋らない相手と部屋で何してるんだろうって、こっそり覗いちゃって。それであんなことに」
私の意識は、私と同じ症状だという男の子へ向いていた。半信半疑だったけど、病名が存在するぐらいだから世の中には一定数自分と同じ分類の人がいるのだ。二百人に一人、という確率を耳にしたことがあったけど、自分以外の当事者を知るのは初めてだ。
「今になってさ、やっとほんの少しだけ分かるんだけど。月人だって相手だって、何も悪いことなんてしてないでしょ。でもあの時の私は受け入れられなかった。小学校六年生で見たんだよ。正直、自分で改めて考えてもキツイと思う。とにかく月人も相手も、汚い、近づいてほしくないって思った」
私の記憶にある、一番最初の頃のミューズはいつも活発で男子も女子も自然と人が集まってくる子だった。だからこそ私だけに向けられる敵意が怖かった。明るい表向きの顔だけではやり過ごせないほどに、小学生には衝撃が大きい経験だったかもしれない。
「それで、最低最悪な私は戸村を見るたびに腹が立つようになった。頭ではなんの関係もないって分かっててもね」
私はまたしても、どんな顔をしていいか分からなくなる。正当な理由でも的外れな理由でも、もう何年も前の話だ。怒りを新たにするにも、理不尽さから解放されるにも、時間が経ちすぎていた。
つまり、戸村は八つ当たりでいやがらせをされてたってこと。そうダメ押しのようにミューズが付け加えても、私の心に熱は入らなかった。
「家にいると何度もあいつらを見かけてさ。どんどん家にいるのが嫌になった。両親にも話せないし。私が安心できるのは学校の時間だけだったの。それなのに、学校でも戸村を見るたびに思い出すのが本当に嫌だった。戸村からすれば、こんな迷惑な話無いよね」
口に出すほど、ミューズの声はしおらしく小さくなっていった。時折顔を上げる時は、自分にムチを打つように声をふり絞っていた。
「私が謝らないといけないのは、それだけじゃないよ」
彼女の指すものが、これ以上彼女自身を追い詰めるものではないことを祈った。
「戸村を月人に会わせたのは、月人が戸村のことを好きになるかもしれないって思ったから。昔の彼氏と同じ、喋らない戸村を見たら、月人の病気が治るんじゃないかって思ったの。私はあんたを利用したってこと。最低でしょ?」
最低だ。私にはむしろ、中学生がショッキングな出来事の憂さ晴らしにいじめをするよりも、二十一歳のミューズがしでかしたことの方が遥かに悪質に思えた。私に対しても月人に対しても、人の気持ちを無視した愚行だ。間違いなく苛立ちを覚えていた。それでも、なんの習慣だか私は自分の感情を隠してしまっている。
「私は、どんな方法を使ってでも月人を治したいの。今だってそう思ってる」
私がスマホを取り出すと、ミューズが注目を向けたのが分かった。たった四文字に集約されることになったのは、手が震えておぼつかないためだけではない。理由や前置きをつけない方が、ミューズの心を刺すだろう。ささやかでも、仕返しになればそれはそれでいいと思った。
『なんで?』
私の本心をこめた、四文字だけの画面をミューズに見せる。だって私には理解ができない。ミューズの言葉を借りるなら、『治る』ものではないだろう。あるいは治る方法があるとして、月人がそれを望むだろうか。ミューズにだって、それは分かるのではないか。十一歳の頃からずっと固執して、変えないといけないほどのことなのだろうか。
「なんでって、そんなの」
身をすくめそうな自分をとりなし、顔色も変えないように振舞った。ミューズが今にも爆発して、中学時代のように私を罵る気がした。それほどミューズの声は揺らぎ、何かを吐き出そうとしているのが伝わってきた。
「分かんないよ、私にも」
ミューズがしな垂れ、私も息をつく。自分の肩に入っていた力の大きさに驚く。何年経ったとしても、染みついた警戒心は簡単には解けないのだと思い知った。
「あんたは、戸村は治りたいと思わないの」
ミューズの問いかけは、私の心を読んだみたいだった。ミューズが月人を治したい、と口にするたびに私は考えて詰まっている。少し前なら、迷わずに治らなくていいと答えていた。それがいつからか、話せるようになりたいのかもしれないと考えるようになっている。相づちのひとつでも、打てるようになりたい。
私は首を振った。
「じゃあそうでしょ? 普通じゃないなら普通になりたいって、誰だってそうなんじゃないの。それを家族が願うのはいけないことなの?」
私は握りしめたままのスマホで、言葉を打とうとした。闇雲に打っては消して、予測変換の中に答えがないか探したりもした。あるはずもなくて、指を止める。
「ごめん、めんどくさいこと言って」
私をかばうというより、見限ったように見えた。ミューズは疲れを隠さず、宙を仰いだ。
「戸村もさ、治りたいんだったらそれ、止めれば?」
ミューズが私のスマホに目を向け言う。
「そうやって道具に頼ってるから、余計にしゃべれないんじゃない?」
違う、と言い返したかった。今だってもし自分で話すと想像したら、考えただけで正気が保てなくなりそうだ。スマホに『違う』と打とうとしたけど、指が動かない。つい十日ほど前、車掌さんとためらいなく話せた場面が浮かぶ。本当は話せるの? 自分の声が頭の中で響いた。頭に虫でも入ったような受け入れ難さを、大声で叫んでかき消したかった。
「ねえ、大丈夫?」
よほど顔色でも悪いのだろうか。ミューズが心配そうに顔を覗きこむ。私は一層見られたくなくて、手で覆った。
私はウソをついていたんだろうか。子どもの頃からずっと。一体誰に、何のために。自分にだろうか。自分を騙して、話せないとウソをついていた? そんなはずはない。じゃあなぜ。ぐるぐると渦に吸い込まれていきそうな気持ちの悪さ。吐き気さえしてきて、助けてほしい、切実にそう願った。
「戸村、もういいよ! 道具に頼ってるなんて言って悪かったよ。そんなつもりじゃなかったの」
隣から肩を抱くミューズに、私は助け出された。返事の代わりに、ミューズの肩に頭を預ける。スマホを使えばいいのに、そうできなかった。きっと今スマホを使ってもミューズは咎めない。分かっていても、私自身が嫌だった。もう、逃げたくない。自分の声で伝えたい。ミューズの目を見て、私は懸命に口を動かす。バカみたいだけど、何を言うかも考えていないのに声を出していた。
「あ、あ」
不格好な声。でも止めたくなかった。ミューズはまっすぐ私と目を合わせたまま、ただ居場所を貸してくれていた。言葉にしたい。伝えたい。思うほど、喉が締まっていく気がする。もしかしたら、絞り出せば何かを発せられるかもしれない。微かに顔を出す期待と、やっぱり隙間風みたいな音しか出せない声との間ではち切れそうになっていた。
ミューズの後ろ、空席が目立つ店内でありながら、トイレに向かうらしき女性と目が合う。はっとして私はミューズから離れた。ファミレスの席に横並びでくっついている姿が異様に映ったのだろう。女性は言い訳がましく、足早に離れていった。
「ごめん。余計なこと言って」
自分の席に戻るミューズに、私は首を振った。
余計なことなんかじゃない。おかげで、自分の中に押し込んでいた気持ちを知れたんだ。私は決意を固めることができた。胸に手を当て、浅くなった呼吸を必死に整えているとなぜだかいつかの姉の言葉が浮かんだ。
『あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる』
話せる人間と話せない人間。姉の言う通り、確かに少し前までの私はそう思っていたんだろう。でもミューズや月人や、なずなの人たちと一緒にいるうちにだんだん分かってきた。今のままじゃ私は、話ができない上にダサくて間抜けで意気地なしなやつだ。




